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伸ばされた手、掴めなかった。だから語り続ける「16歳の語り部」

2016年、『16歳の語り部』という本を3人の高校生が出版した。あれから4年、大学生となった1人の語り部は震災と向き合い続ける道を選んだ。

東日本大震災から5年後に出版された本がある。

16歳の語り部』。震災当時に小学5年生で、出版時には高校生に成長していた3人が、それぞれの体験をもとに綴った1冊だ。

その著者の1人、雁部那由多さんは20歳になった。大学へ進学し、東日本大震災に関する聞き取りを続ける。

一度はエンジニアになることを夢見て、工学部への進学も考えた。いま、改めて震災と向き合うため研究の道へと進む。

「記憶を残さなくてはいけない」とは言えない

「語り部の活動は、実はやりたいと思って始めたことではないんですよ」

雁部さんが最初に口にしたのは、この言葉だった。様々な場所で語り部として活動し、本も出版した彼から、そんな言葉が出るとは思っていなかった。

「最初は自分のためにはじめた部分も大きいものですから、何か使命感や義務感を持っていたわけではありませんでした」

雁部さんが語り部の活動をはじめたのは震災の3年後。そこから2年は自分のための語りが続いたと明かす。

「例えば記憶を残さなくてはいけない、と発信される語り部の方もいらっしゃると思います。でも、私はその言葉を口にすることはできなかった。そもそも、自分の中であの日の出来事を処理しきれてすらいませんでした」

「記憶や記録を残すことは大事です。でもその役割を自分が担えるか?と聞かれたらあまりに重責すぎる」

それでも、今も語り部を続ける。その裏には、どんな思いがあるのだろうか。

伸ばされた手、掴めなかった

2011年3月11日、雁部さんは当時、東松島市立大曲小学校の5年生だった。

体育館で体育の授業を受けている時、地震に襲われた。校庭に避難し、その後4歳下の妹と迎えに来た母親と一緒に帰宅した。

家に着いて一息ついた頃、父親が持っていた無線から女川に津波が来たことを知らせる情報が流れてきた。雁部さんはすぐに祖母、母、妹と大曲小へと避難した。

小学校には多くの人が避難していた。一度は体育館に避難したが、すぐに校舎の3階へと移動した。

上履きを履いたまま避難していたため、足はガラス片や釘で血だらけになっていた。3階の図書室に入ってから、買ったばかりの靴があったので、それに履き替えようと思い立った。昇降口まで取りに戻ると、黒い水が流れ込んできていた。横からは大きな波が押し寄せる。目の前で大人が5人、津波にさらわれた。

1人の男性が雁部さんに向かい手を伸ばした。

「その手を掴んだら、自分も死んでしまう」。そう直感し、手を伸ばすことができなかった。男性は波に飲まれていく。目をそらして、雁部さんは階段を駆け上がった。

誰かにはっきり言われたわけではない。再開後の小学校では震災を話がタブー視され、3年間、あの日の出来事に触れることはできなかった。語らないように、思い出さないようにと、自分の心に蓋をした。

語り部として語りはじめたのは2014年のことだ。高校で開かれたあるシンポジウムでその機会は訪れた。

それ以来、日々、あの日の出来事に向き合い続ける。今でもふとした時、パッとあの日のことを思い出す。ノートに書き留め続けているのは記憶の断片だ。

「なぜ語り続けるのか」。様々な人にそう問われる。そのたび「社会のために語り部として語ってきたわけではない」と伝えてきた。

あの出来事を自分なりに処理するため。それが本心だ。語ることでしか、震災で目にしたことを整理することができなかったと口にする。

あの日から9年、まだ処理できたものは「1割にも満たない」。

節目で出した本、その意味は?

「災害について節目だけで伝えることに批判があるとは思います。ですが、節目だけでも伝えることに意味はある」

「節目ですら伝えなくなったら、誰が思い出すのか?誰が伝えるのか?だから僕は『16歳の語り部』という本が節目に出された典型的な震災ものの本として消費されても構わないと思ったんです」

「結果的に消費されたとしても、読んだという事実、伝わったという事実は残る」、そう信じる。

語る雁部さんの表情にも力が込もる。「その事実に僕は賭けたんです」

本を出版してから、差出人のない手紙をはじめ様々な批判を受け取った。周囲からの批判を受け止めながら、それすら「背負うべき責任だ」と受け止める。

震災で被害にあうことは、自ら選んだことではない。それでも語ることに付きまとう様々な責任を、ここまで引き受けるのはなぜか。

「なんで背負っちゃったんだろう、ということは僕の大学での研究テーマでもあるんですよね。語り部もせず、本も出さず、何もしない方が楽なはず。それでも、人が背負うのはなぜなのか…」

答えはまだない。むしろ、その答えを見つけるために社会学を学ぶ道に進んだ。

「震災という出来事を経験したことを何かにつけて意味付けしたくなる自分がいます。意味付けをしないと、宙に浮いてしまう気がしちゃうんですよね」

他の場所で語り部をする人との交流も増えてきた。研究対象として耳を傾けることも少なくない。

そんな中で気付いたのは、多くの人があの日の体験を「使う」ことに罪悪感を抱いているということだ。

「僕だって、悪く言ってしまえばあの日体験したことを使っている。使うにあたって、なぜ私は使うことが許されるのか、理由が必要です。そのとき、自分を含め多くの人が『私には伝える責任がある』と言い聞かせるのだと思います」

「語りの中で生かし続けてくれた」

自らが震災の体験を語ることに、「少しずつ意味を見出した」と雁部さんは言う。語っていく中で「自分が楽になる」。この状況は今も続く。

本を出版してから、あの日、目の前で流された男性の遺族と会うことができた。本を偶然手に取った遺族から、雁部さんが書き残した男性は「うちの人のことではないですか?」と連絡が届いた。

記憶はまばらで、顔もはっきりとは思い出せない。だが、服装や見つかった状況が遺族の持つ情報と一致した。

「きっと、あなたが最後に見たんですよね」、そう声をかけられた。「語ってくれてありがとう」。まさか感謝されるとは、思わぬ言葉に驚きを隠せなかった。

「語りの中で生かし続けてくれた」、その言葉に心が少しだけ軽くなった。

「語り続ける自分の心の中には、贖罪のような気持ちもあったのは事実です。せめて自分一人の中に止めておくのではなく、誰かに伝えようと。だから、ご遺族の方からその言葉をいただけたというのは大きかったですね」

3月11日だけは震災と距離を置く

「震災の記憶と感情の行方不明 - 失われた記憶と家族関係」と題した論文を雁部さんはこの冬、書き上げた。

論文は所属する東北学院大学・金菱清ゼミが今年3月11日に出版する『震災と行方不明 曖昧な喪失と受容の物語』に収録されている。

研究のため向き合ったのは、身近な誰かや家を失うといった被害はなく一般的に「軽微な被災」と片付けられることで被災者として扱われることに違和感を感じてきた人の語りだ。

「中間被災者」とも表現されるそうした人の語りを記録した。

《軽度の被災であったからこそ生じた複雑な感情にじっと耐え続け、震災から8年半を経てようやく向き合い始めた姿なのである。》

雁部さんはあの日からの体験を語ってくれた人の姿を、このように記す。

研究の道には足を踏み入れたばかり。これからは自身が被災者であるということとは切り分けて、研究対象に向き合う必要があると考えている。

「逃げたいと思ったことはあります。当然ありますよ」。雁部さんは語る。

だから、1年に1日だけは絶対にあの日のことを語らずに一人で過ごすと決めている。それが3月11日だ。

様々なメディアから、3月11日に取材がしたいと依頼が殺到する。この日に語ってほしいという語り部の依頼も後を絶たない。だが毎年、断ってきた。

「その1日だけはあらゆることから逃げて、ただただ手を合わせる。逃げていないわけじゃないんです、逃げながらやっています。3月11日だけは唯一、自分が震災から逃げられる日なんです」

「大きな意味を持つ1日に、あえて震災と距離を置く。そうすることで、いつだって自分は震災を語ることから逃げることができるんだと言い聞かせることができるんです」

語り部をはじめて、もうすぐ7年。時々、答えめいたことを言いたくなる自分がいる。「あの時、こうしていれば…」そんな言葉を口にするたび、「果たして、本当にそうなのか?」、自分自身に問いかけてきた。

安易な「答え」は口にしない。あの日、目にしたことを淡々とこれからも語り続ける。