失われた日常を、取り戻すために。阪神淡路大震災から熊本地震へ、つながるバトン

    22年前、兵庫県で被災した一人の女性が、高校生とともに熊本のいまを伝える活動をしている。ふたつの震災を結びつけるものとは、何なのか。

    阪神大震災で被災した女性が、愛知県の高校生と一緒に、熊本地震の現状を伝える活動をしている。生徒たちは、2月25〜26日に名古屋市で開かれる「ほっと@九州フェア」で、自分たちが被災地で感じたことをプレゼンする。

    「日常を失った」。一度、そんな経験をしたからこそ。そして、被災時は自分も高校生だったからこそ。

    阪神淡路大震災から22年。熊本地震から、もう少しで1年。彼女は、何を思い、ふたつの震災を結びつけたのか。

    真っ赤になった、神戸の空

    「街が潰れてしまった様子は、本当にショックでしたね」

    そうBuzzFeed Newsの取材に語るのは、JR東海の社員、阪口杏沙さん(39)だ。

    地震があったときは、高校2年生だった。いつものように、友達と電話をしてから床についた。本当だったら、いつも通りの朝が来るはずだった。

    1995年1月17日、午前5時46分。最大震度7の地震が、兵庫県南部を襲った。

    「私が住んでいた家は海のはたにありました。突然、ドーンという突き上げと、地割れの音が聞こえて。それまで大きな地震を経験したこともなく、最初は何が起きたのかわかりませんでした」

    あわてて起き上がった。揺れが収まって気がつくと、家は傾いていた。

    着の身着のまま、両親や兄姉、祖母と近くの公園に身を寄せて一晩を過ごした。その日の空は、真っ赤だった。

    「人って、こんな簡単に死んじゃうんだ」

    液状化で、辺りの土砂は噴出。地割れだらけになり、インフラはすべて途絶した。家では暮らすことができなくなり、避難生活が始まった。

    なかでも忘れられないのは、被災直後、市役所で過ごした数日間の記憶だ。

    被災した人たちでいっぱいだったロビー。殺伐とした空間に、次々と毛布に包まれた遺体が運び込まれてくる。

    「あんな大量の遺体を見たことはいままで、ありませんでした。人ってこんな簡単に死んじゃうんだな、と。強いところもあるけれど、弱いんだなって」

    遺体の腐敗を防ぐためのドライアイス、そして漂う線香の匂い。泣き叫ぶ声。生き埋めになってるんです、と自衛隊員や消防員にすがる人々……。

    高校で、同じ華道部だった友人を失った。自宅アパートが潰れて弟とともに亡くなり、母親だけ取り残されたのだと、一週間後になって知った。

    当初は大きく地震を報じていたマスメディアは、東京で起きた地下鉄サリン事件のことばかりを、伝えるようになっていた。

    「さみしかったですよね。どんどん忘れられていくんだろうなって」

    こうした記憶を語ることは、これまでなかなかできなかったという。震災から、22年と少しが経ったとしても。

    「地震の前にあった日常はけっきょく、戻らないままでした」

    そう言いながら、阪口さんは嗚咽した。「もう、大丈夫かなって思ってたんですけど」。

    被災経験を生かすために

    社会人になったら、自らの経験を生かしたい。たとえば、他の災害の支援などに。そんなことを考えていたが、なかなか機会には恵まれなかった。

    転機は2016年7月。会社の異動で、毎年2月、名古屋で開いている九州フェアを担うことになったのだ。フェアでは、熊本の復興支援に主軸を置くことになった。

    「イベントに合わせ、10代の人たちに熊本に行ってもらおう、それを会場で伝えてもらおうと思いついたんです」

    自分が高校生で被災をしたからこそ。震災を知らない10代と、被災した同じ世代が交流することができないか、と考えたのだ。

    あちらこちらを奔走するなかで、愛工大名電高の生徒たちと出会った。彼らは熊本地震後、何かができないかと自ら動き始め、くまモンのモザイク画をつくって被害の大きい益城町に送る活動をしていた。

    阪口さんは彼らに熊本行きの誘いをかけ、ミーティングを重ねた。

    野次馬にはなりたくない

    1月。高校生たちとともに、被災地・熊本に足を運んだ。震災から10ヶ月経っていても、現地はまだ、傷だらけだった。

    同世代である大学生と交流する場も設けることができた。被害の大きかった南阿蘇村にあった、東海大学阿蘇キャンパスの学生たちだ。

    友達を失くした子、生き埋めになった同級生を助け出した子。高校生たちと一緒に、生々しい体験談を聞いた。

    東海大の阿蘇キャンパスは地震後、閉鎖されている。「それなのに、なぜまたここに戻ってきたいんですか」。そんな失礼ともとれる質問も飛び出した。

    それでも、大学生たちは、自分たちが地元を愛してきた理由を、優しく、説明してくれたという。

    さらに、去り際になって。被災した子たちはみんな、「来てくれてありがとう」と言ってくれた。

    行く前は、「野次馬だと嫌がられるんじゃないか」という不安もあった。それは、杞憂だった。

    ずっと、取り残されていた

    愛工大名電の生徒たちは、自分たちが見たこと、知ったことを「熊本の”いま”新聞」にまとめた。そこに掲載された編集後記には、こんなことが書かれている。

    今回の旅で僕たちは、もっと地震に対する意識を高めていく必要性を感じました。いつか復興を遂げた熊本を訪れて、今回お会いした方々と、笑顔で再会したいです。

    「私が高校生の頃、彼らみたいな同じ世代と話せていたら、人生が変わっていた気がするんです」

    なんでですか。そう聞くと、阪口さんは言った。

    「私は、ずっと取り残されていく思いをしていたんですよね。もし同じ世代の子と出会えていたら、同じ世代の子に話を聞いてもらえていたら。自分だけじゃないって思えたはずなんです」

    「そうして、お互いが元気になれた気もする。今回の交流では、それが実現できました。だから、すごく、うれしかった」