日本の市民運動、安易な「同情」の危うさ 戦後を代表する政治学者が語った現代への警句

    8月15日で没後20年、丸山眞男が残した言葉

    没後20年、政治学者・丸山眞男が残した言葉

    「ぼくはどうも組むというので、いつも気になるのは、本来人間は同じであるべきだという前提が、どうしても強過ぎるんだ」(丸山眞男座談4巻)

    必要なのは「政治的リアリズム」

    「自分たちの意図と違った結果が出てきた時に、意識的に、あるいは無意識的になんらかのあるわるもの、あるいは敵の陰謀のせいでこういう結果になったというふうに説明する(中略)それは、自分が政治的に未成熟であったということの告白なのです」(「政治的判断」)

    丸山は政治的リアリズムを重視した。崇高な目的のために、行動する市民であっても、無責任な放言は退けるべきだと考えていたようだ。

    行動しても、しばしば結果がついてこないときがある。そこで政治的リアリズムが不足しているとどうなるか。

    何か悪者を作って、そのせいにする。あるいは敵の陰謀があった、敵の方が巨大だった、ずるい敵に騙された、という人もでてくると丸山はいう。

    ここに「自分たち以外の人はだまされている」というのを付け加えてもいいかもしれない。今回の都知事選の取材中、私が与野党問わず劣勢の陣営から何度も聞いた言葉だ。

    しかし、丸山はこうした言い訳を「泣き言」、あるいは「最も弁解にならない弁解だ」と切り捨てる。自分たちの状況判断が誤っていたことを、敵のせいにするのではなく、自らを顧みることから始めないといけない。そうしないと、いつまでたっても政治的に未成熟なままだ、と。

    市民が政治の「プロ」 それは歓迎すべきことなのか?

    「集団、共同体等に逃避することで、自己の不安、孤立感を癒そうとする要求が出てくる。そして、これがまたファシズムの培養素になっているんです」(丸山眞男座談4巻)

    「完全な市民」は、自我と何らかの権威や共同体といった「自分をまるごとつつんでくれるものと、直接的、非合理的に合体して、自分の中にある不安とか、孤立感、挫折感を解消しよう」としている。

    自分の中にある孤立感や不安を解消しようと、集団に逃げ込み、その癒しを求める。

    丸山はこれを「ファシズムの培養素」と呼び、危うさに注意を促す。集団の中にこそ、多数性の暴力が潜んでいないか。丸山はそう問いかける。

    好き嫌いをぶつけあう「意識高い系」論争の不毛

    「論争がしばしば無意味で不毛なのは、論争者がただもっともらしいレトリックで自己の嗜好を相互にぶつけ合っているからである」(「自己内対話」)

    一色に染まらないために、丸山が可能性をかけたのが他者を理解することだ。

    それは、表面的な「理解したつもりになること」や、安易な「尊重」、あるいは自身の優位性を誇示するために、議論することではない。

    「俺はコーヒーがすきだという主張と俺は紅茶がすきだという主張との間にはコーヒーと紅茶の優劣についてのディスカッションが成立する余地はない」

    「論争がしばしば無意味で不毛なのは、論争者がただもっともらしいレトリックで自己の嗜好を相互にぶつけ合っているからである」(「自己内対話」)

    今でも、コーヒー好きと紅茶好きの論争が日々どこかで起きていることを、私たちは知っている。他者を理解するためではなく、自分がいかに優位にたっているか。それを証明したいがために起きていることも。

    丸山は知性の機能を「他者をその他在において理解すること」(「人間と政治」)、つまり他者を内側から理解すること、と言っていた。

    もう少し深めていこう。

    安易な「同情」や「代弁」がダメな理由

    「各人の経験は結局彼自身だけのもので、他人によって代弁されたり、簡単に同感されたりできる性質のものではない」(「断想」)

    1950年代、丸山は肺を患い、療養所生活を送っていた。当時の療養所は、社会問題の最前線のようなところだったらしく、そのなかで「当事者」だった丸山も療養所の実情について、語るよう頼まれていた。

    丸山は語りながらこんなことを思う。人の「身になって」みるというのが、現実にはいかに困難か、と。

    「僕自身、療養所の『外』の人に対してはいっぱし内側の住人として語っているけれども、一たび長期療養者や重症患者の前に立つと、この人々の生活の内面には、僕などのなまじっかな『同情』ではどうしても入り込むことのできない領域があり(中略)自分の療養者としての発言がそらぞらしく感じられて来る」

    外からみれば、同じように結核の「当事者」に見える。それでも、丸山自身は「当事者」という同じ枠では語ることができない、個人の存在を思い、「どうしても入り込むことができない領域」を考えた。

    「各人の経験は結局彼自身だけのもので、他人によって代弁されたり、簡単に同感できる性質のものではない」。

    「当事者」の代弁や同情をして、わかった気になったような言葉は社会にあふれている。例えば、被災地に向けられる言葉がそれだ。これで、人を理解したことになるのだろうか。

    そうではない、と丸山は続ける。「他人の経験への安易な同一化は一方では官僚的なパターナリズム(親心!)の、他方では不寛容の精神的土壌にほかならない」

    その人の経験は、固有のものであり、簡単にはわからない。それでも他者を遠ざけることなく、考えて、コミュニケーションをとる。対話を通じて、自分にもある固有な何かに気づいていく。

    知性の可能性はそこにある、と丸山は考えていたのだろう。

    戦友の死から考えたこと

    「なにか私は間一髪の偶然によって、戦後まで生きのびているという感じがするのです」(「二十世紀最大のパラドックス」)

    8月15日は、丸山にとって自身の命日というだけでなく、母の命日でもあった。丸山の母セイは、1945年に亡くなっている。軍隊生活を送っていた丸山は母の死に目に立ち会えなかった。

    彼は終戦時、広島市宇品町にいた。原爆の爆心地からわずか4〜5キロしか離れていない司令部が拠点だった。原爆もその目で見ている。初めて、原爆体験を語ったのは終戦から20年がたった、1965年8月15日の講演だった。

    丸山は、屋外にいて、閃光は目にしていたが、たまたま被害はなかった。屋内はどうだったか。窓ガラスはすべて破片になって飛び散り、テーブルはひっくりかえり、書類は散乱したという。室内に残った将校は重傷を負い、宇品の町にも死傷者がいた。

    その後、爆心地を歩き回ったという証言も残しているが、この講演では詳細には踏み込んでいない。安っぽい同情や、代弁を批判する丸山にとって、広島の経験は簡単に語れないものだったのだろう。

    凄惨な光景をみた丸山は、戦後を生き、「もしも」を考える。生と死を分けたのは紙一重だ。もしも××だったら、自分はどうなったかわからない。わずかの差で死んでいった戦友に、わずかな差で「戦後」まで生き残ってしまった自分は何をしたらいいのかを問うたという。

    彼の答えは、自分が考えた言葉を後世に残すことだった。私には、そう思えてならない。

    そして、その言葉は没後20年経っても色褪せることなく、日本社会の根本的な危うさについて警鐘を鳴らし続けている。