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「日本人になりたい」と思っていた彼女が、オーディションを受けるまで。

「ミスiD2020」のファイナリストに選ばれた、アシュリーさん。彼女はコンゴ民主共和国の父と、日本人の母を持つ「ハーフ」だ。いわゆる「ふつう」の日本人とは違う見かけであることに、コンプレックスをずっと抱えて、生きていた。

「私は日本人になりたい」

今年で19歳になる彼女はずっと、そんな思いを抱えながら生きていた。「日本人」であるにもかかわらず、だ。

彼女を苦しめていたものは、なんだったのか。そしてなぜ彼女は、オーディションに出ようと決意したのか。

「日本人になれないと日本で生きていけないってずっと思ってたんです。色が黒いから日本では働けないって、本気で。だから私は、日本人になりたかったんです」

そうBuzzFeed Newsの取材に答えるのは、アシュリーさん。コンゴ民主共和国生まれの父と、日本人の母を持つ。

いわゆる「ふつう」の日本人とは違う見かけであることに、コンプレックスをずっと抱えて、生きていた。

「あのころの私は白くなりたいというよりも、日本人になりたいと思っていたんです」

子どもの頃からずっと、人に見られてきた、という。

「見てる人は別に悪気があるわけじゃないんでしょうけど、ちょっと出かけたらいろんな大人とか子どもとかにすごいジロジロ見られて。とにかく人に見られるんですよね。学校でも、どこでも自分だけが目立つ。常に人の目が気になって生きてる感覚はありました」

「保育園のころの記憶があります。お母さんとスーパーに行った時に親子がいたんですよ。親子がそろってずっとジロジロ私のことを見ていて……。いつしか、自分は“日本人”の見た目ではない、特殊な存在なんだなって思うようになったんです」

似顔絵を、描きたくなかった

保育園のお絵かきの時間では、自分の顔を何色で塗りつぶしていいかわからなかった。クレヨンの「肌色」は、自分の肌の色とは違ったからだ。

「似顔絵を描きましょうというときに、何色で塗っていいか分からなくて。自分に見えてる肌の色と、他人から見られてる色は違うんじゃないかって思ってしまって。絵を描くことはすごい好きだったんですけど、似顔絵は本当に描きたくなかったです」

小学校に入ると、あだ名をつけられた。男子には「うんこ」と呼ばれ、女子には「ガングロたまごちゃん」と呼ばれた。

まっすぐではない、くるくるの髪の毛を見て、「実験に失敗した博士みたい」と笑われることもあった。

いじめられた感覚はなかった。それでも、心は傷ついていた。

家に帰ると、毎日のようにタオルをかぶって、自分の髪に見立てて、櫛をかけた。みかねた母が縮毛矯正をさせてくれた。「少し日本人に近づけた気がして嬉しかった」という。

「ああ、私の髪型は笑われる髪型なんだってそのときから思っていました。恥ずかしい髪なんだ、って。縮毛矯正は、高校生まで続けていましたね」

「自分は黒いから醜い」

「差別を受けている、とは思わなかった。でも、すごい見下されている、下に見られているような気がしていました」

おしゃれを意識する、中学生になってから。周りが自然と自分を「下」にみていると、強く感じるようになった。

「たとえば髪がまっすぐで、綺麗な順にえらい、みたい感じにみんな無意識になっていて。私は最下位なんです。『あなたみたいな髪だと諦めて生きるしかないよね(笑)』なんて決めつけられたこともありました」

嫌味を込めて、肌の色に触れてくる子もいた。白いものが美しい。そんな“当たり前”をみんなが共有していたのだ。

「町を歩けば、どこを見てても美白美白美白、じゃないですか。みんな白くなりたいってずっと言っていた。だから私はここでも、下になるんです」

写真を撮るときに、「隣にいると自分がめっちゃ白く見える」と比較対象にされたこともあった。逆に、色白な子に対して「絶対、その子の隣に並ばないほうがいいよ。黒く見えるから」と言う同級生もいた。

「自分は黒いから醜い」「この国の美しいと可愛いとかそういう基準にハマる人間ではない」。いつしかなんの違和感もなく、そう思い込んでしまうようになった。

視線を浴びるのがいやで、外に出歩くことも、減った。父親を恨む気持ちが、芽生えたこともあった。

「本当に言葉を選ばずに言うと、『お前のせいで黒いんだけど』みたいな。それぐらい、強い気持ちでした」

皮膚をめくれば、日本人になれる

成長していくにつれ、「日本人になりたい」というコンプレックスはどこかに置いてきた、と思っていた。

しかし、高校生のころ。こんなことがあった。

足の無駄毛を剃っているときに、うっかり皮ごと剃り落としてしまったのだ。アシュリーさんが痛みよりも先に感じたもの、それは喜びだった。

「皮膚がめくれて肌色の肉が見えたときに、私、本当にびっくりするぐらい喜んじゃったんです。痛みを忘れるくらい。全身の皮膚をめくれば肌色になるから、そうすれば日本人になれるって思ってしまった。血がにじんできてるのを見て、ハッと我に返ったんですけれど、喜んでしまった自分にすごく、ショック受けました」

アシュリーさんは、自身のnoteに当時を振り返って、こう書き記している。

《他人から意図的に差別されることも、無意識に差別されることも、もちろん苦しい。

それでも、自分で自分の存在を差別して、醜い存在だとしか認識できないことの方が、私には何倍も辛かった》

アシュリーさんは、失った「自己肯定感」を取り戻そうとした。地元の愛知県を出て、東京に引っ越したことも、ひとつのきっかけになったという。

「私が歩いてても、この町では違和感がなかったんです。いろんな国の人がいるから。歩くことに対しての抵抗感みたいなものが、なくなっていったんですよ」

「ミスiD」へのチャレンジ

そしてこの春。アシュリーさんは壁を突破しようと、ひとつのチャレンジをすることに決めた。「ミスiD」に応募したのだ。

「ミスiD」は講談社が主催するオーディションだ。「i」はアイドル、アイデンティティ、私を、そして「D」はDiversity(多様性)を意味する。

ルックス重視ではない。「生きづらい女の子たちの新しい居場所になること」を目標にしているという。

なぜ人目を気にして、家から出ることも嫌だったようなアシュリーさんは、オーディションに出ようと思ったのか。

「人の目を気にせずに生きたいって、私はずっと思っていた。人生を生きるうえで、同じことをするにしても人の目が気になっている状態と気になっていない状態だったら確実に発揮できる力が違うと思ったし、人に見られることで人の目を気にしなくなるんじゃないかなって思ったんです」

頭の中には、2015年にミス・ユニバースの日本代表になった、宮本エリアナさんのことがあった。

宮本さんはアフリカ系アメリカ人の父と、日本人の母を持つ。「ハーフ」としては初めての日本代表で、当時は一部で「日本人の両親を持つ人が代表になるべきだ」などという批判も上がった。

「見た目が日本人じゃない、日本代表って言うなら日本っぽい見た目じゃなきゃ駄目ってすごく叩かれてたけど、それでも宮本さんが日本を代表して行動してくださった。私はそれに、本当に励まされたんです。自分は、自分のままでいいんだ、って思えたから」

「自分も同じように、誰かに勇気を与えられるようになりたいな、って気持ちがあります。noteに自分の体験談を書いたら、同じような境遇にいる人たちから連絡がたくさんきたんです。そういう風に、その人自信が自分のままでいいと思えるような、何かをしたい」

「無意識の言葉」の恐ろしさ

「私、無意識の言葉に殴られ続けてきたんです。ずっと」。アシュリーさんは、言葉に力を込めて、言う。

「無意識に人を傷つけたりとか見下してしまったことって、みんな、絶対あると思うんです。私も見下される人生だったなとは思うけど、絶対に誰かのことを傷つけたこともあるし。人の無意識って、一番怖いですよね。それで苦しむ人がいる。死んでしまう人だっている」

自分が「普通の日本人」や「当たり前の美しさ」という「無意識」に傷つけられてきた、からこそ。同じように傷ついている人たちに、伝えたいことがたくさんある。

「自分も傷の深さの分、それを癒すのに長い年月がかかった。“美しさ”の基準に囚われてしまうことはあるかもしれないけれど、誰がなんて言っても、人は、自分は美しい。それを頭の片隅に留めておけるだけで絶対、違うと思います」

この夏には、父親の祖国であるコンゴ民主共和国を訪れた。アフリカは怖いという先入観があったが、またひとつ壁が超えられた。

旅のあいだ、「自分が今、どう思われてるかという気持ち」を抱えることはなかったことが、新鮮だった。

「日本人だからとか外国人だからって、何も関係ない。美しいじゃないですか、人間って。容姿だけじゃなくて生きること自体がそうだって、改めて思えたんです。ありきたりな言葉ですけど、みんな違ってみんないい。本当にでも、本当にただそれだけですよね」

あのころ、苦しんでいた自分に何か言いたいことはーー?そう尋ねると、アシュリーさんは少しだけ考えて、とびきりの笑顔を見せた。

「そのままでいいよって、言いたいです」

ミスiDのファイナリストに選ばれた、アシュリーさん。グランプリの決まる授賞式は、11月23日に開かれる。

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