1月30日午前9時、私は横浜拘置所の面会室で植松聖被告と初めて向き合っていた。

20日の裁判で着ていたのと同じ青いフリースを着て、長い髪はやはり後ろでひとつに結ばれている。法廷で見るよりリラックスした表情だ。
ともに面会したのは2人。植松被告の面会を長く続けているAさんと、以前も面会したことがあるBさんだ。
「雨宮さん」とAさんが私を紹介すると、植松被告は会釈した。裁判に通っているので、認識されているだろうと思っていた。拘置所の植松被告が雑誌『創』の私の連載を読んでいるということも人づてに聞いていた。
原稿の感想程度だが、メッセージをもらったこともあった。だけど私はこれまで、植松被告とは一切コンタクトしてこなかった。面会も、「一緒に行けば入れるよ」と言ってくれる人がいたものの遠慮していた。
理由はただひとつ、怖かったから。
傍聴するにつれ深まる謎
だけど1月8日に裁判が始まり、初公判、1月20日、24日、27日と裁判を傍聴するにつれ(1月20日と24日の傍聴記録はこちら)、謎は深まっていった。

4回の裁判を傍聴して思ったのは、「私が思っていたより、植松被告は深刻な精神状態にあったのではないか」ということだ。
とにかく妄想がすさまじい。自分は救世主である、意思疎通できない者を殺せばトランプ大統領が絶賛してくれる、日本は滅びる、自分は選ばれた人間だ、等々。
そして世界の出来事を予言するというイルミナティカードへの傾倒。
その上、「障害者を殺す」ということを約50人に吹聴し、今度はそのことによって「こんなことを言っている自分が殺されるのでは」と怯えたと語る植松被告。
私が、そしておそらく世間が思っていた以上に、植松被告の精神は普通の状態ではなかったのでは?
それを確かめたかった。面会し、直接会話をすれば、どういう状態なのかわかる気がした。
初公判で指を噛み切った理由
面会では、まずBさんが初公判で指を噛み切ったことに触れ、今はどうなっているか聞いた。
「縫合して、処置してもらいました。指は捨ててもらいました」と植松被告。
第一関節の先をぐじゃぐじゃに噛んだようだが、右手は白いミトンに覆われているのでそれを確認することはできない。
なぜ指を噛み切るようなことをしたのか。そう問われると、法廷で話す時のようにハキハキした声で言った。
「言葉だけの謝罪では、納得できませんでした」
謝罪の気持ちを伝えようとして自傷行為をしたというのだ。が、それは法廷を大混乱させ、「植松、暴れる」というニュースになっただけだった。
死刑判決、受け入れるのか?
1月8日に始まった裁判だが、判決は3月なかばには出る。
死刑判決が出る可能性があるが、死刑は受け入れるつもりがあるか問われると、「死刑は必要だと思います」。一般論として、制度としての死刑は必要という意味らしく、続けた。

「自分は死刑になるつもりはないけれど、死刑判決は出ると思います」
死刑になるつもりはないが受け入れるのか、という問いにはしっかりした口調で「はい」と答えた。
事件前日の行動「せっかくなんで」
そうして話題は事件前日のことになる。ホテルにデリヘルを呼んだことについて「なぜ」と問われた植松被告は、少し恥ずかしそうに口ごもると「せっかくなんで」と笑った。
(セックスしたかったから? と問われ、照れたように笑って)「いや、せっかくなんで」。
(これで最後だと思ったから?)「いや、最後にするつもりはないけど、せっかくなんで」
事件前日、知人女性と食事したことについても「せっかくなんで」。
トランプ大統領、安倍首相「尊敬してます」
また、トランプ大統領を絶賛したり、事件前、衆院議長だけでなく安倍首相にも手紙を出していることを問われ、二人を随分持ち上げているようだがと言われると、「頑張ってるからです。社会のために」と支持の理由を述べた。

自分の価値観と同じということ?と聞かれると、「いやいや、それはおこがましいです」と恐縮し、「尊敬してます」と付け加えた。
有名人や権力者には、やはりこうして会話で名前が出るだけでも「畏れ多い」という態度を崩さない。
また、27日の法廷では、衆院議長に「自分は障害者を殺せる」という手紙を出したことで措置入院となったことについて、それが「政府の反応」(政府からの回答)だと思ったと述べていた。
そのことについて「政府に拒否されたと思ったの?」と聞かれると、「でも、外に出れたので(退院できたので)。やるなら一人でやれ、ということなのかなと思いました。一人でやればいいんだと」と答えた。
「自分の考えは、正しいと思います」
「今でも自分のやったことは正しいと思ってるの?」
ここでBさんが本質に迫る質問をした。植松被告は、背筋をスッと伸ばし、「自分の考えは、正しいと思います」と主張した。「やり方には問題あったかもしれませんが」。
そこでまた衆院議長に出した手紙についての話題になると「あれは恥ずかしい」と植松被告は本当に恥ずかしそうに笑った。
一瞬、「障害者を殺せる」などのトンデモない主張をした自分が恥ずかしい、ということかと思ったが、「文章が荒っぽい」。文体の稚拙さを恥じているのだった。
そんな手紙で植松被告は「革命」という言葉を使っている。なぜその言葉を使ったのか聞かれると、「社会の常識を変えるのは革命だと思いました」。
(人間が生きてる目的って、なんだと思う?と問われ)「幸せになりたい、楽しみたいということだと思います」。
(その権利を奪っていいのかと問われ)彼らには楽しむ権利はありません」。

そうして「障害者がいらない、というのは間違ってる」と言われた植松被告は「それこそ間違ってる」とぴしゃりと言った。
「不幸な人がたくさんいるのに、ヨダレを垂らしてるような人が生きているのがおかしい」
ベテランジャーナリストに反発 「大麻吸ってもらわないと」
そうして植松被告は、Bさんが中東取材の経験があることを引き合いに出し、「イランとか行ってるならわかるはずですよね? 実際に戦争に行ってないからわかんないんですか? そういう発言は甘いですよ。反発したい気持ちはわかるけど、不幸な人がたくさんいるんだから」とまくし立てた。
年上の著名なジャーナリストであるBさんに、19人を殺害した30歳の植松被告が「考えが甘い」と説教するという、ありえない光景が目の前に広がる。
少し感情的になった植松被告は、そこでちょっと呆れたように言った。
「もう、大麻吸ってもらわないと話にならない......」
大麻の経験がある人でないと、自分の話を理解できるはずがない、という意味のようだ。
財政問題に危機感を抱いたわけ
ちょっと嫌な沈黙が面会室を支配する。
が、気を取り直して、植松被告にずっと聞きたかったことを聞いてみた。
それは財政問題について。日本は借金だらけで財政破綻寸前だから全員を生かしておくことなんかできない、と植松被告は主張しているが、それはいつ頃から思い始めたのか、何を見て知ったのか、ということだ。
「お金がほしいと思っていろいろ調べてたら、その時、中国の景気が悪いということで、そんな話をしたら、友達から『日本はもっとヤバい』って聞いて知りました」
2014、15年頃だという。
聞きたかった、危険ドラッグの影響
また、「脱法ハーブ(危険ドラッグ)」についても聞いてみた。
裁判で、植松被告の弁護側は「大麻精神病」などで心神喪失だったという主張をしている。が、専門家の中には、大麻でそれほど重篤な障害が起きることを否定する声も多い。
一方で、裁判を傍聴していて気になったのは脱法ハーブだ。大麻を吸うようになる前、21〜24歳頃まで吸っていたという。
それは彼にとって「最悪」で「バカになってる実感があった」「呂律が回らなくなったり計算ができなくなった」と強烈な作用があったようだ。
ちなみに植松被告はそんな脱法ハーブが社会問題化したことによって脱法ハーブはやめて大麻を吸うようになったという経歴を持っている。
そして脱法ハーブは「危険ドラッグ」と呼ばれるようになったのだが、脱法ハーブの恐ろしさが世間に広く知られるようになったきっかけのひとつに「しぇしぇしぇのしぇ」事件がある。
2014年12月、32歳の男が自宅アパートの隣室女性をナイフで切りつけた事件だ。現場に駆けつけた警察官に「俺が刺したんだよ〜」と口にし、送検時には満面の笑顔で報道陣にピースサイン。取り調べでも「しぇしぇしぇのしぇー」と繰り返すなどして話題となった。
これ以外にも、14年には脱法ハーブを吸った男の車が暴走、歩行者1名を死亡させ7人に怪我を負わせた事件や、同じく脱法ハーブを吸った状態で車を運転して2人に怪我を負わせた事件が起きている。
「脳が死んだ感じ」
東京都福祉保健局のサイトによると、脱法ハーブ=危険ドラッグには、規制されている薬物や覚せい剤の構造を少しだけ変えた物質が含まれており、身体への影響は麻薬や覚せい剤と変わらないどころかより危険な成分が含まれていることもあるという。
「しぇしぇしぇのしぇ」事件の頃、私も知人から「脱法ハーブを吸った友人が錯乱した」「突然奇声を上げて暴れて警察沙汰になった」などの話を耳にすることがあった。
脱法ハーブという無害そうな名前のわりにそんなに恐ろしいものなのかと驚いた記憶がある。それからほどなくして、それらは「危険ドラッグ」に名前を変えた。
そんなものを、植松被告は3年間に渡り摂取していたのである。それがどのような影響をもたらすのか、あるいはまったく無関係なのかはわからない。
事件を起こしたのは、脱法ハーブをやめてからすでに2年が経過している。しかしこの日、私は聞いてみた。
「脱法ハーブを吸っていた時期が長いですが、あの薬物の成分はすごく危険だと聞いています。脳が壊れる感覚はありましたか」
「ありました。脳が死んだ感じ。でも、脱法ハーブのおかげで大麻と会えたからよかったです」
傍聴に来ないという両親「迷惑かけたくないんで」
それから話は両親の話題になった。両親は傍聴には来ていないという。
「来てません。来て欲しくありません」
そう言うと、続けた。
「面倒をかけたくない。迷惑かけたくないんで。生みの親より育ての親と思ってるんで。親よりも、周りの人に育ててもらったと思っています」
希薄な関係だったのだろうか。それとも、両親を庇っているのだろうか。
「選ばれた人間だと言い続けていたら、選ばれた人間になれるかもしれない」
30分の面接時間もそろそろ終わりに近づいていた。
「障害者は生かす理由がないと言うが、あなたは選ばれた人間なのか」
Bさんが問うと、植松被告は言った。
「起業家の話を聞くと、自分で言い続けることが大事だといいます。そういう効果がありました。自分は選ばれた人間だと言い続けていたら、選ばれた人間になれるかもしれない」
成功のためには自己暗示が必要、というようなよく聞く自己啓発だが、植松被告はそのような「よく聞く自己啓発」が大好物だ。そして彼の場合、その自己暗示は他の誰よりも強烈である。

24日の裁判で、彼は「障害者を殺す」といろいろな人に吹聴しているうちに「殺す世界に入ってた」と述べた。自分で言っているうちに、その世界に入ってしまっていたというのだ。
そうして、続けた。
「だって、UFOとか見ちゃってるんで」
自信満々な口調で、面会室のガラス越しにまっすぐ目を見て、言った。
私に突然の質問「処女じゃないですよね?」
言葉を失っていると、植松被告が突然私の名前を口にした。
「雨宮さんに聞きたいんですけど」と言うと、彼はあまりにその場にそぐわない質問をした。
「処女じゃないですよね?」
え......? 突然の質問に驚いてフリーズしつつも、「はい」と答えたと思う。
今まで生きてきて、初対面の人にこんな質問をされるのは初めてだ。しかも45歳だというのに......。
動揺したのか、「処凛」という名前に「処」という字が入っているからそんな質問をしたのか、などと口にした気がする。
が、植松被告はそれには答えず、「日本はもっと気軽にセックスした方がいい」と言い始めた。
好きなアーティストは、きゃりーぱみゅぱみゅとブルーハーツ
このように、植松被告の話はあちこちに飛ぶ。そして特徴は、一問一答なことだ。被告人質問でも、一問一答なので続かない。
面会も、こちらが時間を気にしてあれこれ話題をふるからというのもあるだろうが、ほとんど一言で答える。考え込んだり言いよどんだりということがほとんどない(法廷では多少あった)。
そのような作法も、「デキる男」とかの自己啓発本に書いてありそうだ。ハキハキして、迷わず即決。時短で効率的で合理的な「デキる」人間の作法。そういえば、植松被告は法廷で、私が見た限り「言い訳」をしていない。

さて、そろそろ退室しないといけない時間だ。最後に音楽の話になると、植松被告は好きなアーティストとして「ブルーハーツときゃりーぱみゅぱみゅです」と答えた。
きゃりーぱみゅぱみゅ。意外な好みに驚いていると、「きゃりーぱみゅぱみゅはイルミナティなんで」とちょっと誇らしげな顔をする。
「ブルーハーツは?」と聞くと「ブルーハーツは、カッコいいんで」とニコっと笑ったところで面会は終わった。
かわるがわる現れる狂気と普通さ 閉ざす心
今もまだ、この面会について、自分の中で整理しきれていない。ただ、面会のあと、「裁判を見て思ったよりおかしいと思ったように、この日、面会して、思ったより普通だと思った」と、Aさんに話していた。法廷よりも、随分とマトモな感じに見えた。
だけどそれは、法廷では自分を正当化する発言ばかり繰り返していて、面会では事件以外の話題にも触れるからだろう。話していると、狂気と普通さが順繰りに現れた。あまりにも、ナチュラルに。そのたびに、ひたすら混乱した。
同時に、「あなたは間違っている」などと言われると、植松被告がスッと感情に蓋をするのがわかった。先回りして、批判されそうな発言をする際に前もってやっているとわかる時もあった。
姿勢を正し、妙に丁寧な物言いになるとき、「あ、今、心を完全に閉ざしてるな」とわかるのだ。そんな時、目の前にいる植松被告がサーッと遠ざかるような、半透明のカーテンが下りるような感覚になった。
それほどわかりやすく心を閉ざす人を、私は初めて見た。そしてそれは何か、年季の入ったやり方にも見えた。もしかしたら、事件後とかじゃなくて、子どもの頃から植松被告は何かあるとこんなふうにスッと感情に蓋をしていたのではないか。わからないけど、ふと思った。
そんな面会で、私は何度も気分が悪くなりそうになった。この人があの事件を起こしたのだ。そう思うと、貧血のような、過呼吸の前兆のようなものが幾度も襲ってきて、面会の最後までこの場にいられるか、不安だった。
さて、裁判は、2月5日からまた始まる。
私はまた横浜地裁に行くつもりだ。
【雨宮処凛(あまみや・かりん)】作家・活動家
1975年、北海道生まれ。フリーターなどを経て、2000年、自伝的エッセイ『生き地獄天国 雨宮処凛自伝』(太田出版、ちくま文庫)でデビュー。2006年から貧困・格差の問題に取り組み、『生きさせろ! 難民化する若者たち』(同)でJCJ賞受賞。
著書に『非正規・単身・アラフォー女性』(光文社新書)、『1995年 未了の問題圏』(大月書店)など。最新対談集は『この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代』(大月書店)。