2019年7月7日

    「世間に居場所がなかった。でも…」水曜どうでしょう嬉野ディレクター、60歳で辿り着いた人生の心構え

    「水曜どうでしょう」の「うれしー」こと嬉野雅道ディレクターが還暦を迎えた。大泉洋から「視聴者代表の人」とイジられることもあるが、マイペースかつ客観的に物事を観る姿勢は、幼少期から培われたものだった。

    Eriko Kaji

    北海道テレビの人気番組「水曜どうでしょう」の「うれしー」こと嬉野雅道ディレクターが7月7日に還暦を迎えた。大泉洋から「視聴者代表の人」とイジられることもあるが、マイペースかつ客観的に物事を観る姿勢は、幼少期から培われたものだったようだ。

    60年の人生で感じた幸せの秘訣、それは「偶然を逃さず、掴むこと」だと語る。嬉野さんの人生を変えた「偶然」とは。23年間の「どうでしょう」人生と併せて、その真意を聞いた。

    「どうでしょう」のロケが億劫になってきた

    Eriko Kaji

    ――「水曜どうでしょう」のベトナム縦断で「チーム40」と言われた嬉野さんも、ついに還暦を迎えます。何か心境の変化は。

    ないよ(笑)。毎年、毎年、そんなに変化なんてあるかい?(笑)でもまぁ、体力的な衰えはあるよね。

    「どうでしょう」のロケも億劫になってきちゃってさ。機材を軽くしてほしい。本当はスマホでやりたいんだけどね。

    ――それでも最近はとてもお元気そうです。2011年の「原付日本列島制覇」の頃、体調を崩されていたと聞き、心配していました。

    一時期、甲状腺を悪くしたことがあって。当時は病み上がりだったから、現場では丸腰だった。大泉くんから「そこの視聴者代表の人」とか言われて、全くもってそうだなって思ったよ(笑)。

    でもあの時に、「そうか。カメラで撮影する以上に、俺がこの場にいることに意味があるのかな」と考えさせられるわけよ。

    大泉さんとミスター(鈴井貴之)、そして藤やん(藤村忠寿ディレクター)。あの3人は、どこかで俺に見られていることを意識している。俺に向かって演じている面もある。そういう意味で、俺が現場にいることの効能があると思うの。

    どこにいっても「水曜どうでしょうを現場で見る」なんて仕事はないでしょう? そんなもの、一般化された仕事ではないわけで。

    でもさ、世の中にはハローワークにはない仕事も膨大にある。いまの社会って、そこが蔑ろにされているとも思う。その枠の中で「この仕事は自分に合うか、合わないか」って言っている場面が多いのかもしれない。

    ――どうすれば、自分に合った仕事を見つけられますか。

    うーん。どうやったらって、俺の人生を見ても答えはなかったなあ…。ただただ、ゴロゴロって流れで生きてきたから。

    でもこう見えて、俺も必死に自分を励ましながら生きてるのよ。なんとか前向きに、朗らかに。一歩でも自分が得するようにと思って考えて生きてきた。

    Eriko Kaji

    ――その割には、四国八十八カ所の旅でパンを食べられたとき(通称「岩屋寺パン騒動)、めちゃくちゃ怒っていたような…。

    あれも仕事だからさ(笑)。四国はミスター不在で、3人だけだったから。「俺も仕事しないといけないな」と思ってね。その責任感から、パンを食われて怒ったわけよ。

    今どき、いい大人がクリームパン食べられて怒るか?そうだろう?(笑)

    まぁ、「どうでしょうを見るのが仕事」っていうのは自分で言い張ってるだけさ。それでも、自分で「これが俺の仕事だ」って言い張るところからまず始めないと、誰も耳を貸してくれないと思う。

    そう言っているうちに、みんなが「あれ?そうかな?」って思い始めるから。

    生まれは佐賀のお寺だった。

    Eriko Kaji

    ――今年で還暦ですが、生まれは1959年7月7日。ご実家は佐賀県のお寺だったそうですね。どんな幼少期だったのでしょうか。

    実家がお寺って、普通の家庭とはちょっと違うよね。本堂があって、大きな仏さんがあって。家に仏壇があるのとは違う規模。そこでうちの親父がお経をあげていたり。

    境内も広くて、子どもの遊び場になる所がいっぱいあった。本堂の床下は高さがあったから、小さい子どもなら立って歩けるぐらいよ。

    年に5回ぐらい宗教行事があって近隣から大人がいっぱい来る。自分の家に他人がいっぱいやってくるのが普通だった。ちょっと変わった環境だった。

    ――お寺って、地域の心の拠り所のような感じもあります。

    そうだよね。それこそ、当時はお彼岸の「おめぐり」っていうのかな。佐賀なら佐賀の中にいくつか札所があって、そこをみなさんが何日もかけて巡礼する。そういう時、巡礼者さんはお寺に泊まる。お寺って宿泊所の役割もあった。

    巡礼者さんたちが来るときには、ごはんを作るために近所のおばさんたちがたくさん集まって御勝手(キッチン)を手伝ってくれる。子どもとしては、そういう空気は非日常な感じがして嫌いじゃなかった。

    布団部屋もあってね。100組ぐらいの布団がしまってあったの。掘り下げた床に、布団が積まれていてさ。

    俺なんか、布団の割れ目に入って「クレバスに滑落していく俺」とか言って遊んでいたよ(笑)。「俺は危険な目に遭っている。しかし布団である」みたいな状況。「危険なように見えて危険じゃない」というのが好きだったんだろうな。

    そういうわけで、家の環境が充足していたから幼稚園にも学校にも行きたくなかった。

    ――「ひとり」でいるのが好きだった?

    うーん、まぁ人と交わるのがそんな好きじゃないのかな。自分から率先して、人の輪に入っていきたいとは思わない。そんな子どもだった。でも、環境がそれを後押しした部分もあると思う。

    アウトサイダーというか、自分から外には出ていかないように設えた部分もあるだろうと。反対に、外から自分のほうへ入ってくる人間に対しては何の抵抗もない。それは今もそうだね。

    人と交わりに行く気はないけど、うちのテリトリーに入って来てくれた人と交わるのに抵抗はないみたいな。そういう人格形成はあったかなと思うよ。

    幼少期から形作られていった「傍観者」の姿勢

    Eriko Kaji

    ――なんだか「水曜どうでしょう」でカメラを持っている感じみたい。画面に映るのは大泉さん、ミスター、たまに藤村さん。嬉野さんは映らない。でもカメラを手に観察はしている。

    あぁ、もしかしたらそうかも。シーンに介入しないけど「傍観している」というのは、立ち位置として、視聴者からも抵抗のない位置なのかも。そういう姿勢はずっと変わらないなぁ。

    傍観者でいると、目線が俯瞰的になるのかな。それこそ人類の来し方行く末を見ちゃうところが、視点としてあるんだと思う。

    ――「どうでしょう」での立ち位置にも通じる「傍観者」の姿勢。その萌芽は、子どもの頃から次第に形作られていった。

    多分、世の中を「俯瞰する」ってことは、現実世界で俺の居場所があんまりなかったんだと思うのよね。

    実家だけの世界から、幼稚園、小・中・高とずっと上がっていくに従ってさ、俺が「なんか楽しいな」「ここいいなぁ」って思えるような、いわば自分の居場所はなかった。

    いまだにさ、世間に俺の居場所があるような気持ちはそんなにないのよ。どうしても、生存戦略的に物事を考えるところがある。

    ――「生存戦略」ですか。

    そう。自分がどう動いて、どうすれば有利になれるのか。それを考えて生きるみたいなのを、割と好んでやってると思う。

    人って「俺はどうやったら生きていけるんだろう」「何か特別な能力がないと生きていけないのかな」「どんな能力が必要なのかな」とか、色々考えるじゃないですか。

    でもさ、「今のままの俺で、何も足さないで生きていける方法」っていうのも、考えてみればあるんじゃないかなって。

    結局さ、この社会を運営しているのはひとりひとりの人間なわけで。その「ひとり」に自分が入る場所を見つければ、生きていける場所が増えるかもしれないなって。

    そういう戦略で考えると、居場所がないことに対してそこまで暗くならなかった。

    高校卒業後、引きこもった7年間

    Eriko Kaji

    ――高校卒業後、東京に出られますが…

    その時期は、色々と考え込んでいたんだよなあ。高校の時に床屋の親父に「頭ハゲるよ」とか言われて、それを本気にして、「来月には髪が全部なくなるんじゃないか」と心配になって。

    他の人からすればそんなことって思うかもしれないけど、俺はそれをずっとずっと不安に思って鬱屈しちゃって、引きこもりみたいな時期が7年ぐらい続いた。

    ――7年…!

    人ってさ、一回暗い気持ちにはまると、なかなか抜け出せないっていう体験をした。抜け出すためにどうすればいいかって、ずっと考えていたのよ。

    そんな日々が続いたんだけど、ふとある日「もう悩むのに飽きた」って思えた。それが抜け出すきっかけだった。考えて、考えて、疲弊して。休憩することなく悩み続けたから飽きたんだと思う。そうしたら楽になったのよ。

    ――悩み続けた結果ゆえの出口だったんですね。

    一生懸命に考えた結果、開き直れるタイミングにたどり着けたんだろうね。

    今だって現在進行系で、還暦になっても髪の毛はあるけど、まだどうなるかはわからないよ(笑)。これはいまだに心が落ち着かないんだよね。

    それで大学に入ったはいいけど、結局は卒業しないで親に金だけ払わせてしまった。いまさら親父に仕送りしてもらうわけにもいかない。働かなきゃいけないって思うでしょ。

    でもさ、どんな仕事をすればいいのか何も思い浮かばなかった。とりあえず映画が好きだったから、ちょうど映画のプロダクションでアルバイトの募集があったんだ。

    映画はもともと好きだったけど、俺が育ったのは佐賀の田舎だったから名画座もなかったし、映画をみる機会はそれほどなかった。

    だから、映画をみるより黒澤明や小津安二郎とかの文献を読んで「この人すげえな」って感じることが多かった。

    偏った知識が増えた気もするけど、それでも映画の世界、映像の世界って面白そうだって思うきっかけにはなったね。

    人生を変えた、妻との出会い

    Eriko Kaji

    ――東京でフリーの映像ディレクターとして活動する中、今の奥さまと出会って結婚した。

    30歳ぐらいだったかなぁ。人生の節目だよね。タイミングよくバイク乗りの女房と出会った。出会って3カ月ぐらいで結婚してさ。今もバイクで日本列島を旅行中。もう2ヶ月ぐらい家にいないよ。

    北海道から鹿児島まで走るから、いつも日本一周になるの(笑)。どうでしょうのカブ企画のルートは、全て女房が考えているんだよ。あ、でもベトナムは違うよ。

    ――新婚旅行もバイクで日本一周だったそうですね。

    俺はバイクには乗らないから、女房の後ろにタンデムで乗せてもらったの。

    この旅行では本当にいい体験をさせてもらった。「どこか行きたいところある?」って聞かれたけど、特になかった。だから女房の行きたいところに連れて行ってもらった。

    バイクって、車と違って囲いがない。むき出しの状態で風を感じながら走っていく。これが素晴らしいんだ。

    春先に東京を出発して、北に向かって。次第に田舎道になっていく。東北に近づくにつれて、水田風景がみえてきたり、向こうの山にちょっと白い雪が残っていたり…。

    そんな景色をずっと見ていて気づいたんだよ。「あ、ここが俺の居場所なんだ」「ここが好きなんだ」って。自分にとって最も居心地がいいと思える場所を女房がくれたんだって。

    女房に出会ってなかったら、今の自分には辿り着けなかった、俺の人生そんな感じだよ。誰かが俺に居場所を与えてくれる、そんな人生。

    Eriko Kaji

    ――東京から北海道に移られたのも、奥さまの影響だったそうで。

    北海道が好きでね。ちょうどその頃(1996年)、HTBでディレクターを募集していた。それで入社したら、藤やんと出会って、今に至るわけ。

    俺は女房に「どこに行きたい?」と聞かれても、行きたいところがない男だったし、自分でも主体性がない人間だって思っていた。でも、そのおかげで居心地のよい場所を見つけることができた。

    自分からどこかを目指すわけでもなく、何を求めているのかもわからなかった。でも、与えられたり、見つけた場所に座って「あぁ、ここは自分にとって心地よいな」と感じとることはできた。

    「水曜どうでしょう」も同じ。たまたまあの3人と一緒になって、ロケをして、旅をする中で、俺がカメラを回すことで「ここに俺の場所があった!」という高揚感を感じた。それが、あの番組だったんだ。

    だから、行きたいところが思いつかないのに、無理やりどこかに行くのは無意味じゃないかなって。それぞれが自分のペースで、それぞれの道を進んで良いと思う。

    俺の場合は、周りの人のおかげで居心地の良い場所を見つけられた。その場所で、頑張って根付こうとする。それが自分の人生における勝負だったような気がするね。

    「女房と藤やんがいたから、今の自分がある」

    Eriko Kaji

    ――「自分で道を切り拓け」とか、自分で能動的に何かをつかめという風潮もありますが、必ずしもそうである必要はない、と。

    俺だって藤村くんと出会うまでフリーのディレクターとして働いていたけどさ。果たして俺が映像の世界に向いているかというとわからないよ。

    当時は自分でやりたい番組も思いつかなかったし。30歳も過ぎていた。新しいことへの挑戦や、転職も不利なわけ。

    そうなると、やりたいことが過剰にある人と一緒にいるほうが道は拓ける。あとは、その人が連れて行ってくれる場所で自分が対応すればいいわけでしょ。

    俺はそれをずっと待っていたの。待ち続けて、待ち続けて、女房に連れられて北海道に行って、たまたま人を募集していたHTBに入って働きながら、至近距離に藤やんがいた。

    「この人となら一緒に仕事したいなあ」って思っていたら、当時の上司の差配でコンビを組むことになった。

    ――藤村さんの存在も、人生には欠かせない。

    俺の生きていくための根幹だと思うよ。あの人を失うのはもったいないもの。俺と全く違うんだよ。逆だよね。だから、お互いに相手のことがわからない。でも、わからないからずっと続いている。

    いまは色々と忙しいけど、当時は「どうでしょう」しかないからさ。編集室に入ったら、一緒に話す時間が濃密にあった。

    ロケなんて4〜5日、海外でもせいぜい10日ぐらい。あとはずっと編集室でいっしょに過ごすわけでしょ。レギュラー放送をやっていた6年間はずっと二人で話していたなって。

    Kei Yoshikawa / BuzzFeed Japan

    嬉野さんは、藤村ディレクター(右)のことを「俺の生きていくための根幹」と語る。

    ――インターネット業界では、2〜3年で転職する人もいます。一つのところで、長く働くこと、働けることの意味を考えさせられます。

    テレビ番組だって、2〜3年で作ってはつぶして、また新しいことをやってたらさ、色々なことを考えながら、整理して、形作っていく…なんて境地には到達し得ないと思う。

    どうでしょうは23年も続いてるけど、一つのことを長くやるほうが、結果的にわかることって多い気がするんだよ。定点観測をしているわけだから、微細な変化も手に取るようにわかる。

    ずっと同じ風景が見えるから、ついつい疎かになってしまう細かい所の変化にも目が向く。風景映像だとしたら、葉っぱの色の変化や、ふとした風が吹いた瞬間、そういうコアなところに目が行く。

    でも、そこにこそ重要なものが本当はあるんじゃないかなって。そういう気付きがある。

    ――やはり一つの会社に長く務めることも大事だ、と。

    そうだね。でも、あの会社にもいろいろ問題があったけどね(笑)。今、俺は「嬉野珈琲店」という名前でコーヒーを売ってるけど、そのきっかけは会社だった。

    HTBで組織改革があってさ。我々にはその意図がどうにも理解できなかった。会社をやめようかなって本気で思ったんだよ。「なんでこんなに無駄なことしてるんだろう」って、毎日モヤモヤしていた。

    で、会社で自分のデスクに座っているといろんな人の顔が見えて、またマイナスなことを考え始めちゃう。だから、デスクに座っているのが嫌で社内でカフェを始めたのよ。

    そうしたらさ、カフェの会議室に通えばいいから顔を見なくて済むじゃない。何日かしたら人の顔を見なかったから、そういうモヤモヤが消えたんだよ。

    簡単なもんだよ。嫌なものをずっと見ていると、こっちも引っ張られて心がどんどんドス黒くなる。すごく損だよね。

    Eriko Kaji

    ――嫌なものからは逃げることも戦略。

    まあ、23年も「どうでしょう」をやってきたから、お客さんも長い目で我々を見てくれている。だから、色々な有為転変ある我々も見せちゃっている。それも全て、ストーリーとして受け入れて笑ってくれる。

    どっかで失敗したってさ、「ほら失敗したよ(笑)」ぐらいの感じでしょ。それはそれで盛り上がってくれるし。

    失敗と成功の違いがよくわからなくなってくる。それもそれで面白いってことになっちゃうでしょ。そうなると「人は何を面白がってくれるんだろう」って、だんだん思考が深まってくる。

    ずっと我々の生き様を追っかけて、ストーリーとして理解してくれるお客さんがたくさんいる。これはハッピーな話だよ。そういう目で我々を見てもらえれば、もうしめたものですよ。何をしようと、どう転ぼうと、どうにでもなるわけだから。

    「空回りせず、精一杯振る舞える場所をめざせ」

    Eriko Kaji

    ――嬉野さんが今日あるのは、奥さまと藤村ディレクターに導かれた部分も大きかった。今日までの来し方で、生きる上で大切だと思ったことは。

    23年間も「どうでしょう」をやってきて、そして60年の人生で思ったこと。それは「自分が空回りしない場所で、精一杯振る舞える場所を目指すべき」ってこと。

    自分の本質と合わないものを無理にやったら空回りもするし、成果も生み出せない。そうやって番組をつくらされるスタッフに、なんの意味があるのだろうか。それを見せられる視聴者にはなんの意味があるのだろうか。

    40歳を過ぎても、できないことがあるなら、それはきっと未来永劫できないことかもしれない。それは「やらなくても良いこと」ぐらいに、ゆるく考えてもいいと思う。

    例えば「声が小さい」って怒られてもさ、それは生まれつきだからどうしようもない。それなら拡声器でしゃべればいいし、声の大きい人を連れてくればいい。

    人間は、そうやって補い合って生きてきた。だから他人とともに何万年も暮らしてきたわけでしょ。

    フリーのころ、俺も現場をグッチャグチャにしちゃったことがあってさ。制作進行だったんだけど、あれは堪えた。

    上から「見切り発車でも撮影を進めろ」って言われて、無茶なスケジュールを立てたの。そうしたら案の定、撮影予定は破綻した。

    本当なら、「俺以外の人間だったらできるかもしれないけど、俺には無理です」「どうしても俺にやれと言うなら、あと◯日伸ばしてくれ」と。そう言えるのがプロだなって学んだ。

    失敗しつつも、自分に向いているものを探したり、補ってくれるものを探しながら生きていくのもいい。失敗や経験がないと、必要な「感覚」がわからないこともあるからね。

    Eriko Kaji

    ――嬉野さんの人生は、「偶然」と「経験」があってこそだった。

    今の自分にしっくりこないという瞬間は誰にでもあるよね。でもさ、「偶然」をあてにして、諦めてもいけない。自分の居場所を見つけるためには「偶然」を逃さない心構えはしておかないと。

    いざというとき、「偶然」が訪れた瞬間にピタッとフィットする感覚。その感覚を掴み取るために、いまをダラダラ生きるということも大事だと思う。

    真剣にダラダラしながら、ピタッとはまる「偶然」を見逃さないこと。それが、俺なりの生存戦略だったのかも。

    俺がたまたま女房のバイクの後ろに乗ったこと。そして「水曜どうでしょう」という番組を仕事にできたこと。その「偶然」に巡り合って「ここって、すごくいい場所だなぁ」と気づけたこと。

    その「偶然」に恵まれた瞬間に、自分がどう振る舞えばいいかわかったこと。それが、俺の人生を豊かなものにしてくれた。そう思うんだ。


    <嬉野雅道(うれしの・まさみち)>プロデューサー・「水曜どうでしょう」ディレクター

    Eriko Kaji

    1959年、佐賀県出身。北海道テレビ放送(HTB)所属、『水曜どうでしょう』カメラ担当ディレクター。大泉洋主演ドラマ「歓喜の歌」でプロデューサー、安田顕主演ドラマ「ミエルヒ」で企画、プロデュースを担当。HTB開局50周年ドラマ『チャンネルはそのまま!』プロデューサー。

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    noteでの月刊マガジン『Wednesday Style』、藤村ディレクターとYouTube「藤やんうれしー水曜どうでそうTV」など活動の場を広げる。還暦を迎えた嬉野さんの新しい取り組みはこちら


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