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善悪で語れない原発 福島第1原発を去り、地域に生きる元東電社員(前編)

問いかける「ふるさと」と「リスク」

参院選だというのに、原発の話はすっかり語られなくなってしまった。原発事故後の地域はどうなっていくのか、廃炉のゆくえ、そして他の原発は……。具体的な論戦は聞かれない。

吉川彰浩さんという人がいる。

36歳、元東京電力社員として福島第1第2原発で働いていた。2012年に退職し、地域住民とともに1Fを視察し、廃炉について考える団体「AFW」を立ち上げた。

自宅がある浪江町は居住が許されていないため、いわき市で避難生活を送っている。元東電社員であり、避難者。立場が異なる2つの当事者だ。

彼の半生をたどると、電力会社が地域に果たした役割、原発事故で変わった生活、変わらなかった地域と原発の関係が見える。そして、原発に賛成か反対だけに回収できない複雑なコミュニティの問題が浮かび上がってくる。

なぜ、東京電力に就職したのか。彼は中学時代まで遡って、ゆっくりと語りはじめた。

「私が東京電力に就職したのは、特に思いあってのことではありません」

私が東京電力に就職したのは、特に思いあってのことではありません。実家は今の茨城県常総市ー当時は水海道市と言っていましたーにありました。母子家庭で、生まれたときから家に父親はおらず、母親が一人で育ててくれました。

私の家は、けっして裕福ではありませんでした。

地元高校への進学を希望したのですが、母親はそこまでお金はかけられないと思ったのでしょう。当時、東京・日野市にあった「東電学園」のパンフレットを持ってきて、最初は、あくまでさりげなく「こういう高校もあるよ」と言ってきたのです。

東電学園というのは、いまは閉校してしまいましたが、当時、東電が運営していた、社員養成の学校といえばわかりやすいと思います。高校卒業の資格も取れるのです。

私には、考古学者になりたいという夢がありました。遺跡を掘って、古代に何があったか探求していくってかっこいいじゃないですか。そんな姿に憧れていました。だから、普通の高校に行って、大学に進学して、考古学を勉強しようって思っていたのです。

母親が見つけてきた、東電学園に行く気なんてまったくありませんでした。

だんだんと、母親も必死になってきました。「ここに入ったら、東京に行けるよ」「学費だってかからないし、少しだけど月々のお給料ももらえるのよ」「東電の社員になれたらずっと安定するよ。手に職が必要だろう」と良いことばっかり言うんですよ。

子供だったけど、私なりに察しました。

「あぁ、この家は普通の高校に進学する学費は出せないんだ、なら家計のことも考えないといけないなぁ」

私が我慢すればいいんだと思ったら、選択肢は一つしかありませんよね。東電学園って、田舎の貧しい家庭にとっては、本当にありがたい場所だったんです。

原発をみて思う。「私だって支えることができるんだ」

妥協して入学を決めた学園生活ですが、実際に行ってみると、とても楽しかったです。電気の勉強も頑張りました。自分で言うのもどうかと思いますが、成績は悪くなかったんです。理数系の勉強が好きだったこともあって、電気の勉強を楽しめたと思います。

3年間の学園生活のうち、2年間が終わると、3年次にはそれぞれの専門分野にわかれていきます。水力、送電、配電、営業、火力・原子力、それぞれのコースにわかれて勉強するのです。

私が生まれた茨城県には、東電の火力発電所がありました。漠然とだけど、将来は茨城に戻って火力発電所で働いて、母親を楽にしてやるかくらいに思って、火力・原子力専攻を選んだのです。

転機は18歳のときです。職場見学で福島第1原発(1F)に行きました。これがすごかった。

どうせ火力に行くしなと思って、軽い気持ちで見にいったのですが、施設がとても大きくて……。タービン建屋の中で、10メートル以上ある大きなタービンがウォンウォンと音を上げながら、回転している。

中央制御室に行ったら、そこにいた10人ちょっとで巨大なタービンも含めた、原子炉をすべてコントロールしている。そこで説明を受けるのです。ここで作られた電気が、東京の電力を支えているんだよって。

あぁ東京のマンションの明かりも、自分が使っている電気も、あのタービンから生まれるのか、ここが東京を支えてるのかぁって思いました。

この話を聞いて、急になにか誇らしくなって、原発がとてもかっこいいものに見えました。私たちが社会を支えている、私だって支えることができるんだって思ったのです。

私は進路希望を変えました。もちろん、1Fで働くためです。

ここで働くために、まず最初にしたのは親の説得です。茨城には戻らない。福島で、原発で働くと告げました。親は最初こそ驚いていました。「お前は帰らないのかって、何のために(東電学園に)行ったのか」と。この時ばかりは、折れませんでした。

妥協ではなく、限られた選択肢の中でやっと見つけた、自分が働きたい職場ですからね。「だから帰らない」って私は言い張りました。母は、最後は私が選んだことだからと言って、納得してくれました。

1999年、双葉町

1999年のことです。進路希望も無事、叶ったので、学園を卒業して、私は一人、福島に向かいました。布団は宅急便で送っていましたから、持っていった荷物はボストンバッグ一個で、上野駅から特急に乗り込んで常磐線を北上するのです。

当時、東電の独身寮が双葉町にありましたから、そこまでは電車で移動するんですね。

上野駅からいわき駅までは特急で、いわき駅からは常磐線の普通の電車に乗り換えます。乗り換えた電車に乗ると、最初は街中を走るのですが、途中、四ツ倉駅から久ノ浜駅に向かう電車の中からさぁーっと広がる海がみえました。

このとき、確かもう夜になっていたので、それは暗い海だったと思います。私は、内陸育ちなので、海ってそんなに見たことがないんです。

だからなのでしょうか。海を見た時に、ふと現実にかえってしまって、急に不安になりました。

どうしても1Fで働きたくて、勢いで決めてしまったけど、それまで東京で暮らしていたのに、これはとんでもないところにきてしまったなぁ、原発ってこんな海沿いに建っているんだぁ、とあらためて思ったのです。

1999年の双葉町です。夜は9時を回ると、あたりはもう真っ暗でした。私が双葉駅に着いたのは夜だったので、本当は歩いていけるはずの、寮の場所がどうしてもわからなくて、駅前にちょうど停まっていたタクシーに乗ったんです。

「独身寮に行きたい」というと、「あぁ、あそこか」という感じで、すぐに車を走らせてくれました。いま思えば、東電の新入社員が道に迷うのは、この時期の風物詩なんですよね。タクシーの運転手さんも手馴れたものでした。

寮では、お世話をしてくれるご夫婦が待っていてくれました。

挨拶をして、部屋に案内されました。部屋は6畳一間で、吊り下げの電球があって、引き戸をひいて部屋に入ると、ドラクエとかゲームに出てくるような鍵を、はい、と渡されます。これで、その日は終わりです。

がらんとして、何もない部屋に入ると、とても心細くなりました。新生活を始めるわけですからね。振り返ると、心細くて当たり前なんですよね。知り合いが一人もいないところに、単身で乗り込んだわけですから。

とはいえ、次の日から、寂しさとか心細さを感じている暇はさすがにありませんでした。4月1日は入社式です。私は、いよいよ東電の新人社員として、1Fで働くことになったのです。

「私たちは原子力を社会から預かる立場であり、安全に運転して、お金をもらう立場です」

1Fでまず驚いたのは、飛び交う専門用語でした。

「PCVが〜」「RPVが〜」なんて言葉を、みんなが普通に使っていました。PCVっていうのは原子炉格納容器、RPVは原子炉圧力容器です。原発で働くには覚えなきゃいけない言葉がたくさんあるということを、このときはじめて知ったのです。

原発には、私たちみたいな高卒の新人も、大卒も、大学院卒もみんな覚えないといけない共通の言語体系があります。

理由はとても単純で、覚えていないと、事故が起きた時に素早く動けないからです。言葉を覚えることは大事なのですが、それより大事なのは、それぞれの名前のついた機器がどういった安全の機能を持ち、複雑に絡みあっているのかを知ることにあります。

安全のために言葉の意味を理解することが必要だ、という認識が求められるのです。そして、なにかあった時に、現場にすぐに駆けつけるため、広い原発の敷地内のことは、全部頭に入っていないといけません。

そうしないと、いつまでも、地図を片手にちんたら現場に向かうことになります。それで、手遅れになったら誰が責任を取るのか。こうした意識も叩き込まれました。

新人も3交代勤務です。指導係の先輩がついて、昼間は現場の仕事を覚えます。私たちの仕事は原発の保守管理、運転管理のプロを目指します。

ピンポイントの点検については「協力企業」の方がプロなので、彼らに任せますが、どういった点検計画を立てるか、全体の設備をどう運営するのかといったことについては、私たちが責任をもたないといけないのです。

夜はさっき話した、専門用語の勉強です。班を作って、1問1点で100問、100点を全員が取るまで終わらない。そんなこともありました。これが中々覚えられません。

数百に及ぶ専門用語、用語の意味するところ、実際の動きや操作、山ほど覚えることがあります。100点以外は許されないことで、仕事の厳しさも教えられました。

新入社員は必ず寮に入るので、生活すべてを共有する中で、自然と仲間意識が芽生えてくるのです。

仕事に慣れるまでは3年間くらい必要でしょうか。言われたことができるようになるまでが3年で、さらに一人前になるには10年ほどはかかります。

「協力企業」という言葉

ちょうど私が仕事に慣れ始めてきたころです。2002年、東電でトラブル隠しが発覚します。内部告発がきっかけで、発覚しました(※詳細はこちら)。

自主点検の資料が改ざんされ、トラブル自体が隠されてしまった。現場で不正があったのは間違いなかったのに、東電上層部がなかなか認めなかったという事件です。

そのときの1Fの雰囲気を考えれば、いかにもありそうなことです。社員の中には、点検業者を「下請け」と呼んで、バカにするような態度で接する人もいました。それだけはどうしても嫌でした。

私には、先天性の口唇裂と口蓋裂という生まれながらの障害があります。このせいで、小さいときはうまく話すことができなくて、いじめにもあいました。人がどうしようもできないところで、評価を決めていくような言動は苦手なんです。

トラブル隠し発覚を受けて、社内では、職場改善運動が始まり、私も参加しました。下請けという言葉がなくなり、「協力企業」という言葉が徹底されたのは、それがきっかけです。

誰かが不満を持つ、誰かが緊張感を欠いたまま仕事をする職場では、事故につながりかねません。私たちは原子力を社会から預かる立場であり、安全に運転して、お金をもらう立場です。

いまなら、東電は口だけと思われるかもしれませんが、少なくとも私も、同僚たちも、それを目標に仕事をしていたのです。

原発と「共存」していた町

職場の話だけでなく、少し、日常の話もしておきましょうか。

いま思えばですけど、このとき、原発と地域はまさに共存していたと思います。私は実家を離れてきたので、この町に来たときは知り合いもまったくいませんでした。

それでも、地元の友達が1人できると、その親は東電の協力企業勤務だったりするわけです。子供は東電社員、親は協力企業といった組み合わせは珍しくはありませんでした。

同じ職場で働いているから、仲間意識も芽生えます。遊びに行くと、よくしてもらえるんですよね。みんなでゲームをして、車は何を買うなんて話をしていました。

やっぱり、車は憧れでした。機械いじりが好きだからというのもありますが、双葉郡で暮らすなら車がないとどこにも行けないし、どうせ乗るなら、かっこいいものが欲しくなってくるわけです。

知り合いが1人できると、狭いところですから、どんどんと知り合いが増えます。東電独身寮の社員は、地元の運動会にも呼ばれるんですよね。小中学校のではなく、双葉町全体で開かれる運動会です。

「私を地域の仲間として認めてくれているんだ」

私は高校のときに陸上をやっていたので、運動会では勝手にリレーメンバーにエントリーされていました。私はオッケーなんて言ってないのに。でも気分は悪くないんです。

そこで早く走ると、少し目立つ。「おっ、あの若者は運動ができるじゃないか」。そう思ってもらえると、次の運動会もメンバーとしてカウントされているんです。これが嬉しくてね……。私を地域の仲間として認めてくれているんだ、と思っていました。

ある日、メンバーが足りないからと「ママさんバレー」の練習にも呼ばれるようになりました。

女性しかメンバーになってはいけないのに、「いいのよ。人が足りないんだから〜」といって、仕事が終わってから地元の体育館に呼ばれるわけです。私はバレーボール経験がないので、ちょうどいいのかもしれませんが。

ここまでいくと、今度はプライベートが無くなります。コンビニに行っても知り合い、スーパーにいっても知り合い、どこにいっても知り合いに会う。

協力企業の人とも、仕事を通じて仲良くなっていく。仕事を通じて、地域にも貢献できているって思いがありました。

そうそう、1Fでもお祭りがあって、社員の家族や地元の人でずいぶんと賑わっていました。これも楽しかったですね。私もですが、バルーンアートができる社員が多くいるんですよ。地域の子供たちとふれあえる経験は、本当に楽しいものとして残っています。

こんな感じで、5年も経てば仕事だけでなく、街にも慣れてきました。

常連になった居酒屋に行くと、誰か知り合いがいて、飲みに行くのも楽しい。結婚した妻も地元の居酒屋で働いていたんです。結婚したのは、働き始めてちょうど10年がたった28歳のときです。

妻の実家は浪江町の山の方で、いまは帰還困難区域です。原発事故で避難しないといけない、当面住むことができない区域で、許可がないと立ち入ることもできないエリアになってしまいました。

私たちは、当時、浪江町の小さなアパートに住んでいて、そこから1Fに通っていました。ちょうど、勤務先が2F(福島第2原発)に変わるころだったので、次はどこに家を借りようか、なんて話し合っていました。

妻の実家や親戚もいい人ばかりで、結婚生活は本当にいいもんだなぁと思いました。家族がいる生活、家庭があるという生活は、親元を離れてからしていないですからね。

1Fから、2Fに異動したときの2F所長が、いまの福島復興本社代表石崎芳行さんです。

2Fもいい職場で、職場改善も進んでいました。仕事もうまくいく、家庭もうまくいく。結婚してから、2011年までは私の人生の中で、両方が重なって、いちばんうまくいった時期だったと思います。

振り返れば、ボストンバック一つを抱えた18歳の右も左も分からない私を、双葉郡という場所は、本当に温かく迎えてくれましたし、支えてくれました。

人生で一番楽しかった、充実した思い出が詰まっています。私はずっと、この町で暮らしていくんだと思っていました。

そして、2011年3月11日を迎えるのです。(後編に続く)