悲劇のフランス王妃、マリー・アントワネット。1793年10月16日、革命広場でギロチンにかけられて処刑され、37歳の若さで亡くなりました。230年目の命日に合わせて、その知られざる素顔に迫ります。
「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」の伝説とは?
マリー・アントワネットといえば、パンを求めてデモ行進をする民衆を見て「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」と言ったというエピソードでよく知られています。豪華絢爛な生活を送る王妃は、民衆にとってパンよりケーキの方がはるかに高価だということを知らなかった……。
その傲慢さと無知の結果として、ギロチンで首をはねられたという風に伝えられていますが、これは全部ウソです。彼女はそんなことは言っていなかったのです。
マリー・アントワネットが少女のころに書かれた本が元ネタだった
調べてみると、もともとこのエピソードは18世紀に活躍したフランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソーの著書『告白』第6巻が元ネタだったようです。
ワインを盗み飲みにしてた若き日のルソーは、ワインのツマミにパンが欲しがったのですが、良い服を着ていたのでパン屋に行くのが恥ずかしくて、菓子店でブリオッシュ(菓子パンの一種)を買いに行くというくだりの中で、以下のような文章があります。
<ついにわたしは、「百姓どもにはパンがございません」と言われて、「では菓子パンを食べるがよい」と答えたという、さる大公夫人の苦し紛れの文句を思い出した。>
(ルソー『告白 上』岩波文庫より)
ケーキではなくブリオッシュなのもツッコミどころですが、そもそもマリー・アントワネットの名前はどこにもないのです。「さる大公夫人」が彼女を指していると考えるのも無理があります。
この本が執筆されたのは、1767年8月ごろ。マリー・アントワネットはまだ11歳の少女で、オーストリアのウィーンに住んでいました。政略結婚でパリに行き、後のルイ16世と結婚する3年ほど前になるため、「さる大公夫人」ではないことは明らかです。
ルソーの文章が後に一人歩きし、いつのまにかマリー・アントワネットが言った言葉として後世に伝わってしまったというのが真相でした。
実際のマリー・アントワネットの言葉とは?
しかし、実際のマリー・アントワネットは違いました。パンの値段が上がって苦しむ民衆を心配する文章が残っています。1775年、母親でオーストリア大公妃のマリア・テレジアに向けた手紙の中にその一節があります。
義理の妹に当たるアルトワ伯爵夫人の出産祝いに関するくだりで、以下のように書いていました。
<出産も婚礼もいっぺんにお祝いするはずなのですが、祝典はごくささやかなものになる予定です。お金を節約するためです。でも、一番大切なことは、民びとにたいしてお手本を示すことです。パンの値段が上がってたいそう苦しんでいるからです。でも、うれしいことにまた希望が湧いてきました。麦の育ち具合がとても順調だったものですから、収穫のあとはパンの値下がりが見込まれているのです>
(『マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡』岩波書店より)
参考文献
・ジャン=ジャック・ルソー『告白 上』(岩波書店)
・ジャン=ジャック・ルソー『ルソー全集』第1巻(白水社)
・パウル・クリストフ(編)『マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡』(岩波書店)
・ピエール=イヴ・ボルペール『マリー・アントワネットは何を食べていたのか』(原書房)
・遠藤雅司『食で読むヨーロッパ史2500年』(山川出版社)
・長尾健二『歴史をつくった洋菓子たち キリスト教、シェイクスピアからナポレオンまで』(築地書館)
・エーリヒ・ケストナー『点子ちゃんとアントン』(岩波書店)
・アントニア・フレイザー『マリー・アントワネット』(上) (早川書房)