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少年は戦争中、3カ国に家族を殺された。88歳になった今、伝えたいこと

太平洋戦争中、日本とフィリピンの狭間に立たされた少年が体験した戦争。日系人男性へのロング・インタビュー前編。

78年前の12月8日、太平洋戦争が始まった。

日本がはじめた戦争には、フィリピンやパラオ、ミャンマーなどに暮らす人たちも、巻き込まれていった。

人生を大きく変えられた人も少なくはない。戦中に家族5人を、日本軍、米軍、そしてフィリピンゲリラにより殺された、日系人の男性はいう。

「真珠湾攻撃から始まって、僕たちの生活も、戦争のせいで粉々になってしまった」

男性がBuzzFeed Newsに語った、戦争の記憶とは。前後編にわけてお伝えする。

後編はこちら:「故郷で石を投げられた」反日感情と2つの国のはざまで。戦争に家族を奪われた、男性の思い

日系2世の寺岡カルロスさん(88)は、1930年、フィリピンのルソン島北部にあるバギオ市で、日本人の父・寺岡宗雄さんとフィリピン人の母・アントニーナさんの間に生まれた。

父・宗雄さんは山口県大島郡の出身。二十歳にも満たない若者だった1916年、フィリピンへ渡っている。

日本は戦前、経済的にも貧しく、ブラジルやハワイ、そしてフィリピンなど各国に出稼ぎ労働者となるべく、移住した。

現地人と結婚し家族を作った人も多かった。フィリピンでの最盛期の日系人コミュニティは3万人にものぼったという。寺岡家もそのうちの一つだった。

宗雄さんは建築業で成功し、アントニーナさんとの間に6人の子をもうけたが、41歳の時に結核で死亡した。

その死と入れ替わるかのように、バギオにも戦争の足音が近づいてきた。4カ月後、太平洋戦争が始まったのだ。

日本軍はアメリカ、ハワイ海軍の真珠湾基地を攻撃した数時間後、フィリピンでもミンダナオ島のダバオや、北部ルソンのバギオ、クラークなどを空襲。

翌1942年1月から軍政を開始し、45年8月の終戦まで、3年半以上にわたりフィリピンを占領した。

憧れだった特攻隊、「洗脳されていました」

寺岡さんには2人の兄がいた。日系人コミュニティの影響も強く「自分は日本人」という思いから、日本軍に協力していたという。

バギオで日本人学校に通っていた寺岡さんは、学校で習ったことや、映画の影響で、特攻隊や兵隊に「憧れていた」と語る。

「小学校で洗脳されていましたから。映画を見ても、予科練の7つボタン、青空へ旅立つ飛行機など、いいことばかり見せますから、それはかっこよかった。クラスの人も皆志願をしようと思っていました」

ルソン島のパンパンガ州クラークには、旧日本軍のマバラカット飛行場があり、神風特攻隊がそこから出陣していた。今でも、慰霊碑が建っている。

「予科練の飛行士になるのに私も憧れました。私も志願をしようと思ったんですけど、13歳だからダメだった。受かっていたら私はおりませんね」

14歳で孤児、家長になった朝

1944年10月、米軍はレイテ島に上陸。フィリピンでの戦いが激化した。

翌45年の2月から3月にかけては、ルソン島のマニラ市街戦で10万人以上が犠牲となったとされている。米軍の激しい爆撃により、城塞都市・イントラムロスの教会も破壊され、マニラの街は焦土と化した。

バギオでは4月半ばから、侵攻してきた米軍と日本軍は激しい攻防を繰り広げ、町は1945年4月25日に陥落した。

寺岡さん一家は命を守るため、その2日前の夜からジャングルに入り、逃避行を始めていた。

山の中に逃げていたのは、当時14歳だった寺岡さんと、母親、2人の妹と弟、叔母とその息子だった。

逃避行を始めた最初の朝、ご飯を炊く準備をしていた時に、米軍の飛行機が飛んできたのを見た。

「約2分の間に100発もの爆弾が落ちてきたんです。周りは地獄と化しました。人がうなされたり、吹っ飛ばされたりしているのを目の前で見ました」

爆撃の中を逃げ惑う中、爆弾の破片が母・アントニーナさんの心臓に刺さった。

「母親が『みんな、こっちこっち』と呼んだから みんなで走って行ったんです。そしたら、そのままうつ伏せになっていて。もう死んでいました」

何度も感じた「死ぬ間際」

爆撃では、まだ小さかった弟や妹、叔母も亡くなった。

残ったのは、寺岡さんと10歳の妹、そして亡くなった叔母の息子である8歳のいとこだけだった。当時の心境をこう語る。

「私は14歳で孤児になったんです。しかし孤児だけでなく家長になった。初めは泣きました。しかし、頑張らないと。家長になったから、みんなを守る必要がある」

母親や兄弟が亡くなってからも、寺岡さんは妹といとこを連れて、日本兵や他の日系人家族らと逃避行を続けた。

「死ぬ間際というのを何回も体験しています」

砲撃の発射音が聞こえては逃れ、周りの人が撃たれるとまた発射音が聞こえる。「これで終わりだ」。何度も聞こえてくる発射音で、人生の最後を感じたという。

「アメリカ軍が山へ入ってくるときは 山の形が変わるほど砲撃でぶち壊すんです。そして、誰もいないだろう、みんな死んだだろうと思って入ってくる。まだ兵隊が残っていると、引き上げて砲撃。それで機銃掃射もやるんですね」

憧れた「兵隊さん」と山の中での現実

みんな、食料がなくて飢えていた。

「山では食べ物がなかった 初めは地方の山岳地帯の人たちが植えたサツマイモの畑があったので、それを掘り出して食べていました。そのうちにそれもなくなってしまい、南方春菊という名前をつけた雑草を食べていました」

「しかし食塩がないんです。沸騰させるだけで、その草をのみこむだけ。それでなんとか命を繋いでいました」

ジャングルの中には、かつて憧れていた特攻隊の姿もあった。彼らは飛び立つ飛行機がなくなり、寺岡さんたちと同じように逃避行をしていたのだ。映画でみたり、学校で習ったりした戦争と現実は違った。

「子供の時代は戦争は面白いと思っていた。勝ち戦の目線でみているから。しかし負け戦側になると、戦争ほど残酷なものはありません。ですから絶対、戦争はおこしてはならないと思います」

こんなこともあった。米軍からの激しい銃撃が終わったときのことだ。

立ち上がろうとしても、腰が抜けて立ち上がれなかった。隣には、足が吹っ飛ばされた日本兵がいた。

「俺を拳銃で撃ち殺せ」。睨みつけられながら、そう言われたという。

「私は『人を殺すことはできない』。そう言いました」

9月半ばで迎えた「終戦」

日本では、1945年8月15日の玉音放送でラジオにより国民に終戦が告げられた。

しかし、ジャングルの中にいた寺岡さんたちは、「終戦」を知らなかった。

「戦争が終わったのは8月15日と聞いていますが、僕たちが山から出てこいといわれたのは9月の半ばです。飛行機が飛ばなくなったので、どうしたのかなと思っていたら、次はビラがまかれ始めました」

山中に撒かれたビラには、戦争が終わったことが書かれていた。

一緒に逃避行していた日本兵に見せると、「それは宣伝だ。事実ではない」と言われたという。

とはいえ、もう逃げ続けることはできなかった。米軍は山中で逃避行を続ける日系人や日本兵を狙い、砲撃を続け、寺岡さんたちも追い詰められていた。

「もう、僕らが逃げるところがなくなったんです」

終戦から1カ月以上が経った9月21日。約5カ月にわたりジャングルの中で逃避行を続けていた寺岡さんたちは、山を降り、米軍の捕虜となった。

帰ってこなかった2人の兄

日本軍に協力していた兄たちも、凄惨な運命を辿っていた。

上の兄は、アメリカ製のたばこを吸っていたことからスパイ容疑をかけられて、憲兵隊に殺された。

下の兄は、マニラの建築会社で働いていたが、マニラに情勢が悪くなりバギオに帰る道中で、フィリピンのゲリラに射殺されたという。寺岡さんはポツリポツリと話した。

「どちらも、戦争が終わってから殺されたと聞きました。下の兄が殺された時に、銃の引き金を引いたのは兄の同級生で、ゲリラになった日系人だったそうです。その命令をしたのは、日本軍憲兵隊だったと聞きました」

同じ日本とフィリピンの両親を持つ日系2世の若者でも、日本軍に協力する人もいれば、フィリピンゲリラに入り、日本軍と戦う人もいた。その結果、下の兄は同級生に射殺されてしまったのだ。

寺岡さんは言う。

「まあ仕方がないですよね。戦争ですから」

「3カ国から敵だと思われていた」

ジャングルの中で、母と弟、妹を米軍の銃撃で亡くし、上の兄は日本軍の憲兵隊に、下の兄はフィリピンゲリラに射殺されたーー。

2つの国のルーツを持つ寺岡さんは、家族を3カ国から殺されていることになる。

「結局、私たちは3カ国から敵だと思われていましたから」

当時、フィリピンにいた日系人やその家族は、同じように日本とフィリピンの狭間に立たされ、辛い体験を強いられていた。寺岡さんは「仕方ない」とまた、繰り返した。

「戦争だから仕方なかった。真珠湾攻撃から始まって、日本が始めた戦争ですからね」

しかし、寺岡さんは戦争が終わってもなお、故郷で反日感情に直面するなど、比日の狭間で苦しむことになる。


・参考文献

西本正巳.フィリピンの戦い(太平洋戦争写真史).月刊沖縄社,1980

池端雪浦ほか.日本占領下のフィリピン.岩波書店,1996 

グレゴリオ・F・サイデ.フィリピンの歴史.松橋達良訳.時事通信社,1973