「史上最悪の作戦」の地インパールで、地元青年らが資料館を建設 日本から支援

    日本軍がインド侵攻を目指し、補給を無視した稚拙な作戦に多くの兵士が飢えや病で倒れ、「太平洋戦争で最も無謀の作戦」と呼ばれたインパール作戦。数万の日本軍兵士が倒れた地で、地元の青年らが戦跡を掘り起こして当時の兵器や遺品を回収し、資料館をつくっている。日本からの資金援助で11月にオープンする予定だ。


    旧日本軍がビルマ(当時)からインド東部の攻略を目指し、食料や弾薬の補給を無視したずさんな作戦で膨大な死者を出した、1944年の「インパール作戦」をご存じですか。

    旧軍の無謀さの象徴と言われるこの作戦の舞台となったインド東部インパール(現地発音ではインファル)で、地元の青年たちが74年前の戦争の記録と記憶を掘り起こし、資料館を建設しようとしています。日本からも支援が入り、11月に開館する予定です。

    史上最悪の作戦

    インパール作戦は、陸軍の牟田口廉也中将が、当時の連合国軍側が中華民国に物資を送る「援蒋ルート」を遮断することを目的に、1944年3月に始めた。ビルマから険しいアラカン山脈を越えてインド北東部に侵入し、当時インドを支配していた英国軍を退けて北東部を占領することを目指した。

    だが、上層部が食料などの補給を軽視したため、兵士らは戦闘だけでなく飢えと病に苦しみ、次々と倒れた。作戦は4カ月後に中止されたが、険しい山中の撤退ルートに沿って日本兵の死体が積み上がり、「白骨街道」と呼ばれる惨状となった。

    精神論を振りかざして無謀な要求を突きつける上層部と、忖度する周囲。振り回され、疲弊する現場。この作戦の構図を巡り、2017年にNHKが「戦慄の記録・インパール」を放送。「今の日本社会にも同じような状況がある」とTwitter上でハッシュタグ「#あなたの周りのインパール作戦」が立ち上がった。

    「日本戦争」

    この作戦は、地元では「ジャパン・ラン(日本戦争)」と呼ばれてきた。

    第2次大戦中に戦闘が行われたインドではほぼ唯一の地域で、地元の人々も戦闘の中を逃げ惑った。しかし、年月とともにその記憶は次第に忘れられていった。

    インパールに生まれ育ったアランバム・アンガンバ・シンさん(44)は、インド軍将校の父親を持ち、以前から戦争に関心を持っていた。そのうち、友人らと少しずつ記録を集め、戦闘のあった場所を訪れて掘り起こし、当時の兵器や兵士の遺品、さらには白骨となった遺体などの調査を始めた。

    自らの手で資料をあつめ、私設資料館を開設

    「戦争を自分たちの手できちんと記録し、遺品などを集めて記念式典を開くべきだ」と考え、仲間たちと「第2次大戦インパール作戦財団」を設立。作戦から70周年となる2014年、アランバムさんの自宅の納屋を整備して私設の資料館を開いた。

    この年の6月にはマニプール州政府の協力を得て、日本やイギリス、オーストラリアなど、参戦国の外交官らを集めたインパール作戦70周年記念式典を開いた。翌年も式典を続けた。

    広がる協力の輪 新館建設へ

    私設資料館を訪れて感銘を受けた八木大使ら日本大使館や地元州政府など関係者の間で、資金を投入して資料館を拡充し、より多くの人々に訴えられるものにすべきではないかという議論が持ち上がった。

    大使館員らが財源を探した結果、日本財団が5000万円を拠出し、新たに資料館を建設することになった。予定地はインパール近郊の激戦の地として知られ、英軍側が「レッドヒル」、日本軍は「2926高地」と呼んだ丘のふもとだ。

    周囲には日印政府が合同で建立した平和記念碑などが並ぶ。

    さらに、関連組織の笹川平和財団が、資料館のオープンに向けてソフト面での支援に乗りだした。アランバムさんは2018年7月、平和財団の招待で来日した。

    アランバムさんと、地元の人々の証言を記録するため同行した地元の映像作家とジャーナリストの3人は、「ひめゆり平和記念資料館」などを視察し、戦争と平和を巡る資料館のあり方を学んだ。

    工事は8月に終わり、その後、視察の成果を活かして資料の整理などを進め、11月にも開館する見通しだ。

    複雑な歴史

    日本政府や地元の州政府、そして日本財団が支援に乗り出したのには、理由がある。

    インパールのあるマニプール州などインド北東部8州はミャンマーや中国、ブータンなどと国境を接する山岳地帯で、いくつもの民族が暮らしている。その多くはミャンマーやブータン、チベット人などに近く、いわゆる「インド人」のイメージとは異なる。日本人と見分けが付かない人も珍しくない。

    主食は米で、納豆に似た発酵大豆や、米を使った「ユ」と呼ばれる蒸留酒もある。歌や踊りなどの文化面でも、インドよりも、東南アジアや東アジアとの共通点が多い。

    こうした歴史的な経緯や文化的な違いから、この地域では1947年のインド独立後、インドからの独立や自治権の強化を求める武装闘争が続いた。

    治安上の懸念から外国人の立ち入りは最近まで制限され、経済開発も遅れていた。このため日本兵の遺骨収集も近年までほとんど手つかずのままで、今も多くの遺骨が見つかる。

    現在では治安はおおむね回復し、旅行に大きな支障はなくなっているが、散発的な戦闘やテロが起きている。この独立闘争のきっかけの一つが、インパール作戦だったという。

    アランバムさんによると、自分たちと似たような顔をした日本人がイギリス人と戦う姿を見たことで、地元の人々の民族意識が刺激された面があるという。

    笹川平和財団の大野修一理事長は「北東部諸州では年に300以上の爆弾事件が起き、武装闘争が続いている。それに火を付けたものの一つが、インパール作戦だ。それに対して日本の我々はもっと知るべきだし、責任を感じるべきだと思う」と語る。

    マニプール州では、インパールを中心とした戦跡を活用した観光振興策が検討されている。地元の観光業関係者は「例えば広島は、世界から多くの人々が集まって平和を考える地となり、ホテルなどの観光業が地元経済に貢献している。インパールもそういう方向を目指すべきだ」と語る。

    アランバムさんは「日本の支援には感謝している。私たちはこの資料館を通じて自分たちの視点で歴史を見つめ直したい。同時に、和解と平和も重要だ。この地では暴力が吹き荒れた時期もあり、平和の大切さを訴えたい」と語る。

    資料収集や翻訳で日本人の力を

    アランバムさんには、日本人の手を借りたいことが、もう一つある。

    地元の人々は英語に堪能な人は多いが、日本語の資料を読みこなせる人はほとんどいない。

    このため、インパール作戦を巡る資料を集めようにも、どうしても英語で書かれた英軍側のものばかりとなり、日英印それぞれの視点から戦争を見つめ直すことが難しい状況が続いているのだ。

    「日本語での資料収集や、その翻訳をしていただけるボランティアを探している。ぜひ協力をお願いしたい」という。

    ボランティアの問い合わせは、日本での窓口となる笹川平和財財団・アジアの平和と安定化事業グループへ。

    電話:03-5157-5160

    e-mail: asiapeace@spf.or.jp