「<勉強>で自分を変える」 東大卒の人気哲学者が教える<勉強>ができるようになる方法とは?

    「あぁもっと勉強ができたらなぁ……」と思っているあなたへ贈る

    これで<勉強>ができる!

    誰しも一度は勉強ができる自分を想像したことがあるのではないだろうか。でも、現実は厳しい……とあきらめてはいけない。

    <勉強>ができるようになるポイントを、気鋭の哲学者が教えてくれる本がある。

    その名も『勉強の哲学』(文藝春秋)。筆者は東京大学を卒業し、パリ第10大学に留学した経験もある千葉雅也・立命館大学大学院准教授である。

    なんとも勉強ができそうな経歴をもつ、1978年生まれの若手哲学者だ。専門はフランス現代思想。

    2013年に発表したデビュー作『動きすぎてはいけない』(河出書房新社)は論壇の話題をさらった。SNS全盛の時代に「もっと動けばよくなる」とか「つながること」よりも、<切断>の重要性を論じた鮮烈な一冊だった。

    ところで、今回の問題は<勉強>であった。

    <勉強>ができるとはどういうことなんだろう。千葉さんはこう話す。

    「<勉強>ができる、とは新しい言葉を獲得することであり、それによって自分が<変化>すること」

    「これまでの自分には見えない問題が見えるようになって、考えていくことなのです」

    えっ、テストで良い点が取れるとか、有名大学に行けるとか、そういうことではないんですか?

    「いやいや、それは結果です。<勉強>ができることとは、問題を立てるということなんですよ」

    具体例でわかる<勉強>

    具体的な事例で考えてみよう。こんな例題を作ってみた。

    《働いてみると、「成功の秘訣」とか「〜〜する力」「〜〜な生き方」みたいな本が大量にでていることに気がついた。書いてあることは意外と普通だ。なんでみんな買うんだろう?》

    千葉さんも自己啓発本について<勉強>を深めたというが……。


    自己啓発本が当たり前のことしか書いていない深い理由

    今回の本の書き方の参考にしようと思って『〜〜の学び方』的ものからはじまって、自己啓発本を読み漁っていました。

    そこに書かれていることってどれも「当たり前」のことなんですよね。

    早起きは得をするとか、完璧を求めすぎないとかですね。一体、なんで当たり前のことばかり書いているのかを考える。

    これは、僕がこれまで勉強してきた領域でいうと、精神分析で論じられていることと近いのではないか、と気がつきました。

    人は一人ではわかっていてもできないことが多いから、誰かに肯定を求める。

    例えば、親や教師が「これをしなさい」と言うとき、本人もやらないといけないことはわかっている。

    人は誰でも悩みに対して、自分で答えを持っているんですね。だけど、一人ではどうも心もとない。

    だから、自分の答えと同じことを他者に言ってほしいんです。それもはっきりと言ってほしい。

    自己啓発本を読んで気分を高めるというのは、誰かに肯定してくれってことなので、当たり前のことが書いてあれば書いてあるほどいい。それが僕の勉強した結果です。

    では、なぜこの社会にここまで自分を肯定してほしい人が多いのか?働き方や労働環境の問題があるかもしれない。

    そうすると、次は経済学の本を読んで……と世界が広がるわけです。

    頭のいい人たちは「当たり前のことしか書いていないものを読んで」と自己啓発本を馬鹿にするかもしれませんが、僕からすると、そんな見方こそ勉強が足りない。

    この勉強をしたことで、ラカン(※フランスの有名な精神分析家)も自己啓発本も、同じように楽しめるようになりました。


    なぜ<勉強>をテーマにしたのか?

    おぉ、千葉さんも<変化>している。

    確かに自己啓発本やビジネス書だけでなく、<勉強>すると漫画も小説も映画も、見方や楽しみ方が変わってくる。

    さて、これまでの人生で「なにかおかしい」と思ったことはないだろうか?

    例えば「女だからこうしろ」とか「男らしく振舞え」とか「場の空気を読め」とか言われるーー。

    勉強のスタート地点はいつだって、自分のなかに生まれた小さな疑問であり、違和感にある。

    疑問をもった自分がおかしいのではなく、なにも見えていない周囲のほうが問題を抱えているかもしれない。

    では、具体的にどうしたらいいのだろう。

    千葉さんが、自身の専門領域から少しだけ離れて、新刊のテーマを<勉強>にした理由がここにある。


    まずは入門書を読んで見取り図を作る

    大学に職を得て、学生を指導する時間が増えたんです。<勉強>のやり方を教わってこなかった、という学生も少なくないことに気がつきました。

    まず僕が教師として、そこを教えないといけないと思ったんです。

    例えば現代思想に興味を持ったとしますね。

    いきなりフーコーやデリダ(※2人とも20世紀を代表するフランスの哲学者)の著作を読もうと思っても無理なんです。

    読めないのは当たり前で、読めないことを気にする必要は一切ない。

    いまは新書で専門家が丁寧に書いた良い入門書がたくさんありますから、まずこれを読む。

    入門書は1冊だと当たり外れがあるので、できれば3冊くらい読む。

    そうすると、自分の中に見取り図が作れるんです。

    それから本人の著作を読んでいけばいいし、専門書を読んで力をつけてから挑戦するという手もある。

    まず本を読まないといけない。それも専門家が書いたものを読む。いい加減なものを読まないほうがいい。

    どれがいい入門書なのかは教師に聞くのもいいし、長く歴史に残っているものでもいいわけです。


    「<勉強>ができるようになりたいなら本を読んで、考えるしかない」

    世の中にある大方の疑問は、自分以外の誰かが考えてくれた蓄積がある。だったらそれを利用しない手はない。

    どんな疑問も、まずは入門書→さらに専門書→もっと知りたかったら「その分野のすごい本」を読むといったプロセスを踏む。

    そうすることで疑問を理解する「新しい言葉」が手に入る。

    それは新しい力だ。もう、かつての自分から<変化>した、新しい自分になっている。

    「結局、<勉強>ができるようになりたいなら」と千葉さんは続ける。

    「本を読んで、考えるしかないんです。電子書籍でもいいですけど、僕は紙の本に線を引いたり、メモを書いたりしながら読むほうがいいと教えてますね」

    インターネットにないものはいっぱいある。本は書いた人だけでなく、編集者や、校閲(※間違っている部分がないか調べる仕事)のチェックを通って出来あがる。

    人は一人で思考を深めるわけではない。筆者の名前の背後に、手間暇を惜しまない人たちがいて完成する。

    ここで、肝心なのは勉強の「引き際」だ。勉強はその気になればいくらでもできる。

    あらゆる研究領域にはプロがいる。彼らはそれを一生の仕事にしているくらいで、探求には終わりがない。

    自分でここまでと決めて終わらせるのは、まったく悪いことではない。

    入門書を読んで終わって次に行くのもよし、専門書まで読んでみて終わるもよし。

    いずれにしても大事なのは<変化>そのものだ。

    <勉強>ができるようになると周囲から浮きます!

    とはいえ、<勉強>ができるというのは見方によっては大変なこともあるようで……。


    <勉強>ができるようになるとですね、どうしたって周囲から浮きます。

    当たり前ですよね。周りに見えない問題を自分だけが見えている。ノリがあわなくなるに決まっているんです。

    みんなで漫画の話をしていたら、好きすぎてついつい多く語ってしまうようなことですね。

    とにかく輪から浮くんです。

    だからこの本では、自覚的に浮きましょう、場のノリと違っていいんですと言い切りました。

    <勉強>ができるようになりたければ、自覚的に浮くことを選ぶ。

    <勉強>を重ねると、モードを切り替えられるようになるんですよ。

    場のノリと違うなぁと思いつつ合わせることや、<勉強>したことを自覚的にしゃべったりすることができるようになるんです。

    だから周りと違うことを恐れず<勉強>しよう、と言いたい


    奥深き<勉強>の世界

    さすが<勉強>ができる千葉さんだ。もうモード切り替えの域にまで達しているとは………。


    そりゃあダーツバーとかで遊んでいても、周囲にあわせることはできますが……(しばしの沈黙)。

    いや、それでも狸の尻尾は隠せないんだなぁ(笑)。ごめんなさい。

    ついつい語りすぎて「しまった!」なんてことはいっぱいあります。


    <勉強>の道はかくも奥が深い……。そんなことがわかる一言が飛び出すのだった。