11月29日、女優の赤木春恵さんが94歳でこの世を去った。
「3年B組金八先生」「渡る世間は鬼ばかり」「おしん」など、数々の人気ドラマや舞台で存在感を放った名優。その過去には、壮絶な戦争体験があった。
日中戦争の最中、16歳で女優の道へ。
1924年、旧満州(現在の中国東北部)で生まれた赤木さん。9歳の時、満鉄(南満州鉄道)の医師だった父が亡くなると、母とともに日本へ帰国。親戚が暮らす京都で育った。
日中戦争の真っ只中だった1940年、16歳の赤木さんは女優の道へ。「松竹ニューフェース」として映画デビューした。
翌年、日本が太平洋戦争に突入すると、旧日本軍の慰問のため各地を巡業した。
1945年2月、日本本土への空襲が激しさを増してくると、赤木さんは疎開を兼ねて生まれ故郷の満州へ戻った。当時20歳。兄が創設した劇団の座長として満州全土を慰問で巡った。
終戦時は20歳、ハルビンで玉音放送を聞いた。
1945年8月、北からソ連軍がなだれ込んできた。それから数日で日本は降伏し、満州国も崩壊した。
当時ハルビンにいた赤木さんは、身の回りの物を売って、なんとか食いつないだという。
赤木さんはNHKのインタビュー(「あの日 昭和20年の記憶」2005年9月18日放送)に当時の苦難を語っている。
「私の住んでたアパートの中でも、慌てて自殺なさる方もいらっしゃいましたよね」
「街路で日本人の着物を売ると、やっぱり本当にいいものなんですよね、絹で。長襦袢なんて売れると思いませんけど、長襦袢はロシアのおばさんがワンピースにして着るんです。(中略)そういうのが売れたのが、すごく食べることに助かりましたね」
市場で買い物をしている最中に銃声が聞こえることもあったという。
「映画みたいですよ。バンバンと銃声がなるから、ピタッと影に隠れて、両方(道の左右)を見て、ダァーッと走る。今思うと、どうしてそんなことができたんだろうと思うんですね」
(NHK「あの日 昭和20年の記憶」2005年9月18日放送)
夜になるとソ連兵が… 命を救った「女優」の機転
終戦後の旧満州では、ソ連兵による日本人女性に対する暴行が発生していた。
いつ襲われるかわからない。アパートのような所で仲間数人と暮らしながら、恐怖に怯える日々だった。
「夜になると、女を見つけに日本人のいる階へやってきて。本当はいけないことなんですけども、若い(ソ連の)兵隊が来て、(戸を)ドンドンやるもんですから」
「戸を明けないと小銃でダダダダダッとやられますので。しょうがないから、そーっと戸を開ける」
(NHK「あの日 昭和20年の記憶」2005年9月18日放送)
赤木さんもソ連兵に目をつけられそうになった。だが、一計を案じて身を守ったという。
「私たちにはいい考えがありました。女優ですから、夕方になるとおばあさんに化けちゃうんです」
「一番汚い衣装を身にまとって、顔はドーランを塗って影をつけて。頭は粉おしろいとか練りおしろいで、サッサッサッとハケでやりますと、これが白髪に見えます」
「とても汚い女たちの集まり(に見える)。ドンドンドンって、ふっと開けたら、変なおばあさんたちがいた。『ニェ・ハラショー(良くない)』と言って次を探す。それで私達は本当に命を救われましたね」
(NHK「あの日 昭和20年の記憶」2005年9月18日放送)
まさに「女優」ゆえの機転だった。
やがてソ連軍が撤退すると、中国共産党の八路軍が入ってきた。
現地の収容所では、5歳年下だった喜劇役者の藤山寛美さんらと泉鏡花の『婦系図』を演じた。ダンスホールで働いたり、とにかく生きるために一生懸命だった。発疹チフスに感染し、生死の境をさまよったこともあった。
帰国の目途が立ったのは終戦からおよそ1年2カ月後。葫芦(ころ)島経由で、博多港に辿り着いた。1946年10月のことだった。
赤木さんにとって、あの戦争とは難だったのか。別所哲也さんとの対談(2015年8月10日、毎日新聞)で、こう語っている。
「人と人との殺し合いです。まるで殺し合いですよ。戦争はもう嫌ですよ」