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【東日本大震災6年】最愛の人に会いに遺族が向かう場所 僧が説く死者と私たちの関係

霊場として有名な恐山に行った、という東日本大震災の遺族は少なくない。彼らは何のために恐山を訪れるのか?

そこには「死者」がいる

岩でできた丘から湧き上がる煙、硫黄の匂いが充満する。丘の上から広がる湖面が見える。岸には小石が積み上がっている。

そこは青森県下北半島・恐山。

非日常の空間だけが持つ、場の力が人の心を解放するのだろうか。人々は湖に向かって、亡くなった人の名前を大きな声で叫ぶ。

「恐山は死者がいる、あるいは死者を想う人たちがいる場所です。大事な人を亡くしたとき、あなただって想い出すことはないですか?」

「人と人との関係は亡くなったからといって絶たれることはありません。亡くなってからも、死者として実在しているんです」

そう語るのは著書「恐山」などで知られる恐山菩提寺・住職代理の南直哉さんである。当事者として関わりながら、恐山とは何かを考えてきた。

死者は「死後の世界」にいる?

東日本大震災の遺族が恐山に向かう理由、それを南さんは「死者がいるから」だという。

死者とは「霊魂」とか「死後の世界」という意味か。そうではない。

死者は生前の濃密な関係から生まれ、リアルに存在している。

こんな事例で考えてみよう。

ある日、突然、愛する人を亡くしたと想像してみる。例えば、それが東日本大震災でとても多かった、子供の死だとする。

もし子供が亡くなったら、親子関係は終わるのだろうか? 親子の愛情はそんなことで終わりはしない。

実際に取材で会った遺族は、子供が亡くなっても親は親のままだと語っていた。私たちはそれを自然な感情だと思い、遺族の言葉を受け取っている。

亡くなっても、大切な友人は友人のまま、愛する人は愛する人のまま、私たちは大切に想い続けている。

それこそが死者だ。死者は私たちに強く働きかけることがある。

「死者」の生々しさ

「なぜ、自分は生きて、あの人は亡くなってしまったのか」

これも震災取材でよく出合う言葉だ。なぜ、に答えはないことはわかっている。それでも、残された人は死者を想い、どうしても、そう問うてしまうのだ。

死者によって行動や考えを規定されることに、時として人は苦しみ、精神を病んでしまうこともある。

「そうでしょう。死者は生々しく、リアルな存在なんです。心のなかに生きているなんて、生易しいものじゃなくて、想い出したくないときでも、想い出してしまうのです。だからこそ、人は死者と関係を結び、生きなければならないのです」

葬儀が終われば区切りがつくのか?

私たちは死者との区切りを葬儀でつけたことにしている。葬儀が済めば、遺族には区切りがつく、いつまでも悲しむより前を向いて生きるべきだ、と声をかける人もいる。

南さんは、それこそ勘違いだという。曰く、葬儀というのは、遺体を前にして「この人が死んだんだ」ということを集まった人で確認しあい、遺体に別れを告げる儀式である。

問題はそのあとにやってくる。

亡くなったのが大切な人であればあるほど、葬儀だけでは、感情の収まりがつかない。遺体と別れても、というより別れてから、想いは一層、強まっていく。

「あの時、言いたかった」「こうしていれば……」。強まっていく想いは、死者に向いている。

自分なりに死者との向き合い方が決まっていくまでの過程。南さんはそれを「弔い」と呼ぶ。弔いは、人によって違う。

弔うなかで、死者はあらわれて、生きている私たちは、強い悲しみや苦しみという感情と向き合うことになる。

死者との関係に苦しむ人がいまもいるのは、前述の通り。そのために、死者への感情を吐き出す場を作る。

古くから伝わる対処の一つが「恐山」ということになるのだろう。

そこには死者がいて、生者は生前に言えなかった謝罪を、愛していた気持ちを、感謝を吐き出す。先立った死者への怒りや、自責の念も混ざる。

「弔い」は感情をあらわにすることで、少しずつ進んでいく。そうであれば、遺族が向かうのはとても自然なことに思える。

大切な人を想うこと、それが供養

「でも今、気になっているのは……」と南さんは続ける。

「恐山を訪れる震災の遺族のなかには、感情に蓋をしてしまって、死者のことを語らない人もいるということです」

こんな話を教えてくれた。

恐山にやってきたある「3人家族」の話だ。男は30代後半に見えた。連れていたのは幼い娘だ。妻を津波で亡くしたのだという。2人はまったく泣かず、悲しむ様子もない。

父親は「親父が泣くなんて、弱さをみせるようで情けない」といい、娘は「お母さんがいなくて泣いたら、お父さんがかわいそうだから」泣かないのだという。

2人は、妻であり母親を想い出すことすら禁じているように見える。そこに死者はいない。あるいは、いないことにしている。

南さんは「ここで悲しんで、泣いていいんですよ。2人でもっとお母さんのことを話さないと」と語りかけた。弱さをみせてもいい、ここで向き合えばいい。

大切な人を想うこと、そのものが供養になるのだ、と。

涙がでてこない遺族

こんな話もある。

70代半ばにさしかかった女性が恐山にやってきた。同居していた息子を津波で流されたという。彼女は息子を流されてからというもの涙がでないのだ、と南さんに語った。

しかし、女性は恐山で泣いた。

何に泣いたのか。

自分が息子を想い出しても泣けないことを、泣いたのだ。彼女は自身のことを、息子の死を悲しめない、薄情な母親だと思っている。

その話を聞きながら、私はあの震災の年に出会った一人の男性のことを考えていた。

岩手県沿岸部の小さな集落に住む60代半ばの男性である。近くに住んでいた兄と姉を津波に流されたと語った。

姉の遺体が見つかって葬儀をあげても、兄が行方不明になって捜索をしていると聞いても、涙が流れないのだと彼は言った。

そして「遺体が見つかっただけ、まだ幸せなのかもしれない」と、柔らかく笑うのだ。

この2人が泣けないのは、これまで自分が思っていた悲しみより、ずっとずっと深い悲しみに直面していたからだ、といまなら思える。

彼らは「弔い」の過程を生きていたのだ。

震災から何年たっても「弔い」の過程を生きる人たちは残り続ける。彼らはどこかに感情を吐き出す場を見つけたのだろうか。

「私たちの社会は死者の語り方を忘れているんです」

南さんは穏やかな声で語る。

「死者は、コントロールできない他者です。人は他者とともに生きています。だから、死者を考えることは、生きていくということでもある。私は、もっと死者を想っていいんですよと言いたいんです」

「感情にちゃんと向き合っておかないと、自分がまいってしまう。でも、突然の死と一人で向き合うのは、とても難しいことなんです。難しい状況に直面している人が、あの震災のあと、たくさんいるんじゃないか。それがとても心配です」

「悲しい」とも「苦しい」とも言わない人ほど、どうしていいのかわからない感情を抱えている。

私たちは、そんな彼らは「悲しみを乗り越えた」人たちだと考えてしまう。時間とともに悲しみは癒える、と思い込んでいるからだ。

南さんは少しだけ語気を強めて、問いかけるのだった。

「私たちの社会は死者の語り方を忘れているんです」

「何人が死んで、何人が行方不明だというのは、死体の数を語っているにすぎない。それで震災を語った気になっていませんかね。死者を想い、語るということがまだまだできていない。苦しんでいる人がこれだけ多いのに……」