日系米国人の強制収容所を訪ねて考えたこと【後編】

    米大統領選挙後、ニューヨークのアジア系アメリカ人ライターである筆者は、二つの日系人強制収容所を訪れた。そして、過去が現代によみがえろうとしていることに気付いた。前後編の後編。前編はこちら


    私はマンザナーを出発し、約650キロ離れたアリゾナ州パーカーのポストンに向かった。ポストンは、1万8000人近い日系米国人が収監されていた、最大級の強制収容所だ。ポストンは、先住民の居留地だった場所につくられた2つの強制収容所のうちの一つだ。

    この収容所は、コロラド川流域にある先住民が暮らしていた場所に、先住民たちの反対を押し切って、米島嶼局(OIA:Office of Insular Affairs)の要請で建設された。OIAはWRAとともに、強制収容所の建設を決定し、収監された日系人と軍資金を使って、かんがいシステムや住宅、学校などを整備した。目的は、米国南西部にあるほかの居留地の先住民たちが暮らす「植民地」をつくることだった。居留地に入ると、青々としたアルファルファ畑と綿畑が広がっていた。OIAの計画は成功したようだ。

    私はポストンの歴史をあまり知らなかった。これまで読んできた強制収容の物語にあまり登場しなかったのはなぜだろう? もしかしたらあまりに身近で、米国人の物語と重なる部分が多いために、強制収容を思い出すに至らないのかもしれない。ここの過去は現在と重なっているのだ。調べれば調べるほど、ほとんどの人が触れたがらない建国の物語に近付いていく。

    私は、収監されていた日系人たちが1992年に設計建造した記念碑を目ざした。目印のヤシの木を見付けると、砂利の駐車場に車を泊めた。周りには誰もいなかった。空気は澄み、辺りは静寂に包まれていた。先住民が後に寄贈した0.4ヘクタールほどの土地に建てられている記念碑は、容易に見逃してしまうほど小さかった。遠くに家並みが見えたが、全く人の気配がなかった。時おり、干し草の塊を積んだトラックがごう音を立てて通り過ぎる以外は。

    私は、灯籠の形をしたコンクリート製キオスクからパンフレットを取ると、記念碑へと向かった。高さ10メートルほどの柱が空を突き刺すようにそびえ立ち、ずんぐりした六角形の土台に、強制収容所での暮らしを詳述した青銅の板がぐるりと貼り付けられている。記念碑の歴史や、兵役に服した日系人への賛辞とともに、日系人が書いた短詩が紹介されている。

    果てしなく続く戦争

    そして、果てしなく続く砂漠

    煮えたぎるような大気の流れ

    ほかに見るものもなかったため、そろそろ出発しようと思っていると、背後で、ほかの人が到着した砂利の音が聞こえた。駐車場にトラックが止まり、老夫婦が出てきた。アラスカのシャツ、メレルのスニーカー、顔にはサングラスという、中流の白人観光客に典型的な服装をしている。夫婦は記念碑まで歩き、写真を撮ると、私の横に立った。

    ここに来た理由を尋ねると、「人があまり訪れない場所が好きなの」と女性が言った。2人は、ワシントン州の厳しい冬から逃れるため、南西部を旅している最中だった。

    「今日は悲しい場所を選んだのですね」。私は思い切って尋ねてみた。

    男性がこちらを見た。私は相づちや同意を期待していなかった。

    「私はこれまで懸命に働き、早く引退できるよう金をためてきた。休暇を取って旅行したことなど1度もないよ! そして、ようやく自由に旅行できる身分になった。最近の人はあまりに気軽に旅をする。何でも手に入ると思っているんだ」と彼は述べた。「ここに連れて来られた人々は懸命に働き、精いっぱい生きていた」。2人はiPhoneで何枚か写真を撮ると、トラックに乗り込み、ハバス湖へと走り去った。

    私はトラックを見送りながら、写真家のアダムスに思いをはせていた。アダムスは、1943年の夏をマンザナーで過ごし、強制収容所とそこに暮らす人々の写真を撮影した。そして、「彼らの実直さ、陽気さ、清潔感に感銘を受けた」。アダムスによれば、日系人たちは勤勉で辛抱強く、砂漠の中に掘っ建て小屋の街をつくっていったという。こうした「回り道を経て、米国の市民権を手にした」

    居留地最大の町であるパーカーのショッピングセンターに、コロラド川流域先住民の小さな博物館がある。隣はドラッグストアの「CVS/ファーマシー」だ。私は、ポストンに残されているものを知りたいと思い、博物館に立ち寄ることにした。

    それまでに、すでにいくつかの建物を探し当てていた。強制収容所の小学校だった日干しれんがの建物群で、老朽化し、落書きされ、周囲には鎖が張り巡らされていた。巨額の税金が投じられて全体が史跡に生まれ変わったマンザナーと異なり、詳細を知るには、人々に聞いて回るしかなかった。

    ポストンは1945年に正式に閉鎖された。その後、居留地の住民に与えられた宿舎で、現在博物館の館長を務めるウィレーヌ・フィッシャー=ホルトは育った。子供時代はまだ、タールを染み込ませた黒い紙で風やちりを遮断し、前の家族が置いていった家具を使用していたという。両親の世代はポストンの記憶をとどめていると、フィッシャー=ホルトは話す。父親から聞いた話によれば、高校時代はOIAの警告を無視して強制収容所に行き、日系米国人の学生チームとバスケットボールをしていたという。

    驚いたことに、フィッシャー=ホルトは強制収容について個人的な意見を持っていないと述べた。それでも、記念碑に行って掃除をしたことはある。「記念碑を汚い状態で見られるのが嫌だった」

    マンザナーのビジターセンターには、白い十字架の周りに集まった5人の男性の写真が飾られている。背景は軍人墓地のようで、男性たちの背後には、まるでどこまでも広がる海のように、無数の十字架が並んでいる。写真の上には、ハリー・トルーマン大統領が戦後、兵役を終えた日系人たちに送った言葉が添えられている。「君たちは敵と戦っただけでなく、偏見とも戦った。そして、勝利を収めた」

    マンザナーとポストンへの旅が終わってからも、しばらくこの写真のことが頭から離れなかった。一見、愛国心の勝利をたたえ合っているようだが、男性たちの顔には、忠誠心や愛国心を超えた現実が映し出されている。その不安そうなで暗い目を、私は忘れることができなかった。

    強制収容の物語とは、こうした男性たちの顔に刻まれた矛盾であり、居留地が強制収容所になった先住民の物語でもある。兵役を拒否した人、労働組合のまとめ役や、愛国心を誓わなかったことで投獄された人。強制収容はこうした人々の物語でもある。しかし私たちはほとんどの場合、一つの物語だけを見ている。

    レーガン大統領は1988年、強制収容を生き抜いた日系米国人に賠償金を支払うための法律に署名したとき、こうした物語を公認した。そして、「最後まで米国に忠誠を尽くした何万もの」日系米国人、中でも「自ら強制収容所に入り、米軍に志願した多くの日系米国人」をたたえた。

    周囲の人々から反感を買いながらも強制収容所の日系米国人を支援してきた人々も、その動機としてこうした物語を挙げている。カリフォルニア州ストックトンで高校教師の仕事をしていたエリザベス・ハンバーガーは、「ジャップの愛人」と呼ばれながらも、強制収容所に送られた元生徒たちが勉強を続けられるよう、本を寄贈し、教師の訓練を行った。強制収容所が閉鎖され、日系人たちが25ドルを受け取って退去させられたときも、ハンバーガーは、元生徒たちとその家族の一時的な避難所として自宅を開放した。

    生活を再建できたのはハンバーガーのおかげだと、多くの人が感謝の言葉を口にしている。数十年後、このような行動を起こした理由を尋ねられたハンバーガーは、「もし私がやらなくても、誰かが同じことをしただろう。日系人たちは正直に、誠実に、勤勉に、忍耐強く行動し続けた。私がしたことは、こうした人々を知る誰もがするはずのことだ」

    ただ私は、こうした物語をそのまま受け取ることができないでいる。知るのが遅すぎたとか、強制収容に対する人々の複雑な反応が覆い隠されているとか、憤りや絶望、そして抵抗といった別の物語が無視されているとか、そういうことだけではない。こうした物語が安易な同情に依存しているからだ。それは、犠牲になった人々に完璧な理想像を求め、そうでない人々を除外することで成立するような同情だ。

    私たちは、安易な同情には疑問の目を向けなければならない。なぜなら、そこからは同情のすることになった元の理由が抹消されていることが多いからだ。人種や性別、愛する人、過ちを犯す権利、怒りを表現する権利。安易な同情は、このような人間性や人間らしさを打ち消した上で生まれる感情であることが多いのだ。

    私たちの同情や抗議は、一部の人々だけに向けられるべきなのだろうか? 「忠誠心ある」日系米国人や、「善良な」移民、「愛国的な」イスラム教徒。同情に価すると判断される基準は、そもそもどのように決められているのだろうか。

    もしこれがわれわれの想像力や共感力の限界であり、これからの4年間で確実に直面するであろう事柄に異議を唱える基準であるのなら、私たちはそうした基準を拡大する方法を見付けなければならないだろう。(終わり)


    (この記事は英語から翻訳されました。翻訳:米井香織、合原弘子/ガリレオ、編集:中野満美子/BuzzFeed Japan