あの日、横須賀にいたあなたに会いたい。70年代の日本を撮影した米兵の願い

    「実際に面と向かってお会いしたい。それが一番の願いです」

    1972年、横須賀。フィルムカメラを片手に街を歩き回り、行き交う人々の写真を撮っていた若き米兵に会ったことはないだろうか。

    もしもその頃、22歳だったその青年に会ったことがあるとしたら、45年の月日が経ったいま、彼は再びあなたのことを探している。

    その米兵の名前はスティーブン・シーリー。1970年から約2年間、横須賀の米軍基地でレーダー技師として働く傍ら、基地周辺や台湾、香港で出会った街の人々の姿を、何百枚もの写真に収めた。

    67歳になった彼はいま、アメリカ東部のノースカロライナ州シャーロットで暮らし、退役後に務めたソフトウェア会社を2年前に退職。かつて撮りためた写真の整理を始めたところ、ある強い思いに駆られた、とBuzzFeed Newsの取材に話す。

    「あの頃の写真を一枚一枚じっくりと見ているうちに、そこに写っている人々をとても懐かしく感じ、愛着を覚えるようになりました。そして、現像した写真を見せることができなかったことを、ひどく残念に思ったんです」

    この思いを娘に打ち明けると、「写真をInstagramで公開し、写真に写っている人々の情報を募ってみては?」と提案された。

    そうして立ち上げた彼のアカウントには、横須賀や鎌倉、逗子、大船、東京などで撮影された写真が数多く並び、70年代の日本を生きた人々の息づかいが焼き付けられている。

    「彼らと私の人生が交錯したのは、ほんのわずかな時間。でも中には、その時に起きた出来事を細かく覚えている写真もあります」とシーリーは言う。

    「例えば、逗子で出会った少女は最初、通りの反対側にいたんです。カメラを持った私が近づいてくるのを見ると、彼女は犬を抱きかかかえ、ポーズをとってくれました。お互いに『ありがとう』以外は一言も交わさずに、お辞儀をして別れたのを覚えています」

    「大船にある小高い丘へ子どもたちとハイキングに来ていた先生は、太陽に照らされた背の高い植物を撮影する私を見て、『これはススキと言うんですよ』と教えてくれました。この日は、いつも持ち歩いていたポケット辞書がとても役に立った記憶があります」

    横須賀で一番気に入っていた場所は、日中はジャズ、夜はロックをかけていた喫茶店。

    覚えているのは、店の名前を記した看板が「Jazz and Rock」とも「Rock and Jazz」とも読めたこと。入り口には「大音量なし、ダンスなし、コーヒーと音楽のみ」と英語で書かれた張り紙があったこと。そして、この店がジャズの素晴らしさを教えてくれたこと。

    「日本の好きなところは、日々の何気ない場面や物事においても、常に趣きや細部を大事にするところでした。ファストフード店でさえも、店員が時間をかけてナプキンを丁寧に折りたたんでいたのをよく覚えています」

    「アメリカ人の中には、日本人の複雑な人間関係やコミュニケーションの仕方に文句を言う人もいますが、同じように礼儀を重んじるアメリカ南部で育った私にとっては、日本文化を異質に感じることはありませんでした」

    「お互いへの礼節が表面的にすぎない時もあるが、多くの場合は心がこもっている。それは、日本もアメリカも変わりませんから」

    日本の他にも、台湾や香港で撮影された写真も多く投稿されている。中でも思い入れが深いのは、香港で出会い、その後結婚した妻リナさんの写真だと言う。

    「彼女の写真を撮っていなかったら、私の人生は大きく変わっていたかもしれませんね」

    現時点(8月24日現在)では、まだ写真に写っている人々に関する情報は寄せられていない。

    だが、もしも連絡を取ることができたら——。シーンの願いはシンプルだ。

    「まずは、写真のデータを共有したいと考えています。Instagramの写真はサイズが小さいし、他にも関心のある写真があれば、全てキズやホコリの跡を取り除いてからお渡ししたいと考えています。そして何よりも、再び会うことができて嬉しいと伝えたい」

    「そうは言っても、実際に面と向かってお会いしたい。それが一番の願いです。でも、街中で偶然出会った人と、45年も経ってから会いたいと願うのは、贅沢すぎるかもしれないですね」


    写真はインスタグラムの「@my_pacific_70s」で公開されている。写真に写っている人々に関する情報提供は、シーリーさんのメール(my.pacific.70s@gmail.com)へ。