「ゴミ以下」と呼ばれた木材でログハウスをつくる
2016年、福島県飯舘村に真新しいログハウスができた。
菅野クニさん(65歳)と夫の元一さん(66歳)たちの新居である。
除染のため伐採された、自宅裏の木々を利用した家だ。
「一度はゴミ以下、ただ汚染した放射性物質扱いをされた木ですからね」と夫婦は家を語りはじめる。
菅野家に向かうには、福島市内から車で小1時間かかる。
市内をでて深い雪景色が見えるようになると、そこが飯舘村である。
飯舘村。内陸部にある小さな村の名前は、原発事故で一躍全国区になった。
高濃度の放射性物質が飛散したことがわかり、2011年4月22日を境に、全村避難がはじまる。
そんな村に大きな転機が迫っている。
今年3月で一部のエリアを除いて避難指示の解除、つまり住民が住めるようになる。
避難指示の解除にむけた動きと完成のタイミングが重なったせいで、このログハウスは単なる「新居」以上に注目を集めてしまった。
安全キャンペーン?帰還のシンボル?どちらも違う
彼らの家は2つの異なる文脈で語られる。
1つ目は、飯舘村への帰還を快く思わない人たちからの言葉である。
「本当は帰れないはずの飯舘村に帰ることを促そうとする、国と東電の安全キャンペーンで作られた家」
2つ目は帰還を進めたい立場からの言葉だ。
「全部、飯舘の木を使って安全に住めると証明した、帰還に向けた希望のシンボル」
夫婦はいずれの言葉も宙に浮いているように感じている。
自分たちの心情をなにも表現していない。
「両方ともおかしいですよね」
「私たちはただただ、生活を取り戻そうとしただけで、安全キャンペーンにも、帰還のシンボルにもなろうとしたわけじゃないんですよ」
「もし、そういうなら、逆に聞きたい。行政は、国は、東電は、私たちに何をしてくれたの?」
そう語るのはクニさんである。
「私たちはわずかな希望を頼りに、6年間でなんとか必死に生活を取り戻そうとしただけなんですよ」
元一さんは静かに語り出す。
「原発事故には憤ってますよ。当たり前じゃないですか」
「安全キャンペーンだなんてとんでもない、私はここに来て、見て、感じてほしいんですよ。この家を、飯舘を」
元一さんが感じてほしいのは、自分たちの経験が単純化されることでこぼれ落ちてしまう感情だ。
ただ、そこに取り戻したい生活があったのだ、と。
除染で切られた木のために、彼女は涙を流した
あの原発事故から3年が過ぎた2014年のことである。
避難生活を続けていたクニさんは、飯舘村の自宅裏でそっと涙を流していた。
「木が泣いてましたよ。ゴミ以下だって世間様から言われるために植えられたんじゃないよって」
「ご先祖様がこれで家を作るか、この家にもしものことがあったら、木材にして売りなさいよって。そんな思いを込めたものなのに」
菅野家の自宅裏にある木々を伐採することが決まった。
福島第1原発事故の影響で、全村民が避難している飯舘村の山に植えられた木々を切る。
それは、村のため必要な除染のためだ。
放射線量を下げるためには伐採が必要なのだ、と行政から説明があった。
つまり、放射性物質に汚染された木々は、行政からすれば感情抜きに切り倒すべきもの。並んだ木々は「放射性物質」だった。
しかし、唸りあげるチェンソーの音のなかで、クニさんは木が泣く声を聞いている。
単なる比喩ではない。
家と周囲の山を継いだ元一さんは「仕方ないんだ。他の住民のために仕方ないんだ」と繰り返していた。
心の中で納得していないのは、丸太として並んだ木々を見る目でわかった。
当然だろう。
元一さんは農業高校の校長まで務めた教員だ。
杉の木は、教員になると決まり、初めて給与を受け取った40数年前にこんな決意とともに植えている。
「これから俺は税金でお世話になる身になる。いずれ、生まれてくる子供のために、これを使って家を作ろう」
彼らはこのとき、木々が後に自分たちの新居となるログハウスに生まれ変わることを知らない。
あの日から失った「生きがい」
クニさんはあの日から失ったのは「生きがい」と呼ばれるなにかだと思っている。
それは、金やモノなんかであてがうことができないものだとも思う。
クニさん自身は自分のことを「科学」を大事にするタイプだと考えている。
高校卒業時に看護学校への進学を決め、医療職で自分の身を立てようと思っていた。
「医療従事者たるもの」、とクニさんは考える。
「数値をもとに考え、判断する科学的な視点を忘れてはいけないし、感情に流されてはいけない」
元一さんとの結婚と時期を同じくして、クニさんは看護師から福島県の「保健師」へ転身した。
自分の希望する職場が見つからなかった末の選択だったが、キャリアの幅も、思考の幅も、大きく広がった。
保健師の仕事と、教員の仕事、それぞれに異動のタイミングもある。
当初の予定どおり「飯舘に帰る」のは、結婚からしばらくたった1987年9月だった。
2人で貯めたお金で、元一さんの父母が住む家をリフォームしたのと同じタイミングとなった。
その間に、生まれた長男と次男と、三世代同居が始まるのだった。
2011年4月、それは記念すべき月になるはずった
科学的な視点を大切するはずのクニさんが、とてもあいまいな「生きがい」について考えるようになったことと、菅野家の生活は無縁ではない。
菅野家にとっては、それは山で栽培していた山菜であり、農業だった。
うるい、こごみ、行者ニンニク……。
義父は近所ではちょっと名の通った「山菜採りの名人」だった。
山菜をその日の分だけ採ってきて、その場で食べる。
あるいは、ご近所さんに手渡す。義父母は畑とともにある生活以外の生き方を知らない。
元一さんは教員生活の合間をぬって、新種のカボチャやジャガイモを研究・開発することに情熱を注いでいた。
初めての給料を記念して植えた杉のように、植樹にも熱心だった。
クニさんはクニさんで、保健師を約26年務め、50代前半でやめてからというもの、なにか事業を手掛けたいと考えてきた。
2011年4月は菅野一家にとって、特別な月になるはずだった。
3月いっぱいで元一さんは校長を務めていた農業高校を定年退職することが決まっていた。
そのあとは、2人で農園を始めよう。
屋号は「ニコニコ菅野農園」でどうだろう。
そこに、2011年3月11日がやってくる。
あの日から
クニさんの回想である。
あの日は確定申告があって、午後に相馬市にある税務署に向かおうと自宅で準備中だったんですよ。
そこで地震が起きました。
不思議なもので、あの日は地震があったからこそ、はやく税務署に向かわないといけないと考えていたんですよね。
着いても、停電で確定申告どころじゃない。
帰り道で国道115号線の渋滞に巻き込まれたんですよ。
津波から避難する人たちだったんです。
飯舘はその日からしばらくテレビもつかず、携帯の電波も届かなかった。
新聞の配達もとまったんです。
確か、3月12日の朝だったと思います。
もう電池がきれそうなラジオから、原発が、という声が聞こえてきました。
でも、それで電池がきれておわり。
すっかり情報難民となってしまいました。
当時、夫は農業高校の校長で、単身赴任をしていて飯舘村から車で1時間半ほど離れた鏡石町にいました。
私は両親のために、七輪で食事を用意して、早めに休もうとしていた午後10時ごろに夫が飯舘の自宅に帰ってきました。
「これはただごとじゃない」
情報が遮断された飯舘村を一度離れ、2人は鏡石町の官舎に向かう。
原発事故の一切を知るのは3月13日、元一さんが住んでいた官舎に着いてからみたテレビでだった。
ニュースキャスターは避難指示がでていることを伝えていた。
そこで、クニさんは10数年前の記憶をたどる。
原発が立ち並ぶ福島沿岸部を管轄する保健所に勤務していたときだ。
原発事故が起きた際の研修を受けていた。
必死に記憶を辿る。もし避難する必要が起きたらどうするか。
10キロ圏内でどう動くかは確認されていたが、避難する区域がどんどん拡大していく状況は、研修でも想定されていない事態だった。
文字どおりの想定外のことが起きている。
「これはただごとじゃない」とクニさんは身構えた。
老人にとって最大のリスク「避難」
3月15日、飯舘村の線量は上がり、毎時44・7マイクロシーベルトに達していました。
私は、これだけ一気に上がるということは、原発から飛散した放射性ヨウ素が降っているんだろうとあたりをつけました。
ヨウ素は半減期が早い放射性物質なので、しばらくしたら、線量は下がるのではないか。
その時、どれだけ下がるかが勝負だと思ったのです。
義父母は85歳を超えていました。
老人にとっては、避難することで環境を変えてしまうことが最大のリスクなんです。
同じような生活を送れなくなってしまうと、心身に影響します。
私は問われているのは、生活そのものだと思いました。
まず、義父母のために、ここは離れない、と決めたのです。
歓迎されない決断
しかし、である。
この決断は歓迎されなかった。
線量計を仕入れてほしい、とお願いした長男は、クニさんにこんな言葉をかけている。
「こんな線量の高いところにいて、じいちゃん、ばあちゃんを殺す気か」
「親父に、もう研究はやめろといってほしい。これで畑や山に入るなんておかしいだろ」
親を案じる思いからでた言葉なだけに、元一さんには堪えたようだ。
その当時の記憶はほとんどないという。
本人よりも、様子をつぶさにみてたクニさんのほうが覚えている。
震災からしばらく、この人はものすごく落ち込んでいるんですよ。
何聞いてもぼーっとしているし、なんかの拍子に「あぁもうダメかな」って小さな声でいうんです。
私もおかしかったと思います。
週刊誌にこそ真実がある、と思って飯舘は危ないと書いてあるものを買いあさりました。
でも、4月末にやっと線量計を手に入れて測ると、家の中は外よりも低いのです。
軒下や玄関先など元々、放射性物質が集まりやすいところは確かに高い。
大事だったのは、行政と同じポイントで測ると、公表されている数字とそんなに変わらないことがわかったことです。
少なくとも彼らが計測している範囲で、公表した数字に大きなウソはない、ということを自分で確認しました。
しかし、クニさんの思いとは裏腹に、避難は容赦なくはじまる。
除染のために切るのか、切らないのか
近くに畑のある避難先を見つけたことで、心配だった義父母の体調は落ち着いていた。
懸念していた山菜の線量も調べてみたら、思いの外、低い。
これは帰れる可能性はある、と希望を持ったときである。
夫婦は決断をせまられる。
2014年、除染のために菅野家周辺の木を伐採するよう国から通知が届く。
クニさんと元一さんはこんな議論を交わしていた。
「今の線量なら、うちの木を切っても切らなくても問題はない」
「木を切ったところで、大幅に下がるわけでもないでしょう。わざわざ、切らなくてもいいでしょう」
元一さんは反論した。
「いや、切る」
「うちだけ切らないということはできない。周囲の人たちがどうみるか考えてみろ」
元一さんの考えは明確だった。
村で生活している以上、自分たちだけが切りたくない、と言ったらどうなるか?
それを理由に帰りたくない、という人たちだっているかもしれない。
周囲の思いを考えれば、切るのは当然なのだ。
現実的である。
しかし、それは現実の問題に対応するために、という理由で自身の感情に蓋をすることを意味している。
元一さんは内心はこう思っていた。
そりゃ、嫌に決まっているじゃないですか。
自分で植えた木を自分で切るんじゃなくて、原発事故のせいで切るなんて……
私が生まれたときに、母方の祖父さんが60歳になったときに木材として使えるように、と植えてくれた木もあるんですよ。
杉は木材として家を作るのに最高の素材になる。
自分の家を建てるときに、この木を使ってもらおうというのがひとつ。
もうひとつは、この家に何かあったら、木を売って急場をしのいでほしいというのが先祖の願いなんですね。
どっちでもない理由で木を切るというのは……。
(沈黙)
悔しいなぁ。
これは元ある家なのか?
山と暮らすということは、先祖が植えた木を受け継ぎ、出会うことがないかもしれない未来の他者のために木を植えて、引き継ぐということだ。
何度きいても、元一さんの言葉は変わらなかった。
除染は始まり、母屋の20メートル以内にあった樹木はすべて伐採されていった。
淡々と作業を進める業者の様子をみながら、もっと丁寧に扱ってほしい、と夫婦はただただ憤りながらみていた。
どんな物語がある木だろうが、行政側の扱いは「放射性物質」である。
当時を思い出し、言葉が少なくなった元一さんにかわって、クニさんが言葉を紡ぐ。
木はね、使わせていただくものなんです。
そして、未来のために植えるんです。
木が泣いているんですよ。こんなことのために、植えられたんじゃない、切られるんじゃないって。
あぁ、これが現実なんだって思いましたよ。
私たちは飯舘に帰ると決めたけど、それは元ある家に帰るということであって、これは元ある家じゃないんだって思いましたよ。
それでも、夫婦は新居をつくる
丸太は無造作に積み上げられていった。これをどうすればいいんだろう。
そうだ。元一さんはもともと、家を作るために木を植えたのである。
ならば、丸太になったからといってあきらめる必要はないのではないか。
クニさんは科学者から聞いたこんな話を思い出していた。
実は、放射性物質は木の表皮にたまっているだけなんですよね。中にはほとんど移行しないんですよ。
木材として、家の建築に耐えられるのかということを建築会社に聞いてみた。
製材すれば文句なしに使える、実に立派な木材である、と太鼓判が押された。
2つの情報を組み合わせると、こういう構想が浮かび上がる。
表皮を剥いだ木材を検査して、数値を測る。
問題がなければ、これを資源にして新しい家を作ることができるのではないか。
あきらめて、捨てるしかないと思っていた木々は資源に生まれ変わる。これはひとつの希望だ。
飯舘村を訪れていた知り合いの研究者に依頼し、樹皮と内部の放射性物質の線量を調べてもらった。
我ながら「とんでもないお願い」だと思ったが、研究者も思いにこたえた。
当時の詳細な記録はすべて残している。
それによると、内部から放射性物質の検出はほとんどなく、樹皮も高くて2300ベクレル前後だ。
これで家を作った場合の線量をシミュレーションしたが、値はまったく問題にならないものだった。
樹皮は友人、知人の力も借りて、自分たちで剥ぎ、新居は完成に向けて動き出す。
嬉しかったのは、最初期は飯舘に暮らすことを拒んでいた子供たちが、こんな言葉をかけてくれたことだ。
「お母さん、30年後に帰ってくるから、それまで何もしなくていいよ」
息子の口から「帰る」という言葉がでたことに、クニさんは嬉しさを感じる。
実は、長男も次男も仙台の高校に進学したため、中学卒業と同時に15歳で村を出ている。
そんなに村に愛着はないだろうって思ってたんです。
子供たちには自由に育ってほしいから、長男だから家を継いでほしいとか、子供に将来、飯舘に住んでほしいとか全然、思わないんです。
でも、結婚した子供たちが安心して帰省できる場所はちゃんと作りたかった。
そこをわかってくれたんだなあって。
元一さんが口を挟む。
「いや、どうせ作るなら羨ましがってもらおうって思いましたよ」
「この大黒柱、みてくださいよ。これが、私が教員になったときに最初に植えた木ですよ。どうですか、立派なもんでしょ」、と。
ひとの生きる力が奪われるとき
「避難ってね、特に老人にとっては人間の力を無くしていくんですよ」
クニさんが考える人間の力とは、自分の手を動かし、誰かの役にたっていると感じる力のことをいう。
それをここでは「生きがい」と呼ぶ。
生きがいを奪われた時、人は力を失っていく。
原発事故はそれを如実に示した。
何の役にも立たない、ゴミ以下の扱いを受けた木々でログハウスを作る過程は、夫婦の生きがいを取り戻す過程でもあった。
2017年の春、子供たちと伐採した跡に植林をしようと計画している。
彼らもまた、失った生活を取り戻そうとした夫婦から先の歴史を担おうとしている。
その木が大きくなったとき、どんな物語が紡がれるのだろう。
その話題になると、夫婦は目をあわせて、そっと微笑むのだった。