「言葉の復興が必要なんですよ」
糸井重里さんはこう話した。右手を顔に当て、真剣な表情をみせる。
東日本大震災を語る言葉はすっかり、紋切り型になってしまった。復興、絆、忘れない、足りない支援、風評被害、払拭、関心の低下……。
震災5年、NHKの特集番組に連日出演した糸井さんは、ひとり、紋切り型に抗っていた。悲しい音楽とナレーションで切り取られた被災地の姿が映される。
糸井さんは「悲しみしか伝わってこない」と話し、スタジオの空気を混ぜ返す。番組が描く「デザイン」を批判し、違う視点の言葉を投げかけていた。
糸井さんは固まってしまった言葉から、被災地との関わりを考えている。糸井さんの言葉から見えてくるもの、それでも見えてこないこと。どんな言葉で、震災、原発事故と向き合うのか。
「言葉の復興」ってなんだろう
「言葉の復興」とは何を意味するのか、と私は聞いた。
糸井さんは率直に言葉を紡いでくれた。
「震災5年ってなにか。ぼくはわからなかったんです。目先の復興だけじゃダメだって話はそれこそ、震災の翌年から言ってきたじゃないですか。『5年目という節目だから』以外の言葉や語り方をなにか発見したのだろうか。みんな、明日の話をしたがるんですよね。でも、ぼくは明後日の話をしたい。明後日をみながら、明日の話をすることが大事だって思うんです」
糸井さんが主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」(ほぼ日)は、被災地とつながり続けてきた。震災直後から宮城県・気仙沼市を拠点に決め、初めての支社となる「気仙沼のほぼ日」を設立した。
そこを起点に「気仙沼さんま寄席」など数々の活動が始まった。「気仙沼ニッティング」も生まれた。糸井さん自身は福島にも足を運び物理学者の早野龍五さんとの共著『知ろうとすること。』を出版する……。
現場に足を運びながら、地に足をつけながら、言葉を探す。糸井さんの5年3カ月はそんな日々の積み重ねだった。
「言葉の復興っていうのは、東日本大震災のデザイン論ともいえます。悲しみを引きずるというデザインがあって、そこに言葉があてはめられていく。本当はもっとみんな、違うはずなんですよ。被災地には悲しみだけじゃなくて、喜びもあるのに、もっと悲しまないといけない、なにかきれいにまとめないといけないというデザインがあって、言葉がついていく。例えば、悲しい音楽と被災者の悲しい表情がテレビに流れる。スタジオで『まだまだ復興は遠いですね』とコメントをつける。まとまりがいいですよね」
きれいにまとめない言葉が必要なんです
「でも、それ本当は違うよねって誰かが言わないといけないんですよ。確かに悲しみはある。でも、それだけじゃないでしょって。現地の方から、悲しいところばかり映像で流すのはやめてほしいって声も上がっていると聞きます。きれいにまとめない言葉が必要なんです。固定化された言葉を崩さないといけない」
「メディアの方は、見繕っている言葉、きれいな言葉に反応しますよね。でも、現実はもっと、わやわやしている。みんな、本当はもっと考えているんですよ。でも、それが表にでてこない。もっと言葉を探すことですよね。まだまだ足りないと思うんです」
隣に座ってアイディアをだすこと
糸井さんは被災地との関係を「支援をする側と受ける側」という軸でとらえない。「横に座って、同じものを見る」ことを大事にする。
「ベンチに座っているみたいに、隣で同じものをみながら、話すことが大事なんですよ。みている方向は同じ。勝ち負けや優劣をつけようとすると、へたなことは言えないって思うじゃないですか。それはダメですよね。対立ではうまくいかないんですよ。対立する意見をぶつけあった結果、もっといい意見がでてきたためしがない」
だからこそ、「対立構造からすり抜けたい」と糸井さんは話す。
対立構造を作ると、目的がぶれたとき仲間内でケンカが始まるからだ。はじめは目的を共有していたはずなのに「あいつのここが気に入らない」「おれの支援が一番だ」……。
被災地で生活する人の声に耳を傾ける、でも、それだけで終わらせない。
隣に座ることは第一歩、もっと大事なのはアイディアを出すことだ。
アイディアの力
アイディアの持つ力を信じる。成果の一つが気仙沼ニッティングだろう。気仙沼を拠点に手編みのニット、カーディガンを製造、販売する。地域に新しい仕事を生み出す、それも、誇りをもてる仕事を。
「厳しいことを言えば、震災前にうまくいかなかったことは、うまくいかないんです。もっというと、東京で人が呼べないことは、被災地でも呼べない。東京にいてもできない、東京に勝つようなことを被災地でやらないといけないんです」
被災地支援を理由に褒め合うのはダメ
糸井さんはぐっと力を込める。
「どこに出しても恥ずかしくないってみんなが思って、初めてそこに市場が生まれるんです。被災地支援だからって理由で褒め合っていても、ダメなんですよね」
「例えば、福島の桃は一番なんですって福島の人は言いますよね。だから食べてほしいって。でも、本当に一番なの? 山梨はどう、岡山はどう? って問い直さないといけない。きちんと問いつめて向き合って、それでもやっぱり福島の桃はどこにも負けてないっていう形で出さないと市場は生まれない。そうですねー、一番ですよねーってうなずいているだけではなく、もう5年経っているからこそ、友達としてきちんと本当に感じたことを言わないといけないと思っています」
気仙沼ニッティングは安くない。
「どこに出しても恥ずかしくない」商品のために、相応の材料を使い、手間をかけて作るからだ。地元の女性が編み手となり一着一着編む。デザインはニット作家の三國万里子さんが手がけたもので、ここでしか買えない。だからこそ、欲しいという人は後を絶たず、予約待ちは続く。
「ティング」に込めるアイディア
ニッティングという言葉にはもう一つ「アイディア」が込められている。ニットという言葉のほうが馴染みもあって、覚えやすいはず。「ティング」はなぜ入っているのか。
「ニットだと、できあがった製品だけを指しますよね。編むという言葉は人と人の関係にも使うことができるんですよ。たとえば気仙沼ニッティングが目指すことのひとつは『教育産業』なんですよ。人を育てる会社、修学旅行で見に来てもらえるような会社になる。被災地とそれ以外の地域を混ぜて、人と人とのつながり、関係を編む。まだそこまではできていない。宿題だらけの企業なんです」
「これもアイディアなんです。震災の直後は100年先を見据えてなんて言いながら、いろんなアイディアがありました。それはどこにいったんでしょうね」
「『復興』という言葉で、道を通れるようにする、インフラを元に戻そうという力は本当にすごかった。でも、それだけでは行き詰まります。この先はどうだろう、この地域はどうなりたいの? っていう話をしないといけない。目先の道、ハコ、仕事が大事だとなったら、それは今までと何ら変わらないんですよ」
福島の今後をデザインする
「もっとアイディアを出さないといけない」
いま、糸井さんが気にかけているのが、福島県、それも福島第一原発事故周辺の町だ。
「ぼくがいま、興味を持っているのは福島に、廃炉に携わる人が世界中から学びに来るような廃炉の拠点を作ろうという発想です。いま、廃炉っていうとロボットの話ばかりですけど、より安全な作業をする仕組みを提供することや、福島第一原発の廃炉で積み上がった研究を外に向かって発信していくことで世界中の廃炉は日本に任せろ、わからないことがあったらあそこに聞きに行けとなる」
どうしたらいいんだろう。私が、ぼそっとつぶやいたことを聞き逃さず、糸井さんは笑いながら続けた。
「そう思った人が何かをだすことですよ。被災地以外だって、アイディアを出すことはできるんだから」
儀式の意味 岩田聡さんの死が「3月11日」とつながる
震災4年と5年、糸井さんには大きな変化があった。死者との向き合い方が変わったのだという。
「教えてくれたのは岩田(聡)さんです」
元任天堂社長。RPG「MOTHER2」の開発などでタッグを組んできた、糸井さんの盟友だ。2015年7月、胆管腫瘍のため55歳の若さで亡くなった。
亡くなった直後、糸井さんはこんな言葉で岩田さんの死を悼んだ。
『とにかくさ、「また会おう」。
いつでも、どこでも呼んでくれたらいいし、
ぼくも声をかけるからさ。
なにかと相談したいこともあるし、
いいこと考えたら伝えたいしさ。
また会おう。
いや、いまも、ここで会ってる。』
亡くなっていても、そこにいる。死んでいるはずなのに、生きている。自分の中で、対話する存在として生き続けている。そんな感覚になった「死」は、岩田さんが初めてだった。
「岩田さんはほんとうに急だったし、必死で治そうとしていましたから…。もうすぐ亡くなるかもっていう覚悟を、ぼくが持てないまま亡くなってしまった。いまも家の中で、生きている人のことを話すように岩田さんの話をするんですよね。ぼくの中ではまだ生きているんです」
「ひょっとしたら、帰ってくるんじゃないかって思ってます。大人になってからの友達だから、特別なんですよ。岩田さんを通じて、大事な人が亡くなった意味を考えているんです」
「ぼくはどこかで『死』は遠いところにあると思っていたし、自分の想像力の及ばないところだと思ってました。被災地で切迫して亡くなった方の話を聞いても、少し距離を感じていることがあったんですよね。でも、岩田さんが実は重なっているんだよ、地続きのところにいるんだよって教えてくれた。大事な人が亡くなるってことが重なるんだよって」
2016年3月11日午後2時46分、糸井さんは気仙沼の海に向かって黙祷を捧げた。
「儀式って自由のためにあるんですよ」
そのときを振り返った糸井さんの言葉だ。
「儀式はそのときだけは、みんなで思い出そう、あとは自由でいいからっていう時間で、儀式がないと、ぼくたちはずっと死者を考えてしまう。もちろん本当は死を忘れられないんですよ。でも、いつまでも考えていないといけないって思うことからも、自由にならないといけない」
「岩田さんだったら、なんていうかなって考えるんですよ。岩田さんならずっと考えてほしいっていうかな、言わないだろうな。『何かあったら、相談してください。そのときはいつでものりますから』っていうと思うんです」
「ぼくが忘れたとき、そのときが岩田さんは本当に亡くなったってことになるんだろうな」
忘れるということ
でも、と私は質問を続けた。死者の思いとは別に、私たちは忘れてしまう。時間が経てば、震災も、津波も、原発事故もどこか遠い現実だと思ってしまう。私たちは忘れてしまっていいのだろうか。
「忘れないって知性なんです。忘れるほうが自然なんですよ。忘れるに決まっているということを前提にするんです。自分も人も。ぼくは、忘れる人がえばるのもダメだし、忘れていない人がえばるのもダメだと考えています」
こんな風に考えたらいいんじゃないかな、と糸井さんは話をしてくれた。
「ほぼ日で、インターンの大学生が震災を自分事にも、他人事にもできない。実感できないっていうコンテンツを公開したんです。そしたら、すごい反応があったんですよ。共感もあったし、賛同もあったし、うしろめたさもあるって声もあった。震災を考えることが、心が痛むっていう人もいるんですよね」
「で、考えてみたんです。震災の話って家庭でしますか。ぼくは、かみさんとあまりしないんですよね。かみさんはかみさんで、ぼくが書いたものはどこかで読んでるけど、家の中でそういった話はしないんですよ」
「それはなんでだろうって考えたら生活の場だからですよね。ちょっと思ったことや『気仙沼でこんなお店がさぁ』って話くらいはしますよ。でも、放射能の話とかはしない。そういう距離感って大事だと思うんですよ。ずっと仕事の話をしたり、ずっと被災地の話をするわけじゃない。大事なときは思い出します」
「ぼくも忘れてしまうから、自分が飽きないように、面白くなるように考えるんですよ。面白くなるようなアイディアを考えるようにしているんです」
喜ばせよう、喜ぼう
震災6年目を糸井さんは「半端な言葉」と呼ぶ。
そんな糸井さんは「喜ばせよう、喜ぼう」という言葉から6年目の持つ意味を考えていた。
「なんのために東北に手伝いにいくのかって聞かれたら、喜んでくれたら嬉しいからですよね。これが原点だもん」
「はじめて気仙沼に行ったときに、ホルモン焼きをご馳走したいって言われたんです。まだ被災直後ですよ。ずっとこの言葉の意味を考えてきたんですよ。人は生きていくとき、助けてもらうだけじゃなくて、助けたいんじゃないか。人にご馳走するまでが、生活に含まれるんじゃないのかな。支援を受ける側だって、いい意味で『俺たちはもらうだけじゃない』っていう見栄がある」
人は助けられるだけでなく、助けたいという思いもある。それは、人に何かを贈ることから経済が始まっていく、という考え方にもつながるのではないか。糸井さんは思考を深めていく。
「贈与が経済行為のスタートだとして、被災地は経済のスタートに立っているのか、と考えるんです。まだこれから、立つって人も多いと思います」
「ぼくは被災地が被災地を支援すること、つまり贈与する側にまわることで、次の段階にいけると思っているんです。気仙沼の仲間が例えば、福島を支援するとかね。ぼくがそんな話をすると『思いつかなかったけど、それこそが、俺たちのやりたかったことなんだ』って言って手を握ってくれる人がいるんですよ」
「半端、大好き」
被災地で取材をしていると、「俺たちはもらってばかりじゃダメなんだ」という声を方々で聞く。
時間がいっぱいになり、ノートを閉じた。
「きょうの話を聞いても、中途半端なアイディアしか思いつきそうにないですね」。私がそんな話をしたら、糸井さんはにやっと笑ってこう言った。
「半端なアイディアでもいいんですよ。大事なことは明後日の方向からやってくるんだから。ぼくたち、『半端、大好き』だから」