ジブリの美しい背景美術がいま、消えようとしている

    スタジオジブリと言えば、長編アニメーションでヒット作ばかり。恵まれているじゃないか。

    誰もが一度は見たことがあるだろう。風が吹きぬけ、揺らぐ葉……不思議な生物が暮らすトトロの森を。木の根が力強く這い、コケをまとう大樹ひしめくもののけの森を。

    息吹すら感じる背景は、すべて手で描かれている。

    「トトロの森の遠景の木々は薄い濃緑と、濃い濃緑のたった2色で描かれているんです。一方、人が注目する神木は緻密に描かれる。『観客はそのとき、何を見ているのか?監督はここで、何を見せたいのか』を考え、画に緩急をつけて物語の演出をするのが背景美術の仕事だと思います」

    そう語るのは、スタジオジブリで『かぐや姫の物語』、『思い出のマーニー』のプロデューサーを務めた西村義明だ。現在、米林宏昌監督の『メアリと魔女の花』を、自ら立ち上げたスタジオポノックで制作している。新しい現場でも「手描き」を採用しているが、「このままだと背景美術は枯渇しまう」と危機感をつのらせていた。

    アニメーションの恩恵を受けてきた彼は、なぜそんな発言をするのだろうか? スタジオジブリと言えば、長編アニメーションでヒット作ばかり。恵まれている制作環境にあったのでは? そう思う人もいるだろう。

    スタジオジブリの解散と、庵野・川上・西村

    2014年、スタジオジブリの制作部門は解散し、それに伴い西村も同社を退社した。「ジブリ」という冠を失ったが、スタジオ解散後に高畑監督の『かぐや姫の物語』がアカデミー賞にノミネートされ、ある決意をする。

    現地で出会った世界のアニメーターたちが「ジブリ作品はBeautiful」と絶賛していたのだ。西村いわく、Beautifulという賛辞は、CGアニメーション作品に使われることは少ない。なぜ、ジブリが特別な美しさを持ちえたのだろうか。

    それは、写真でもCGでもなく、手描きの職人たちによって生み出された絵の力、絵画性にある。しかし、目の前でそれが失われようとしていた。スタジオジブリのクリエイターたちはバラバラになってしまったからだ。

    そこで、2つのことを思いつく。ひとつは世界から絶賛されるジブリの背景美術を残すこと。もうひとつが、スタジオポノックを立ち上げ、「宮﨑駿の後継者」とも呼ばれる米林監督の作品を作ることだった。

    しかし、優秀な美術スタッフの生活を支えるだけの金銭的体力はなかった。

    西村はドワンゴの川上量生会長に支援を願い出た。川上はドワンゴの会長を務めながら、スタジオジブリで「プロデューサー見習い」をして、アカデミー賞に同行していたのだ。空港のロビーで西村から発せられた急な懇願に、川上は「いいっすね」と淡々と返事をし、協力者の提案をしたという。庵野秀明だ。

    帰国後、3人はすぐに落ち合うことになった。庵野は西村の話に賛同し、ドワンゴ、カラー、スタジオポノックの3社の出資によって背景美術スタジオ「でほぎゃらりー」が設立された。

    守ろうとした「ジブリの遺伝子」は何だったのか

    アニメーション業界の多くはデジタル技術を駆使した美術制作に移行している。しかし、時代の流れにのらず、スタジオジブリでは手描き美術を貫いてきた。現在、スタジオポノックで制作している『メアリと魔女の花』でも同様だ。

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    東宝MOVIEチャンネル / Via youtube.com

    特に背景美術の世界では、写真を参考に、あるいはトレースし、デジタル処理で描くスタイルが主流になってきているそうだ。加筆や修正もしやすく、合理的。最近でも写実的な背景が話題になった。

    「手描きは人手が極端に足りず、デジタルより手間もかかる」と理解した上で、アナログを選択し、守ろうとする理由は何なのか?

    「高畑、宮崎両監督は『カメラのレンズを通すな』と、ずっと言っていました。カメラのレンズは一眼ですが、人間は複眼です。つまり、人間が見たものとレンズを通した画は違う」

    「ジブリが作ってきた世界は、空間の作り方、奥行きや遠近などが独特です。自分たちの目を通したら世の中はこう見えている。それを描くのがスタジオジブリの背景でした」

    西村が、息絶えてしまうと危惧した大きな存在が、手で描かれた美しい背景美術だった。川上、庵野もその意味を理解していたのだろう。「『アニメーションの画面の7割を占めるのは背景美術だ』と庵野さんも言うくらい、背景美術は作品の根幹です」と西村は語る。

    芸術であり、職人技である「背景美術」

    非合理的な方法を選ぶには、他にも理由がある。でほぎゃらりーのアドバイザーでもあり、「トトロの森」や「もののけの森」を描いた美術家、男鹿和雄の逸話がある。

    「男鹿さんが背景を描いていて、筆が滑って画の端がにじんでしまったことがあったらしいんです。『まあいいか』と思いながら宮崎監督のもとに持っていくと、端の部分を指差して『男鹿さん、ここが素晴らしい。面白いよ!』と今までにないくらいに褒められた。描き損じた部分が最高だった」

    「デジタルやCGは、誤解を恐れずにいえば、『意識の領域』で作られます。正しく、崩れない。でも、手描きは精神状態も影響するので、ゆらぎや偶発性が生まれる。そこが魅力であり、意識を超える力、『無意識の領域』の面白さだと思うんです」

    背景美術は、一枚としてどれだけ価値ある画であっても「背景」である。画面の主役ではない。この絶妙なさじ加減をもって、世界を作っていく。西村は以前、男鹿に「風景を記憶して背景を描いているんですか?」と、質問をしたことがあるそうだ。こんな返事が返ってきたという。

    「僕らは背景を描いているわけですから、見たそのものを描くとダメなんです。普段の暮らしの中で、目の端っこで覚えているものを描くと上手くいくんですよ」

    しかし、プロデューサーとしてアナログ手法に固執しているわけでもない。

    「良い画面を作るのにデジタルの力はもちろん借りますし、デジタル背景の描き手がでほぎゃらりーの描き手を越す画力を持つなら、もちろん力を借りたい。でも、今のところ『メアリ』に参加してくれている美術スタッフを、ぼくが世界一だと思っているだけです」

    「あくまで主観」だと言うが、デジタルとアナログの優劣の話ではない。実際、西村自身「CG作品でも、Beautifulだと思う作品もある」とこぼすほどだ。「一度、失われたらもう戻らない」。西村の危機感はここにあるような気がした。

    「アニメーション業界で一番枯渇するのは背景だと思った」

    「現場はギリギリです。作品数は増えているものの、作り手は増えていない。とくに背景美術は顕著です。大作の劇場アニメーション映画でも、背景美術が足りずスケジュールが大幅に遅れたと聞きました」

    最近ではゲーム業界からも、背景美術の腕が要される。スマホ上で課金を促すソーシャルゲームの勢いは増すばかりだ。実際、背景美術会社を買収している事例もあるという。

    「アニメーション業界が支払えるお金と、ソーシャルゲーム業界のそれは違います。一緒に映画を作っている美術スタッフは世界一の仕事をしていると自負していますが、スマホゲーム用の、ディスプレイサイズの背景を描いている若手の方が高給取りだったりすることもある。そういう時代です」

    アニメーション業界が盛り上がっているという話はいたるところで聞く。しかし、西村は懐疑的だ。

    「例外的に大ヒットした作品の影には、話題になれなかった作品も数多くあります。本当に業界は盛り上がっているんでしょうか? 大規模な展示会やイベントを見るといつも違和感を覚えます。華やかさを支える各作品のクリエイターの中には、展示会で売っているグッズすら高くて買えない人も多い。現場を知る身としては、やっぱり何かおかしいんじゃないかって」

    潤沢な資金を持ったソーシャルゲーム業界で背景が重宝されるなら、それはクリエイターにとって救いとなる。しかし、貴重な人材がアニメーション業界から去ってしまったらどうなるのだろうか。厳しいとわかりながらも映画を作りたいと思う才能があるならば、なんとかしてつなぎとめておきたい。世界を変えうる作品を作ること、安定した環境と給与。だからこそ、でほぎゃらりーが生まれたのだ。

    「健全さは保てないかもしれない。でも、夢を見ようよ」

    でほぎゃらりーのメンバーは、次の世代につなげたいという意志もあったため、30代が多いという。

    例えば、『メアリと魔女の花』で美術監督には、劇場映画の美術監督が本作で初となる31歳の久保友孝を抜擢した。10代から老舗の美術会社でキャリアを積み、頭角を表したのは『かぐや姫の物語』と『思い出のマーニー』。20代の若手が描く「幸福な光」に感銘を受けたそうだ。

    「メアリは1日半の物語を描いているのですが、米林監督が要求する美術は非常に繊細です。夕焼け、日の入り、夜、深夜、明け方…光がすべて異なります。温かみや冷たさ…幸福な光がさしているんです。久保くんの“光”は、予想をいつも超えてくるんです」

    「エヴァンゲリヲン新劇場版の美術監督である串田達也さんに、久保くんに美術監督をお願いすると伝えたときに、こう言われました。『ぼくの美術人生で、一枚の絵を見ただけで勝てないと思った方が2人いるんです。男鹿さんと、もうひとりが、久保くんなんです』」

    若いクリエイターたちが活躍できる場として、でほぎゃらりーの運営に関して庵野からこんな提案があったという。

    「背景美術会社の経営は難しい。会社として経済的な利益を出していけないかもしれない。それでも夢を見たい。せめて毎年、新人を入れて技術を継承させて、アニメーション業界に貢献して行きましょうよ」

    この春も新卒が2人入社した。筆と紙が擦れる音が微かに聞こえる室内で、彼女たちは先輩たちと机を並べて画の練習に励んでいる。取材に訪れた際は、映画制作は佳境。会話は許されなかった。

    遺伝子を継ぐ新しい才能は、力強いとは決して言えない。先輩たちよりもゆっくりと、時折迷いながら筆を動かす。それでも、画に食らいつく姿はどこかで見覚えがあった。

    「才能をいかした仕事だろ、ステキだよ」

    トンボのように声をかけたくなった。時が止まったかのような静かな空間の中で、芽は確かに息づいていた。

    (すべて敬称略)