反発もあるが、 #MeToo 運動は社会を変えつつある

    #MeToo運動で告発された男たちが息を吹き返す新たな傾向や、性的暴行の被害を訴えた女性に対する反発が見られる。しかしこれは、このムーブメントが失敗しつつあることを意味するわけではない。実際の変化が起きている証拠だ。

    後に「#MeToo運動」と呼ばれるようになったムーブメントが起きたばかりで、世間が騒然としていたころは、希望が持つことはたやすかった。

    映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインに関する性的暴行疑惑が最初に『ニューヨーク・タイムズ』紙で報じられ、それが世間に知れ渡った時には、何も変わらないだろうという憶測があった。

    それまでハリウッドでは、性的暴行や性的嫌がらせ(セクハラ)についての意識を積極的に認めようとする人はほとんどいなかったし、ワインスタインを公然と非難する人はなかなか現れなかったからだ。

    しかしその後、『ニューヨーカー』誌にローナン・ファローが、複数のハリウッドスターたちの公式証言を盛り込んだ記事を寄稿すると、ダムが決壊したかのごとく、より多くのスターたちが声をあげ、より多くのエピソード不利な証拠が明らかになっていった。

    ハーヴェイ・ワインスタインのキャリアは終わったかに見えた。

    その後、運動はツイッターやフェイスブックを通じて拡散し始め、#MeTooと声をあげる無数の投稿からは、「システム全体の病」としか思えない状況があることが浮き彫りにされてきた。ハラスメントや性的暴行が多発するだけでなく、サバイバーの多くが、自分の身に起きた出来事は取るに足らないものだという考えを内在化するような状況が蔓延していたのだ。加害者は、何の歯止めもなく行為できたし、何のとがめもなくそのまま行為を続けていた。

    そうしたなか、#MeToo運動は、自分に起きた出来事は、それがどんな類いの性的暴行や虐待であれ、重大な問題であり、声をあげるに値するのだということを示した。

    女性たちに対して、#MeToo運動が始まった頃の様子、つまり、性的暴行や、別の男性の疑惑が毎朝のように報道されていた日々について尋ねてみると、彼女たちはあの頃を、騒然とした混乱状態として覚えている。#MeeToo問題はつねにそこにあり、その勢いは衰えを知らないように思えた。巻き返しが起こりそうな様子はうすうす見え始めていたが、その一方で、信念を持った女性たちのメッセージも、告発された人間は重大な事態に直面するのだという主張も、揺らがなかった。

    性的暴行を受けたのが5カ月前であろうと50年前であろうと関係ない。男性は自らの行為にけじめをつけなくてはならない。けじめのつけ方はケースによりけりとはいえ、力関係が根本的に変わりつつあることを感じ取ることができた。

    男性はこれからは、ひとり残らず、ローナン・ファローの記事のネタにされることを前提にして行動していくべきだというジョークも飛び交っている。だが、そのジョークの裏には驚異的なパワーを持ったメッセージが隠れている。

    #MeToo運動で暴かれたような心理的かつ性的な暴力は、これまで長年にわたり、ごく普通のこととして許され、見て見ぬふりをされてきた。しかし、そういった行為は今後、重大な事態を招くだろう。そのように、初めて感じられるのだ。

    ワインスタインの行為が発覚してからおよそ1年が経つと、予想どおりに反発が起きた。とはいえ、思っていたのとは様子が違った。非難された(そして非を認めた)加害者たちは、人生を仕切り直そう、あるいは自分たちの話を取り繕おうとした。彼らの意見は「耳を傾ける価値がある」と考えた男性エディターがいて、力を貸したからだ。

    米テレビネットワークCBSの会長兼最高経営責任者(CEO)レスリー・ムーンヴェスは、セクハラ疑惑が取りざたされたあと、ファローが記事2書き、女性12人が申し立てを行って、ようやく辞任に追い込まれた。

    男性たちは援護射撃をしたが、やり方は相変わらずまずかった。イタリア人の映画監督は、カンヌ国際映画祭で「Harvey Weinstein is Innocent(ハーヴェイ・ワインスタインは無実だ)」と胸元に書かれたTシャツを着てレッドカーペットに登場した。未成年男性に対するレイプ疑惑が浮上した映画監督ブライアン・シンガーはどういうわけか、次回作についていまでも「交渉中」だとされている。

    養女への性的虐待疑惑がささやかれていたウッディ・アレンについては、『ニューヨーク・マガジン』誌が特集記事を組んで、当の養女であるスン=イー・プレヴィンがアレンを擁護する記事を掲載した。彼女にインタビューをしたのは、アレンの長年の友人であり、#MeToo運動を「その場しのぎで、時として根も葉もない告発の連続だ」と切り捨てたライターのダフネ・マーキンだ。

    一方、アメリカ連邦最高裁判所判事として指名を受け、承認を待つブレット・カバノー判事に、心理学教授のクリスティン・ブラジー・フォードは、性的暴行を受けたと申し立てた。カバノーは告発内容を否定。フォードの訴えは信用できないとしてあっさりとはねつける動きがあった。

    性的暴行やセクハラを受けたという告発が相次ぎ、大小さまざまなかたちで報道がなされてきたことで、「デートレイプと不快なセックス」はどう違うのか、また、「精神的虐待と誇大妄想」は何が違うのかという、容易に答えが出せない問題をめぐって議論が巻き起こっている

    しかし、私の知人女性たちに言わせれば、そんな議論をしたところで、より大きな動きを否定することにはならないし、反論にさえならない。そうした議論は難しく、ストレスも感じるが、運動を衰えさせるところか、結局は強化する。そうした議論が起きたことは、今まで一切なかった。公の場となればなおさらだ。こうして議論しても、結論が出ないかもしれない。

    告発された男性たちをどうすべきか、決定的な答えは出ていない。彼らのせいで私たちは、自らの行動と、これまで容認されてきた力関係について「ますます」考えるようになった。考えなくなったりは、まったくしていない。

    それと同じことは、加害者がどのような態度をとり、どんな風に話し、どう行動してほしいのかという、私たちの期待についても言える。もちろん、性的暴行を白か黒かで判断し、告発された側がどんな事態に直面するのかという道筋が明確であれば簡単だろう。しかし、それは現実的ではない。

    ワインスタインに対する申し立て内容はあまりにもひどかったので、かなり懐疑的な人間でさえも納得したようだ。しかし同時に、あるパラダイムを打ちたてる結果となった。

    つまり、ワインスタインと同じくらい広範囲かつ搾取的な行為でなければ、性犯罪ではないと考える人間が現れたのだ。モンスターか聖人かのいずれかであって、その中間は存在しないというわけだ。

    しかし現実を見ると、性的暴行の大半は、黒か白か判断しがたいグレーの状況で起こっており、加害者は普段、思いやりがあって親切な人間である場合が多い。十数人、数百人、いや数千人に対しては無害だったとしても、誰かに対しては性的暴行を働くのだ。

    しかし、そうした結論にたどり着くには、社会としての私たちが、ありとあらゆる種類の微妙な差異を持つ、考え難い性的暴行のかたちについて、話し合いを続けなくてはならない。また、1人の男性を相手にした1人の経験、さらには1人の男性を相手にした65人の経験があっても、別の人間の経験が未然に防がれるわけではないことを認識しなくてはならない。

    ウッディ・アレンに関するひとりの娘の経験が、その姉妹や兄弟が受けた経験を帳消しにするわけではない。そうした議論には心がかき乱されるが、性的暴行についての議論はもともとそうであるべきだ。動揺して当然なのだ。性的暴行の経験者がその経験を背負って生きていかなければならないのなら、私たちも、議論することで生じる、比較的ささやかな当惑を背負って生きていべきだ。

    そうした取り組みはつらいものだ。つねに考えていると、心がすり減る。性的暴行者が現れ、自らの行動を説明したり潔白を証明したりする場が、コメディクラブの舞台有名雑誌のなかで与えられるとき、そのたびにそれを批判するのは骨が折れる。理解してもらえないのだとたびたび気づかされれば、サバイバーは神経が磨り減る。歴史が何度も繰り返されるのを見るのは、いい加減うんざりする。

    やらなくてはならない仕事はたいてい、退屈で繰り返しであるものが多い。漫然としていて無益な気がする。男性が権力を握っている状況をわかってもらおうとして何度も慎重に試みても、理解してもらえず、結局は男が力を持っていることをまざまざと見せつけられた場合はとりわけむなしい。

    ときには、理解してくれる人がたくさん存在していることを忘れそうになる。男性、女性、ティーンエイジャー、祖父母、母親、父親、上司、従業員。私たちは、社会の意識を変えようと努力している。けれども、どんなときでもサポートは必要だ。

    告発された人間が、いかに狡猾かつ効果的に、自らを「本当の被害者」に仕立て上げることができるのかを説明する人間が必要だ。

    交際中の女性に暴力をふるったと告発されたカナダのラジオホスト、ジャン・ゴメシに対し、弁明の場として雑誌のページを提供するのがなぜ適切でないかを、丁寧に説明する人間が必要だ。コメディアンのC.K.が、「レイプ・ホイッスル」(レイプされたときに助けを求めるための笛)を冗談のネタにしてはいけないことを、丁寧に説明する人間が必要だ。性的虐待が疑われる人間に、女性の体についてあれこれ言えるよう法の力を与えていけないのはなぜかを、丁寧に説明する人間が必要だ。

    そういったことが十分に理解され、自分のこととして考えてもらえるようになるまで、私たちは説明を続けなくてはならない。

    そうした取り組みはときどき、同じことの繰り返しでしかないような気持ちになる。感情をむき出しにして同じことを訴え、文句ばかり言っている男嫌いになったような気がする。しかし、私は男性が憎いわけではない。それは、私のように声をあげ続けているほかの人も同じだ。

    私が憎いのは性的虐待であり、存続が許されている家父長的かつ女性蔑視的な力関係だ。

    「不満ばかりを口にするビッチになってはいけない」という声が頭のなかで聞こえてこないかって? 聞こえるとすればそれは、何十年も前から私にささやきかけるメッセージ、つまり、「好き放題に自分の意見を口にして、黙れと言われても黙らない女性は嫌われる」というメッセージの名残りだ。そんな女性はセックス相手には向かず採用するに値せず、好ましくない、とそのメッセージは語る。

    フェミニストが懐疑的な人間を味方に引き入れたいなら、自分自身や、自分たちが発するメッセージをできるだけ魅力的にするしか方法はない、などと言われたとしても、そんな意見を聞き入れることは断固拒否すべきだ。

    1年で目的を達成できるムーブメントなどない。#MeToo運動は実際に、ムーブメントとしてのスタートラインにさえ立っていない。けれども、数十年にわたって訴えられてきた主張の集大成であり、新たなチャプターのはじまりなのだ。

    私は、人に対してつねにこう話す。フェミニズムの歴史は、二歩進んで一歩下がるものだ、と。

    支配的な家父長制に、わずかのほころびが生じたとしても、そのほころびをつくろい、前にもまして足場を固めようとする試みは始まるものだ。反動が起きるのは、進歩していることの何よりの証拠だ。

    私たちが次にやるべきなのは、目前に現れた抵抗勢力を前にひれ伏すことではない。あるいは、1991年に起きたアニタ・ヒル事件と似た現在の状況が、1990年代と同じような、10年間にわたる「ポストフェミニストの揺り戻し」へと移行するのを許すことでもない(1991年、クラレンス・トーマスが黒人初の米最高裁判事候補として指名された時、元部下のアニタ・ヒルは彼からセクハラを受けたと告発し、上院司法委員会の公聴会で証言したが、結局トーマスは判事に就任した)。

    作家レベッカ・トレイスターが指摘するように、そういった揺り戻しのさなかでも、女性たちは選挙に立候補し、中途半端な和解を拒み、セクシャルハラスメントを、性差別のひとつの形態だと呼ぶ手助けをしてきた。「アニタ・ヒルとトーマス判事の公聴会が開かれたときにまかれた種は、ここ2年で花開いた」とトレイスターは述べている。

    現在の状況を見て、後戻りしたような気になるかもしれない。しかしこれは、前進するための長く苦難に満ちた旅における確かな一歩だ。変化を起こすのは容易ではないが、変化はたしかに起きており、私たちが先頭に立って進めば、変化はこの先も起きていくことを示す兆候である。

    クリスティン・ブラジー・フォードは、カバノーに対する性的暴行の申し立てを躊躇していた理由を問われた際に、こう答えた。「重大だとみなされないことがわかっている場合、黙殺されるのを耐え忍ぼうとは思わないでしょう」

    この答えは大勢の心情を反映している。いまのところ、上院司法委員会は公聴会を開いて、フォードとカバノーに証言を求める予定だ。公聴会で何が起ころうと、黙殺に屈せずに、フォードが自らの体験を語ることが重要だ。身も心もすり減らすこの戦いには意味がある。性的暴行について沈黙するのを拒むこと、居座り続ける力の格差について声をあげ続けること、それが重要なのだ。

    現在のような状況下では、#MeTooが達成しようとしている目標が損なわれているように思えることもあるかもしれない。

    私たちはいまだに、告発された人間についてどう対処し、どう扱うべきか、彼らはどのようにして社会復帰するのか、彼らが社会から忘れ去られるのを単に待つとしたらどうなるのか、などの問いに関する答えを得ていない。けれども、も女も同じように学んでいるのは、議論を続けていく中で、どうすれば、女性の経験をより中心に位置づけられるのかということだ。それはあながち失敗ではないように思える。

    不愉快だし、風当たりは強いけれど、静かに希望が持てる変化の証のように感じる。

    この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:遠藤康子/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan

    注:この記事の原文は9月17日に掲載されました。