1960年代半ば、アメリカでは人種間の緊張が激化していた。
1964年に連邦議会で可決された公民権法で人種差別は禁じられたが、人種差別による暴力や偏見は、まだ全国で日常的に起きていた。アフリカ系アメリカ人の地域を守るはずの、白人警察官によるものも多かった。
1966年、自分たちのコミュニティーを人種差別や警察官による暴行から守ろうと、オークランドの大学生だったヒューイ・P・ニュートンとボビー・シールが、「自衛のためのブラックパンサー党」を立ち上げた。
のちに「ブラックパンサー党」と名前を変え、党の行動指針として「10項目綱領」を取り入れた。
その信念の中心となっていたのは「アメリカの資本主義は根本的にアフリカ系アメリカ人を経済的に搾取する点で暴虐で、社会主義の価値を取り入れることで、アメリカは人種間の不平等を正すことができる」という考えだった。
武器を携帯する権利は、アフリカ系アメリカ人の自由と、警察を取り締まる能力のために、欠かせないと考えられた。1967年5月2日、新しいカリフォルニアの法案によって、銃を携帯する権利が制限されそうになったとき、ボビー・シールが率いるブラックパンサーの集団が、合衆国憲法修正第2条による権利を劇的に誇示して、武器を携帯して州会議事堂に突入した。
その後、ブラックパンサー党は全米各地に支部を立ち上げ、党員数は何千にも達した。
コミュニティー運動を行い、人種に関わりなく、服や教育、食料、衣料品を提供した。しかし1960年代終わりには、現状を打破するのにゲリラ戦略を使うことが物議を醸し、米連邦捜査局(FBI)に目をつけられた。アメリカ政府を転覆させようとしている「テロリスト集団」と見なされたのだ。
警察との暴力的な対立により、党の中心的な指導者が何名かは死亡した。他の何名かは投獄された。1970年代の終わりには、ブラックパンサー党はほとんど消滅した。
これから紹介する写真では、ブラックパンサー党が1960年代~1970年代にアメリカに与えた影響がうかがえる。


























この記事は英語から翻訳・編集しました。 翻訳:五十川勇気 / 編集:BuzzFeed Japan