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77年前の12月、南海トラフで起きた「消された地震」 被害はなぜ、隠されたのか

東南海地震による死者は1230人(918人との説もある)。全壊家屋は2万6130戸に及んだ。津波の被害も大きく、3129戸の家屋が流出した。三重県の尾鷲で9mの津波を観測している。

いまから77年前、1944年12月7日午後1時36分。三重県沿岸でマグニチュード7.9の大地震が発生した。

伊豆半島から三重県南部までの広い範囲を津波が襲い、死者1千人を超える大災害となった。

しかし、当時は太平洋戦争のさなか。言論統制が激しく、この「東南海地震」の詳細は報道されることなく、「隠された地震」「消された地震」とも呼ばれた。

bousai.go.jp

愛知県半田市の被害(1944年12月7日、同市役所撮影)

震源は南海トラフ沿い。三重県や静岡県の沿岸部で震度6を観測したが、のちの調査では、愛知県内で震度7の揺れがあった可能性も指摘されている。


内閣府「災害教訓の継承に関する専門調査会」の報告書(2007年)によると、東南海地震による死者は1230人(918人との説もある)。全壊家屋は2万6130戸に及んだ。

津波の被害も大きく、3129戸の家屋が流出した。三重県の尾鷲で9mの津波を観測している。

愛知県では438名と死者数が最も多くなった。軍需工場が被災したことが被害を大きくした。

なかでも中島飛行機(半田市)の工場では、明治時代の紡績工場を改造したレンガづくりの建物が倒壊し、153人が亡くなっている。死者には、女学校や中学校から動員された10代の学徒が96人も含まれていた。

工場では軍事機密を守るため、出入り口がひとつに絞られ、ついたても設置されていた。揺れに気がついた人々がそこに殺到し、団子状態になったまま、倒れたレンガの下敷きになったという。また、部品などを製作するため、紡績工場時代の柱が切り取られていたことも、倒壊の原因とされている。

1944年12月といえば、太平洋戦争末期で、本土空襲が始まったころだ。国民の戦意喪失や軍需工場の被害などの情報流出を防ぐため、被害は隠された。

行政のなかでも、箝口令が敷かれていた。愛知県では12月10日、県内政部長が各市町村長に「極秘」の通知を出したという。その内容は、以下の通りだ。

「此ノ程度ノ災害ニテ士気ヲ阻喪スルコトナク、……寧ロ神ノ与ヘラレタル試練トシテ……県民打ツテ一丸トナリ之ニ対処スル」

報道されなかった被害

当時の朝日新聞

地震翌日の朝日新聞。1面は昭和天皇の写真が大きく掲載された一方、地震に関する記事は3面の「ベタ記事」だった。

報道管制下にあった新聞も、この震災を大きく報じることはなかった。

内務省の新聞検閲係は、「戦力低下ヲ推知セシムルガ如キ事項」に当たるとして、軍需工場や軍の施設、鉄道などの被害状況の掲載や、被害現場の写真の報道も禁じる通達を出した。

さらに翌日の12月8日が、太平洋戦争の開戦記念日である「大詔奉戴日」だったことも影響した。朝日新聞や読売新聞などの全国紙は記念日の報道に紙幅を割き、1面トップは昭和天皇の肖像写真などで埋められた。

一方、震災は「ベタ記事」として扱われた。被害の詳細は明らかにされず、「被害微小」という言葉でごまかされた。前出の報告書では、「マスメディアは、真実を伝えることすらできなかった」と指摘している。

地元紙・中部日本新聞(いまの中日新聞)でもそれは同様だった。被害情報については大きく伝えず、被災者の美談ばかりを連日のように強調したという。

「家はなくとも身体あり、この意気が勝利の力」「震災は天の試練、隣人愛に明るき復旧」「自宅倒壊にも帰らず、生産死守、職場の挺身」(いずれも12月9日付)

一方で、配給や見舞金、無料の臨時住宅の案内、税金の免除など、被災者向けの情報は詳細に掲載していた。この点は、地元紙ならではと言えるだろう。

敵国だったアメリカでは、この地震が大きく報じられていた。「ニューヨーク・タイムズ」は日本政府が被害を隠蔽しようとしている、とも伝えている。

1ヶ月後にも震災が…

国立公文書館 / Via archives.go.jp

報道各社に通達を出したことを記した内務省警保局図書課新聞検閲係の『勤務日誌』(1944年12月7日)

この地震の37日後。1945年1月13日午前3時38分に、内陸直下型の三河地震が発生した。

未明の地震で、就寝中に家屋の下敷きになった人が多く、三重県や愛知県で2306人の死者を出した。しかし、この地震の被害も隠されることになった。

これらの地震では、研究者や気象台職員による現地調査も行われていた。しかし、その結果が公表されたのは、戦争が終わってからだった。この過程で、消えてしまった調査結果も少なくないという。

前出の「災害教訓の継承に関する専門調査会」の報告書は、この地震の教訓を次のようにまとめている。

大地震はめったに起こらず、発生してしまった災害からは可能な限り多くのことを学び後世に伝えることが災害に強い社会をつくっていく上で欠かすことができない。東南海地震・三河地震の教訓は、調査をするだけでなく、速やかにその記録を書き記し、公表していくことの重要性を教えてくれる。

終戦後の翌1946年には、昭和南海地震が発生。徳島や高知を津波が襲い、1330人の死者が出た。「隠された地震」である東南海地震とともに、70年以上が経過していることから、いま、南海トラフ巨大地震の切迫性の高さが呼びかけられている。将来の被害予測に、当時の調査結果が生かされているのは、言うまでもない。


参考文献

  • 1944 東南海地震・1945 三河地震(災害教訓の継承に関する専門調査会, 2007年)
  • 災害史に学ぶ 海溝型地震・津波編(同上, 2011年)
  • 隠された地震の記録 ―東南海地震と三河地震―(国立公文書館, 2015年)
  • 報道規制された地震被害-NY紙は大きく報道(吉村利男, 三重県史編さんグループ , 2003年)
  • [証言記録 市民たちの戦争]封印された大震災 ~愛知・半田~(NHK, 2011年)