【モスル奪還作戦】誰が大統領になっても同じ 最前線の米兵たちの声

    この戦いは、これまで続いてきた戦いの最新のものにすぎない

    まるで粉雪のような砂が舞う、モスルの南にあるケイヤラ米空軍基地。そこで2人のアメリカ軍の兵士が、自分の国の大統領選の騒ぎをとても遠くに感じる、と話していた。

    彼らも最後の大統領選の討論会を観た。話題になっていることについて調べたりした。でも、選挙戦の動向を細かく追うようなことはしていなかった。「責任者が誰だろうが、私たちはここにいる。自分たちの任務をきっちりこなすだけだ」。ペンシルバニア出身の33歳の二等軍曹は言った。

    「誰が大統領になっても、同じ軍服を着て、同じ仕事をするんだ」と、もう一人も言った。彼はテキサス出身の一等軍曹だ。

    「入隊した時から、私はあらゆる大統領の下で任務についてきた」と、広報担当を務める42歳のクリストファー・パーカー少佐は言う。パーカー少佐は、公式に話すのを許されたこの基地唯一の兵士だ。「今回、私はすでに現地に来ている。だから何も心配する必要はないんだ」

    アメリカ兵は投票することを奨励されるが、着任中は大っぴらな政治的言動は奨励されない。それが、この2人の兵士が間近に迫った選挙に対して、とても控えめだった理由のひとつであったかもしれない。

    長年、海外で厳しい勤務を重ねてきた兵士たち。政治的な風向きがどのように変わっても、自分たちは配備されたままであることに変わりはない、ということ学んできた。「記念日、誕生日、クリスマス。すべての休みは逃すものだと学んできた」と、テキサス出身の軍曹は言った。彼には自宅に妻と2人の息子がいる。

    軍曹たちは二人とも、今回が4度目のイラク派遣だった。今回のこの国での彼らの役割は変わったが、彼らは現在の任務をひとつづきの長い戦争キャリアの一部とみなした。「私の反応は、またあそこに行くのか、って感じだった。撤退したのだと思っていたから」と、ペンシルベニア出身の軍曹は言った。そして、モスル奪還作戦で、イラク軍とクルド人部隊を支援するという米国の任務に参加するために、この夏イラクに戻ったのだと説明した。

    「良いことをしているんだ」と、彼は言う。「彼らの国を救うことができるのなら、喜んで助ける。これが最後になると良いのだが」

    二人の米国人兵士の発言は、2003年の米国によるイラク侵攻以来、終わりなき紛争に苦しめられてきたイラク側の仲間と同じだ。サダム・フセイン体制に対する初期の戦いが、米国と同盟軍対無数のシリア民兵の戦いへと変わり、さらにはIS(イスラム国)の前身であるイラクのアルカイダとの戦いへと変化した。モスル奪還作戦の最前線で、兵士たちは、この戦いは、これまで続いてきた戦いの最新のものにすぎない、と何度も表現した。そして、きっとこれからも続く、と言った。

    ペンシルベニア出身の軍曹は高校卒業直後に入隊した。それは9.11のテロ攻撃がまだ記憶に新しいころだった。「ありきたりに聞こえるかもしれないが、私は入隊して、自分の国のために何かしたいと思った」と、彼は言った。基礎訓練期間の後、ケンタッキー州に配属された。そして「その2週間後、飛行機に乗っていた」のだという。

    彼の最初の任務は、ケイヤラから遠くない場所から、モスルへの物資輸送隊を援護することだった。彼は、故郷のペンシルベニアの人たちは、イラクでの厳しい戦いにほとんど注意を払っていない感じる、と話す。「この戦争について、誰も何も聞こうとしない」

    この夏、アメリカ全体が大統領選の混沌に心奪われている間、ペンシルベニア出身の軍曹と彼のおよそ120人の仲間は、イラクの熱さの中で汗をかきながら、瓦礫からケイヤラ基地を作り上げる手伝いをしていた。

    米兵の間ではQウエストとして知られるこの基地は、イラク戦争中、アメリカの重要な中心拠点であった。しかし、ISが2014年6月にモスルを奪取し、この地域を制圧したあと破壊された。この部隊は、米国のエンジニア・チームが見張り塔、バラック、それにセメントの壁を建てる間、護衛する役割を担っていた。

    「何にもなかったんだ。荒れ地しかなかった。岩だけだった。地面にはたくさんの(セメントの)壁が落ちていた」と、テキサス出身の軍曹は回想する。彼はこの小隊の指揮官だ。

    彼の部下が設置した最初の護衛境界線は、ハンヴィー(高機動多用途装輪車両)で囲った区域だった。兵士が不足していたので、彼らは昼夜問わず一日中、防護服を着て警備に当らなければならなかった。迫撃砲や隠された即席爆弾に注意しなければならなかった。数人の男が暑さにやられて倒れた。「彼らは、へとへとだった」と、兵士たちの疲労のほどについて彼は語った。「絶えず人を配置しなければならなかった。私たちには替わりはいなかったから」

    現在、この基地はしっかりと守られている。イラク軍がモスルに進軍するたび、ISが基地から遠のくことを確認している。滑走路の大半は修繕された。そこへ 2年以上ぶりにイラク軍機(イラクのC-130)が、先週着陸した。

    今回の派兵での彼らの任務は、過去の任務とは異なっている。イラク戦争の際には、米軍が戦闘活動をリードしたが、今、彼らは地元の軍隊が戦うのを手助けする仕事をしている。「今回は我々の戦争ではない。米軍はイラク軍を支援するためにいるんだ」と、テキサス出身の軍曹は言った。

    この基地にいるアメリカ兵にとって支援とは、物資の輸送を手伝うことであり、戦闘計画を立てたり、イラクの医療スタッフからメディア・チームに至るまですべての人にアドバイスしたりすることである。それとは別に、特殊部隊から派遣された米軍は、戦闘により近いところで働く。そして、イラク軍およびクルド族の軍隊と最前線まで一緒に行き、時折、命を失う者もいる。これまで4人の米国派遣メンバーがイラクでのISとの戦いで死んだ。そこには、今月始めにモスル攻撃の開始の際に、即席爆発装置で命を落とした、海軍の爆薬技術者が含まれている。

    イラク軍と共有しているケイヤラ基地での米国の任務には、砲撃の支援が含まれている。ある角では、先進の高機動ロケット砲システムが取り付けられたトラックで、アメリカ兵たちが次の指示を待っていた。一度に6発を発射することができるGPS内蔵のロケットは、およそ44マイル(約70キロメートル)の射程距離を持っている。そして、標的の5メートル以内に着弾できる、と操作を担当しているメリーランド出身の軍曹は言った。

    「ここに着任した時から、私たちはモスルを射程距離に納めている」と、彼は言った。「我々は、自動車爆弾から自動車爆弾の工場まで、すべてを砲撃した。それに、本部のビルディング。射程距離内にあるものすべてを砲撃した」

    先週月曜日、この軍曹の小隊は、84のミッションで、216発のロケットを発射した。彼は「24時間」いつでも準備ができている、と語った。

    太陽が沈み始め、少数のアメリカ兵が防護壁に沿ってジョギングしていた。彼らが防護服を着用せずにバラックを出ることができるまでに警護が緩和されたのは、これが初めてだった。もう一人の兵士は、大きなトラックのタイヤをウエストに鎖でつないで、短距離走を行った。
    その他の兵士たちは、今日もまた埃まみれで単調な仕事を終えたところだった。「毎日が、ぼんやり過ぎていくんだ」と、テキサス出身の軍曹は言った。彼は費やしてきた日々を数えることに苦心していた。

    彼とペンシルベニア出身の軍曹はどちらも30代であるが、彼らは自分たちのことをケイヤラの「気難しい年寄り連中」の一部だと言った。ここでは、兵士の多くは20代前半か10代後半の比較的若々しい顔をしているように見える。

    「軍人は28歳で年寄りとみなされてしまう。その歳の奴等は大抵、10年間在籍したことになるから」と、その年齢に近づいている別の兵士は言った。


    「28歳にもなると古株扱いだ。普通の生活をしていれば、一番いい時なんだが」