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学生たちの悲劇は、あの競技場から始まった 目撃した女性が託した想いとは

「学徒出陣壮行会」は、降りしきる冷たい秋雨のなかで開かれた。

いまから75年前の10月21日、多くの学生たちが戦地に送られた。

太平洋戦争末期の1943年。兵員の不足から、20歳以上の学生の徴兵猶予が解除された。いわゆる「学徒出陣」のはじまりだった。

壮行会は当時の文部省が主催し、全国各地で開催された。日本の領土だった台湾や、事実上の統治下に置かれていた満州国も含まれていた。

東京・明治神宮外苑競技場には、関東地区の77校から数万人の学生が集まった。冷たい秋雨が降りしきるなか、東条英機首相はこう訓示した。

「諸君が悠久の大義に生きる、ただ一つの道なのであります」

これに対し、代表の東京帝大生は「生等もとより生還を期せず」と答えた。

21年後、同じ場所で開かれたもの

壮行会が開かれた明治神宮外苑競技場は、のちの国立競技場と同じ場所にある。悲劇の幕開けから21年後、東京オリンピックの舞台となる場所だ。

観客席には、多くの女学生たちもいた。2017年に亡くなった小説家の杉本苑子さんは、学徒出陣壮行会と、オリンピックの開会式の両方に参加していた。

1964年、共同通信に寄せた「あすへの祈念」という寄稿は、このような文章から始まる。

二十年前のやはり十月、同じ競技場に私はいた。女子学生のひとりであった。出征してゆく学徒兵たちを秋雨のグラウンドに立って見送ったのである。オリンピック開会式の進行とダブって、出陣学徒壮行会の日の記憶が、いやおうなくよみがえってくるのを、私は押さえることができなかった。

杉本さんは、両方の式典で歌われた「君が代」、そして掲げられた「日の丸」の意味の違いの不思議さ、そして恐ろしさをこうも記している。

きょうのオリンピックはあの日につながり、あの日もきょうにつながっている。私にはそれが恐ろしい。祝福にみち、光と色彩に飾られたきょうが、いかなる明日につながるか、予想はだれにもつかないのである。私たちにあるのは、きょうをきょうの美しさのまま、なんとしてもあすへつなげなければならないとする祈りだけだ。

2020年に東京オリンピックのメイン会場となる新国立競技場ができるのも、同じ場所だ。それは、戦後75年の節目の年でもある。

奪われた青春

「あの日」から学生たちは次々と戦場に送られていった。

翌1944年10月に徴兵の年齢を19歳に引き下げざるを得ないほど、戦況は日に日に厳しさを増した。壮行会が開かれたのは、第一陣だけだった。

出陣した学徒は計13万人とも言われている。

しかし、その総数も、戦死者数も、明らかになっていない。文部省にさえ、記録が残っていなかったからだ。

多くの学生が、国に青春を奪われた。元早稲田大生で学徒兵だった松本茂雄さん(93)は、BuzzFeed Newsのインタビューにこう答えている。

「戦争によって、自分の人生は変えられてしまった。もうずっと、心から笑うことが、できていないんです」

「戦争がなければ、したいことはたくさんあった。はっきりしたいんですよね。自分や死んだ戦友たちに起きたことは、なんだったのか。だって、それが私なんだから」

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