1945年8月15日、日本は戦争に負けた。
そのたった半日前に、「最後の空襲」に襲われた街があった。終戦があと1日早ければ奪われる必要のなかった266の命が、そこで犠牲になった。
8月14日午後11時半ごろ。
ちょうど、昭和天皇が玉音放送を録音しはじめようとしていた頃だ。数十機のB-29が、房総半島付近から侵入した。
向かった先は、埼玉県熊谷市だった。総務省の「熊谷市における戦災の状況」の冒頭には、こんな文書がある。
「昭和20年(1945年)8月14日、この日は熊谷市民にとって永久に忘れることのできない日である」
当時のアメリカ軍は、飛行機の機体やエンジンを製造していた「中島飛行機株式会社」の重要な拠点が熊谷市にあるとみていた。それゆえに、空襲のターゲットとされていたという。
「夕立雨のように」降り注いだ焼夷弾や照明弾。被災の状況は悲惨だった。先の総務省の資料ではこう記してある。
市街地は瞬時にして火の海と化した。火に焼かれる者、傷つき倒れる者、逃げまどう人たち、子を探す親、父母を求める子どもなど、阿鼻叫喚の地獄であった。
街は一面の焼け野原となり、多くの犠牲者が星川に、防空壕の中に、道路や溝に焼け死んでいた。特に星川付近は100名近い焼死者が重なっており、悲惨の極みであった。
12時間後には戦争が終わることになっていたにもかかわらず、無情にも落とされた爆弾。量にして約8700発。重さにして600トン近くだ。
この空襲で、市街地の3分の2が焼き尽くされた。全戸数の4割にあたる3630戸が被災。266の命が奪われ、約3千人が負傷した。
街を焼けつくした火は戦争が終わった後も数日間、くすぶったままだったという。
「アメリカの政府や軍は勝つと、日本側は負けるとわかっていたときの空襲ですよね。亡くなった人たちは、死んでも死にきれないですよね」
BuzzFeed Newsの取材にそう語るのは、熊谷空襲を伝える映像作品「8.14,2330 ー最後の空襲、熊谷ー」をつくった映像作家の関根光才さん(41)だ。
表現を通して社会に「今までとは違う視点」を提供しようと活動するチーム「NOddIN」に参加していた関根さんは、戦後70年だった2015年、その展覧会に向け、戦争に関する作品をつくろうとしていた。
構想を練っていたころ、一緒に製作に携わっていた知人の映像プロデューサーがこうつぶやいたことが、作品をつくるきっかけになったという。
「終戦直前に、うちの街は爆撃をされたんだよね」
関根さんは、その話を聞くまで「最後の空襲」の存在を知らなかった。そのうち一つのターゲットが、熊谷であった、ということも。
「僕、その話を知らなかったんですよ。熊谷では知られている戦災であっても、戦争を知らない世代が増えることで、消えようとしている。起きたことを若い人たちに伝えなくちゃいけないと思ったんです」
数週間かけて、取材を重ねた。熊谷市に残っていた資料を紐解くだけではなく、実際に空襲で被災した人たちを探し、その証言も記録した。
そして完成した動画は、こんなナレーションから始まる。
玉音放送により、太平洋戦争での日本敗戦を国民が知ることになる、わずか半日前。その街は、炎に包まれた。
被災した女性たちによる、こんな言葉もある。
「もう、怖くて。焼夷弾が落ちてくるところを縫って、裸足で逃げたの。なんとか自分の命が助かればと思って、それで頭がいっぱいでしたね」
「川は焼夷弾でお湯になって。みんなあの中で火傷して、死んじゃったんだよ」
そんな映像には、被害の状況だけではなく、B29に乗っていた元アメリカ兵の「爆撃をしたくなかった」という証言も載せている。なぜなのか。
「被害にあった人たちの怨嗟や絶望、悲しみや苦しみだけを塊にして出したくはありませんでした。『あいつら何をしたんだ』という憎しみを生むことに、つながってしまうかもしれませんから」
憎しみは憎しみを生むだけだ、と関根さんは言う。
「悪いのは戦争であって、人同士ではありませんよね。戦争そのものへの憎しみは必要だけれど、人対人や国民対国民、民族対民族の憎しみが生まれてしまったら、永遠に戦いは終わらない」
「この作品が、お互いが理解しあい、受け入れていかざるを得ない過去を考えるきっかけになれば、と思っています」
熊谷空襲から72年と4日が経つ、2017年8月18日。関根さんはアメリカ・シアトルのイベントで、この作品を流す予定だ。