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「大人が不甲斐なくてごめん」「もう闘わなくてもいいよ」不登校の子どもへ、直木賞作家が伝えたいと願うこと

「学校へ行かないというのはとても勇気のいることです」

こじょう【孤城】
①ただ一つだけぽつんと立っている城
②敵軍に囲まれ、援軍の来るあてもない城

本をめくると、そこには辞書から引用された、こんな言葉が書かれている。

作家は学校に通いたくないと感じる子どもたちの気持ちを思い浮かべ、「孤城」という言葉をタイトルに冠した。

「ぽつんと立っている。周りが敵だらけ。この言葉の意味を知ったときに、どこにも自分の味方はいないと感じている子どもたちの気持ちそのものではないかと思ったんです」

小説『かがみの孤城』で不登校の子どもたちの物語を描いた、辻村深月さんはこう語る。

2020年、新型コロナウイルス感染症の拡大で、多くの子どもたちが休校やオンライン授業を経験した。

休校期間が長かった地域ほど、休校後に学校へ行きたくないと答えた子どもが増加したこともわかっている。さらに2020年に自殺した小中高生は479人。前年よりも140人増え、過去最多となった。

辻村さんがいま届けたい言葉とは。

自分の忘れ物を確認するため書き続けた「教室小説」

辻村さんが『かがみの孤城』を書き上げたのは2017年。本屋大賞も受賞し、名実ともに自身の「代表作」となった。

7人の子どもたちが登場するミステリー小説だ。

学校での居場所を失くし、不登校となった主人公・こころはある日突然光り始めた鏡に手を伸ばし、向こう側に広がる世界へ足を踏み入れる。そこには童話の世界のような城があり、その城の中には何でも願いを叶えることができる「願いの鍵」が存在するというーー。

「私はデビュー作から10代の子どもたちを主人公にした群像小説を書いてきました。いまでも、それが自分の原点だと思っています」

辻村さんは、自身の歩みをこう振り返る。

24歳のとき『冷たい校舎の時は止まる』でデビュー。32歳のとき、『鍵のない夢を見る』で直木賞を受賞した。

10代の子どもたちを主人公に据えた物語を描くとき、恋愛にまつわる小説や家族に関する小説、部活の小説など様々な形が想定できる。

だが、辻村さんは「私が書いてきた物語は圧倒的に『教室小説』だった」と振り返る。

そんな中、なぜ、『かがみの孤城』では、教室にいない子どもたちの物語を描いたのだろうか。

「学校という空間の中で、10代が過ごす時間。高校生や中学生が活躍する小説が読むのも書くのも好きだったので、テーマとして選んでいるのはたまたまだという気持ちでいました。ただ、小説を書き続けるうちに、だんだんと自分の興味の対象が学校そのものにあるということに気付いたんです」

「そんな中で、学校にいる子どもたちではなく、学校へ行かないという選択をした子どもを主人公にしたら、『学校とは何か?』ということについて、むしろより深く掘り下げて描くことができるのではないかと思いました」

「教室小説」というテーマは、意図して描き続けてきたものではない。ある日、自分の歩みを振り返ったときに、そこに見出すことができた共通項だった。

「私自身の学校生活を振り返ってみても、決して楽しいと言えるものではありませんでした。だからこそ、なんで自分が学校や教室にそこまで惹かれるのかわからなかった。だけど、当時上手くやれなかったからこそ、私は教室に大きな忘れ物をしたままなのかもしれません。いまでも小説を通じて、何度も教室にその忘れ物の確認に行っているんでしょうね」

不登校は「学校から逃げた」わけではない

不登校の子どもたちを「学校から逃げた」と捉える人々もいる。だが、辻村さんは「不登校の子どもは休む勇気を持った子ども」だと考える。

「私もそうですが、子どもの頃に『もう学校なんて行きたくない』と感じたことがない子どもなんていないと思います。先生に怒られたから行きたくない、友達と喧嘩したから行きたくない、苦手な教科があるなど理由は様々だと思いますが『嫌だな』と感じながらも、どうにか今日、明日、そして明後日と学校へ通い続けた。その積み重ねで卒業にたどり着いたような人も少なくないのではないでしょうか」

「そんな中で、学校を休む、学校へ行かないというのはとても勇気のいることです。これは大人の世界にも共通して言えることですが、一度休んでしまえば今度は戻りにくくなる。そんな中で学校を休むという選択をした子どもたちから見える世界の物語を書きたいと思いました」

子どもの頃、大人は何事においても正しいと思い込んでいた。だが、大人になるにつれて、辻村さんが確信したのは「大人が常に正しいわけではない」ということだった。

「大人が不甲斐なくてごめんね」

小説を書く中、申し訳ないという思いが何度もこみ上げた。理不尽な大人の振る舞いのしわ寄せは、いつだって子どもの身に降りかかる。

子どもの頃、言葉にすることのできなかった違和感の答えを、辻村さんは小説を書く中で見つけた。

だからこそ。不登校やひきこもりを経験した当事者が取材・執筆する不登校新聞の取材で記者の子どもたちを前にしたとき、「年齢にかぎらず『くだらない人はいます』」という言葉が口をついて出た。

傷つけてきた人の事情をあなたが推し量ったり、背負う必要はありません。大人と呼ばれる年齢になって、私は満を持して、みなさんに言いたいことあります。年齢にかぎらず「くだらない人はいます」と。

「大人」なんて呼べるような立派な人なんていないし、理解しあえないことに大人も子どもも関係ない。あなたが大切にしたい人を大切にするだけでいいんです。(不登校新聞

なるべく「いじめ」という言葉は使わない

あの子たちは何も壊さなかったし、こころの体にも傷をつけなかった。だけど心が体験した時間はそんな言葉だけじゃなくて、もっとずっと決定的で徹底的なことだ。(『かがみの孤城』)

小説の中で主人公のこころが経験したことは、「いじめ」と呼ばれる類のものだ。だが、それを「いじめ」と一言で言い表すことだけはしたくなかった。

「大人って子どもの世界を見たときに、ついつい分析してしまうんですよね。どんな出来事も大人の世界で通用する言葉に置き換えて理解しようとする。だから、学校で何かあれば『いじめがあったみたい』『喧嘩があったみたい』と表現してしまう」

「でも、それを経験した子どもにとっては、『いじめ』や『喧嘩』という言葉では伝えきれない、もっとずっと複雑なものだと思うんです。複雑なものは複雑なまま書かなければ、それは中学生の日々ではなくなってしまう。だから、私はなるべく『いじめ』という言葉は作中で使わないように心がけました」

複雑なものを複雑なまま描く。それは、言葉にするほど容易なことではない。でも、その挑戦は間違いではなかったと読者が辻村さんに教えてくれた。

辻村さんのもとには、様々な読者から感想が届く。自身の経験を主人公の体験とリンクさせ、この物語を読んだという声も少なくないという。

「読者の方が感想を送ってくれる中で、『私もこころのような経験をしたことがあって…』『わたしも「かがみの孤城」に書いてあったようなことがあって』と言葉にしてくれる人たちがいる。それがすごく嬉しいんです。一つの紋切り型な言葉で切り取るのではなく、複雑なまま伝えようとしたからこそ、各々が小説の中のストーリーに心を添わせてくれた。小説を書いてよかったと感じた瞬間でした」

悩む子どもへ伝えたい「もう闘わなくてもいいよ」

私たちは不登校の子どもの物語に接するとき、無意識のうちに学校へ戻るため闘う親子の姿を連想してしまいがちだ。

だが、辻村さんは小説の中盤、不登校の子どもが通う「心の教室」の教員・喜多嶋先生が主人公の努力を認め、「もう闘わなくてもいいよ」と言葉をかけるシーンを描いた。

当初、このセリフを書く予定はなかった。だが、気付けば喜多嶋先生はこのセリフをつぶやいてた。

「世の中で広く受け入れられている定型の物語では、子どもがトラブルを解消して学校へ戻っていく。学校へ戻ることこそがハッピーエンドで、それ以外の選択肢は残されていないようにすら見える。でも、そうではないですよね。学校に行かないということを選んだ子どもたちも常に闘っています。怠けているわけでは決してない。その中で出てきた言葉が、『もう闘わなくてもいいよ』だったんだと思います」

クラス替えまで「たかが1年」。大人はつい、そんな目線で子どもの悩みを受け止めてしまうかもしれない。

でも、辻村さんは子どもの頃の1年がどれだけ長く感じたか、学校と家を往復する生活の中で学校での悩みがどれだけ深刻に心の中を占めていたかを思い起こすたび、「たかが1年」「たかが学校」とは絶対に言えないと語る。

「いじめた子のことを許さなくてもいいですか?」

学校へ行きたくないと悩む子どもにそう聞かれたら迷わず答える。「許さなくてもいいんだよ」と。

「大人だろうと子どもだろうと、合わない人はどうしてもいます。相手にたとえどんな事情や思いがあったとしても、あなたの尊厳への攻撃は許されることではない。『かがみの孤城』では、主人公のこころが自分を責め続けながらも、相手に対して『許さなくていい。私もあなたを許さないから』と思うシーンがあります。その思いを持てたからこそ、彼女が立ち向かえたものが必ずあったと思っています」