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「命カエシテ」強いられた堕胎、奪われた人生。俳優が見つめ続けた隔離の記憶

「命カエシテ」と刻まれた、石碑がある。

かつて、多くの人の自由が、そして生まれてくるはずだった子どもたちの命が、国によって奪われたという事実を伝える、短くも重たい言葉だ。

この石碑があるのは、群馬県にある「国立ハンセン病療養所栗生楽泉園」。国の隔離政策に基づきつくられたこうした施設は、全国に13ある。

「誰かを差別し、壁をつくってしまう心が、自分のなかにないわけじゃない。それが肥大化して、こうしたことが起きた。知っていけばいくほど、そう思うようになったんです」

療養所をめぐり、その歴史にカメラを向け続けてきた俳優・石井正則さんは、そう語る。

石井さんが撮影した写真はいま、「国立ハンセン病資料館」の展覧会で展示されている。

世界から切り離され、自由も命も名前も奪われていた13の園で、彼は何を見たのだろうか。

そもそも、ハンセン病とは

ある日、病にかかったあなたは強制的に施設に隔離された。新しい名前を名乗るように強いられ、壁で囲まれたなかで、同じ病の人たちと共同生活をすることになった。

病が治ったあとも、施設から出ることはできなかった。出会ったパートナーとの間に子どもができたが、無理やりに堕胎させられ、去勢手術も受けさせられた。胎児の遺体は、標本にされた。

あなたは、その後も施設から出ることはできなかった。社会からの差別や偏見の眼差しが注がれ、出かけることもままならなかった。そしてあなたは一生涯を、その塀の中で終えることになったーー。

これは決して、つくり話ではない。この国で、ハンセン病の患者だった人たちに対し、実際に行われていたできごとだ。

1996年まであった、「らい予防法」に基づいて進められた「隔離政策」。国内には、患者を隔離する国立の施設がつくられ、人々は家族のもとを引き離され、強制的に収容された。警察や行政が旗振り役となり、地域の人たちも、それに加担したとされる。

病を理由に中絶や断種をさせられる夫婦たちもいた。国の「ハンセン病問題に関する検証会議」の最終報告書によると、1949年から96年までハンセン病を理由に不妊手術をされた男女は1551人。堕胎手術の数は、7696件に及ぶ。

特効薬が日本で用いられるようになってからも隔離政策は続き、社会、そして人々に深い差別意識を根付かせた。

いまでも、全国に13ある国立療養所には、1090人(2020年5月1日現在)が暮らしている。平均年齢は、86.3歳だ。

ワイドショーの延長に

「13の園をまわって写真を撮っているうちに、これは十二分に起こりうることなんだって。いま、起こらないとも限らないことなんだってことを、すごく意識するようになりました」

日本にあるすべての国立療養所をめぐり、写真に収めてきた俳優、石井正則さん(47)はBuzzFeed Newsの取材にそう語る。

「突然変異的に起こったことではなくて、いまの日本でもニュースやワイドショーで話題になっていることがさらに加速していって、誰も止められない状態になって、大きくなって至ったできごとだったんだ。つまり、いま僕らが目にしている問題の延長線上、地続きにあるんだ、と感じています」

「そう考えてしまう自分も怖いのですけれど、知れば知るほど、同じようなことは起こりうると感じてしまうんですよね。僕は逆に『なんでこんなことが起きたんだ?』って言ってる人のほうが怖いです。十二分に起こりうることであるという前提に立たないと、見誤る可能性がある」

明らかに違う「空気」

ハンセン病。その名前は聞いたことがあったとしても、その病にかかってしまった人たちがどのような人生を強いられてきたのか、石井さんはまったく、知らなかったという。おそらく、多くの人たちと同じように、だ。

「こうしたできごとは、自分が想像できる世界の外にあると思っていた。でも、そうじゃない。想像のできる世界のなかの、できごとでした」

テレビのドキュメンタリー番組がきっかけで、ハンセン病と出会った。過去の問題でも、海外の問題でもなく、「いま起きている話なのか」という驚きを覚えてから3年ほど。はじめて訪れたのが、東京都東村山市の多磨全生園だった。

園内は地域の生活道路にもなっていて、住民たちも出入りしていることを知った。とりあえず散策をしようとの思いで、門の中に入った。

「隔離されていた内と外で、入った瞬間から空気が違うんですよね。重たくなるというか。人それぞれ感じ方違うと思いますが、でも、明らかに外の世界と違うということははっきり感じることができる」

「この、入った時の感じを真空パックしておかないといけないと、初めて療養所に入った数分後にシャッターを切っているんですよ。ここにこういった被写体があるから撮るのではなくて、とにかく何かシャッターを切っておかなきゃいけないって。この空気を、閉じ込めておかなきゃいけないっていう」

歪さを残すため

ハンセン病療養所は、その「隔離施設」という特性から、町から離れた不便なところにあることがほとんどだ。

脱走を防ぐために塀や、その代わりになるに木々に囲まれていたということもあり、空気感はまわりと、異なる。入所者たちが衣食住をすべてこなせるため、さまざまな施設が揃っていることも特徴のひとつだ。

住宅に加え、商店や理容店、さらには教会や寺などの宗教施設が、小さな園内にぎゅっと詰め込まれている。専用の刑務所や、小学校、中学校、そして高校まで整備されていたところもある。

多くの人たちを塀に閉じ込め自由を奪い、そこで人生を終えるまで過ごすようにつくられた施設。その歪な「空気」を残していくため、石井さんはカメラを向けた。

使っているのは、「8×10」(エイトバイテン、バイテン)という大判カメラ。それまでは、レトロな喫茶店の「場所の持つ記憶」を残すためなどに使っていた。

「いまはデジタルカメラのほうが綺麗なくらいなんですけど、それで収めきれないものを収めることができるカメラだから」と石井さんはいう。

組み立てれば、自分の背丈よりも大きくなる「バイテン」を背負い、北は青森から、南は沖縄まで、園を回った。「自分の感情は邪魔になってしまう」。できる限り、前提知識は入れないようにした。

「知識で知るというより、肌で知るって感覚のほうが大きかったので。撮る瞬間はなるべく考えないようにして、その場の空気を、瞬間パックする作業を繰り返していったんです」

「社会とはこういうものなんだ」

石井さんがそうして園を「記録」したモノクロ写真に刻まれているのはまさに、虐げられた歴史、そのものである。

園をぐるりと囲んでいた、壁。そしてそれを乗り越えて社会に「脱走」しようとした入所者を懲罰するための監房の跡地、新たに施設に入所する人たちのためにつくられた「消毒槽」……。

火葬場や納骨堂の写真もある。入所者たちは亡くなっても家族に引き取られることなく、ほかの入所者の手で荼毘に付され、遺骨すらも故郷には帰ることができずに、園内に残されているのだ。

記事冒頭でも紹介した「命カエシテ」の石碑は、特に強く心を揺さぶる。強制的な中絶手術により、生まれる前に命を奪われた子どもたちの「声」である。彼女ら、彼らは「標本」にされ、ホルマリン漬けで見つかったこともあった。

とても現実とは思えない残酷なことが、この国で法律に基づいて、行われていたということ。3年をかけてすべての園をまわった石井さんは、否応なくその現実を知ることになった。

「強制隔離をしている時代に僕が生きていたら、と考えるとわからないんですよね。周りみんなが全員、それが普通だよねって顔をしていたら。それを幼い頃から見ていたら、それが普通なんだ、社会はこういうものなんだ、と刷り込まれちゃう。『お前は疑問に思えたか?』と自分に問うたら、その自信はないですね」

石井さんは「ナチスドイツ」でユダヤ人の迫害に加担した人たちのことを、例にあげた。思想家のハンナ・アーレントは、官僚機構の中にいた普通の役人であるアイヒマンが、仕事としてユダヤ人の虐殺に加担してきた様子を「悪の凡庸さ」という言葉で表現している。

「結局その渦中にいたら、そうすることが一番正しいのだと粛々と仕事をし続けた人たちが、たくさんの方の命を奪う行為をしていた。ハンセン病においてもそれは同じで、そこに罪悪感が生まれないような状況になっていたことが、本当に怖い」

スピードは「快楽」だから

人の心には誰しも差別をしてしまう心がある、と感じている。それがSNSやネットへの誹謗中傷、学校や職場でのいじめ、さらには新型コロナウイルスの感染拡大などで、突然発露し、肥大化いていく。

「僕たちの心の中にも、小さな部分での差別はあるんですよね。男ってこうよね、女ってこうよねとか、この人苦手、みたいな気持ちとか……。そういった意識みたいなものがゼロだといえる人は、なかなかいないのではないでしょうか。それがあまりにも大きくなりすぎて、誰にも止められなくなって起きたのが、ハンセン病をめぐるできごとだったのかな、と」

「僕はそういった物事は、どんどん肥大化していくんじゃないかなって。たとえば2、4、8、16、32、64、128、256、512、1024……みたいな数字のあがり方で。数字が小さい、萌芽のようなものはコントロールができないかもしれない。そこから加速度的に数字が大きくなっちゃうと、誰にも止めようがなくなるじゃないですか。そしたらもう…」

社会は昔に比べて少しは成熟したとは言えど、現代ではインターネットの普及で「肥大化」のスピード感が早まった。弾みがつけば、取り返しのつかない事態が起こりうる。

「スピードって、快楽がありますから。ブレーキが大切なんです」と、石井さんは言葉に力を込めた。

「そういった気持ちが誰しも生まれてしまい、その萌芽をコントロールできないなら、早いうちに止めることがすごく大切なんじゃないかな。僕自転車が好きなんですけど、ブレーキ関係が一番やっぱり大事なんですよ。ブレーキのない自転車なんて、怖くて乗れないですよね」

「どんどん肥大化していって、大きなことが起こってしまったっていう教訓を知ることで自分の心のブレーキがつくれるはず。差別してしまう心をなくそう、ではなくて、すぐに止められる人が増えたらいい」

まずは入り口に立って

ハンセン病をめぐる差別感情は、いまだに社会に深く残されている。顔や本名を隠したまま暮らしている入所者や、その親族は少なくない。

実際、2003年には、入所者がホテルで「宿泊拒否」を受ける事件も起き、抗議をした側に誹謗中傷が寄せられるという事件も起きた。家族や親戚たちが結婚差別などをいまだに受けているという深刻な実態も、ここ数年ようやく、明らかになっている。

「絶対数でいったら、きっと、ハンセン病のことを、知らない人のほうが多いんですよね。それはつまり、社会として教訓にできていない、というわけじゃないですか。社会は昔より良くなっていると思うけれど、このことを学んだら、もっと良くなるんじゃないかな」

「一部の人が知識を深めるというより、浅くでもいいから、広く知ってもらいたいという気持ちのほうが大きいです。『詳しくは知らないけど、そういうことあったでしょ?怖いよね』とかって、日常会話になる社会になってもらいたい。当たり前になってもらいたい」

石井さんは自らの写真がハンセン病を知る「入り口」になれば良いと感じている。

写真展のみならず、3月に出版した写真集『13(サーティーン): ハンセン病療養所からの言葉』でもその点を強く意識したという。

「この問題を知らない人にこそ、見てもらいたいんです。僕はハンセン病の問題そのものを案内するっていうよりは、問題の入り口まで案内する、ドアマンのようなイメージなんです。ホテルの中に入らない。ドアの前でずっと、待っているような……」

「そうして写真を見た人が、ハンセン病に興味を持って、実際に療養所を尋ねてくれれば嬉しいと。そして、自分がしてきたこととか、誰かにいってしまった言葉のなかにある、差別の萌芽みたいなものに、気が付くことのできるきっかけになれば。そして、結果としてそれがひとつのブレーキになってくれれば、嬉しいですね」

インタビュー動画はこちら。

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石井正則写真展「13(サーティーン)~ハンセン病療養所の現在を撮る~」は12月6日(日)まで、国立ハンセン病資料館2階企画展示室で開催されている。休館日は月曜および国民の祝日の翌日。

入館時間は午前10時〜11時半、午後1時半〜午後3時。午前午後上限10人、事前申し込み制。予約はこちらから。

11月3日(祝・火)午後3時半〜4時半には、YouTubeで石井さんによる作品解説ライブを予定している。入所者による詩の朗読もある。事前予約不要。