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僕たちは単なる「素材」ですか? もう悲しい物語に足を引っ張られたくはない

東日本大震災から9年、「震災を忘れない」という言葉で発信される情報に疑問を呈す人がいる。

「震災と被災者を『素材』として扱っていいのか。何のための震災報道なのか」

宮城県女川町は東日本大震災による津波で建物の8割が被災し、死者・行方不明者の数は900人を超えた。あの日から9年、女川では、復興へ向けた明るい話題も増えつつある。

地元の老舗企業「蒲鉾本舗高政」の4代目社長・高橋正樹さんは、復興に向けた様々な取り組みを続け、数多くの取材を受けてきた。そのうえで、被災地から見えてくるメディアの報道姿勢に疑問を投げかける。

被災者、被災地は素材ですか?


2019年3月9日に「蒲鉾本舗高政」のTwitterアカウントが投稿したツイートが話題となり、1万7千回以上リツートされた。3月11日に向けて取材を行うメディアの姿勢に疑問を投げかける内容の投稿だ。

3.11に向けて毎年2-3月はたくさん取材依頼が来るが、今年は8割以上お断りした。 まだまだ道半ば系、震災を忘れないで系、困ってます系、こんなはずでは系。 「女川で私はそう思って無いです。取材受けてもいいけど、勝手な構成にしないでね。ナレーションでどうにかするのも無」 大体いなくなる(・ε・

「いやね、毎年同じようなことを投稿してたもんだから、去年あんなに反響をいただいて驚きました」

高橋さんにとって、ここまでの反応があることは予想外だったという。

高橋さんは「被災地の素材化」という言葉で、震災に関する報道に疑問を投げかけている。

メディアは災害時、被害が大きかった地域に人手を割き、より手厚く報道する傾向がある。被害の深刻を伝えることには意義がある一方、報道陣が集中して被災者を取り囲む「メディアスクラム」と呼ばれる現象が起きることにもなる。

一方で、報道関係者が来ないことで被害の状況が外部に適切に伝わらず、支援の手が入るのが遅れて苦しむ地域もある。

女川では震災当時、多くの報道陣が集まった。街が大きな被害を受けたうえ、東北電力の女川原発もあったからだ。その後も取材は続き、今も「3・11」が近づいた際など折々に増える。

高橋さんも一度、取材に応じると、他社からも取材依頼が届くようになったという。

「震災後、それこそ尋常な数じゃない取材を受けてきたんですよ。100とか200とかっていう数ではない」

時には取材のアポをすっぽかされたこともあった。長く密着取材されたものの、その映像がほんの一瞬しか使われなかったこともあった。

「いらないとメディアが判断したら、使われない。そこで強い思いをどれだけ語ったって、取材した人がいらないと判断してしまえば、使われないのが僕らなんですよ。それが例え、どれだけ現実に即していたとしても、です」

「やっぱりね、結局、僕らは素材なんですよ」

震災から時間が経つにつれ、高橋さんの中でこの思いは仮説から確信へと変わっていったという。

強調された町民の「二極化」

高橋さんがもう一つ感じるのは、「思い込みをもとにした取材が増えている」と言う点だという。

「震災から3年目くらいまでは、彼らが言う『ネタ』は、町を歩けば見つけることができたんですよ。土地がかさ上げされて、整えられて、新しい建物が立っていく。でも、そんな状況も4年目から変わってきたんです」

女川で議論の的となっていた震災遺構を残すかどうかという問題を取材をするため、新聞記者がある日、高橋さんのもとを訪ねてきた。

「残す、残さないと町民が二分化して激論を交わしている状態では全くないですよ」。高橋さんはやってきた記者に、まずそう伝えた。

建物を残すか、取り壊すかで激しい対立が起きている実態があるとは、高橋さんには感じられなかった。

町民の気持ちはむしろ、「残すとして崩壊の危険はないのか?」「でも、できることならば残したい」という狭間で揺れていたという。

だが、その後に出た記事の内容は、震災遺構を残すかどうかで意見が割れ、町が二極化しているという「対立の構図」を軸にしたものになっていたという。

「震災の時に、小学生くらいだった女の子が、悲しみを乗り越えて、いま社会的なことをやっているみたいな人っていませんか?」

「何かネタありませんか?」

記者たちからこう尋ねられるたび、不信感が募ったという。

ある取材の過程では、仏壇の前で手を合わせ線香をあげるシーンを演じることを要求された。亡くなった祖父の話を振られて、涙を流した瞬間だけを切り取られたこともある。

「そんな人たちにはね、被災地を語ってほしくはないんですよ。どうせ彼らは、耳目を引くところだけを切り取りますから」

「震災を伝えるってそういうことですか?」

高橋さんはあの日、起きたことを忘れないことは大事だと思っている。そのうえで、「震災を忘れないという手段が目的化してしまっているのではないか」と疑問を投げかける。

震災を忘れないのは重要だ。では一方で、どんな未来を作っていくのか。その視点が抜け落ちてしまった報道が多い、と感じている。

「震災を忘れないという報道を目にした人は『忘れちゃダメだ』と思うかもしれない。でもね、いつか来るであろう災害へ向けて準備を怠ってしまったら、その人は次の災害で命を落としてしまうかもしれない。メディアの皆さん、それでいいんですかって思うんです」

「あなた方の仕事はそれでいいんですか?震災を伝えるってそういうことですか」

「それなのに、なぜ悲しい人ばかりを探したり、演じさせようとするのかっていうのが、わからない。だから、もうやめたの。自分たちの足を引っ張る人の手伝いするのやめようって」

「足を引っ張る」という強い表現の裏には、震災直後から前を向いてきたという思いがある。

阪神淡路大震災の経験が、あの日に生きた

1995年1月17日。阪神淡路大震災の発生当時、高橋さんは横浜市内の大学に通う学生だった。

当時、交際していた女性の実家も被災した。女性の実家とは連絡を取ることができず、家族の無事は不明だった。

居ても立ってもいられず、4日後に被災地に駆けつけた。幸い、家族は無事だった。だが、そのまま帰るわけにもいかず、高橋さんは掃除などボランティアをすることを決めた。

そんな経験が生きる日が訪れた。2011年3月11日、大きな揺れを感じる中で頭の中でフラッシュバックしたのは、阪神淡路大震災直後に必要となった物資だったという。

「高政の初動は早かった」と、女川の多くの人が口にする。背景には、神戸で目にしたもの、耳にしたこと、肌で感じたものの蓄積があった。

そして高橋さんは、東日本大震災で祖父や同級生を失った。

この両方の体験からも、次の震災への備えや地域の将来を考えるといった面よりも「悲しい物語」にスポットライトが当たりがちなことに腹立たしく感じるという。

「『震災を忘れない』ということの先に、果たして何があるか。心を痛めている人も心に傷を抱えている人も、トラウマを抱えている人もいる。前に踏み出せない人だっている。でも、そこばかりを伝えるのは違うんじゃねえかって思うんだ」

このままでは、この町がなくなる

震災後、女川の水産関連企業は48社中44社が営業を断念した。多くの企業が社員を解雇し、失業保険で生活してもらう方向に舵を切った。しかし高橋さんは、正反対のアプローチをとった。

「蒲鉾本舗高政」の震災前の社員数は100人。2011年4月に30人を新しく雇用することと、6月に新工場がオープンすることが決まっていた。震災で大きな打撃を受けても、内定者全員を予定通りに採用した。それまで働いていた非正規雇用の従業員も、希望者は全員、正社員として迎えた。

「幸い、津波の被害は受けなかったけど、地震の影響で2億円ほどの特別損失が出た。新工場も建設中で、このタイミングで人件費を増やすことは企業経営の原則から言ったらNGです。でもね、その原則が本当に正しいのか。企業の義務は雇用と納税でしょう。やるべきことをやっただけです」

営業の再開も急ぎ、工場は4月18日から稼働を再開した。「まずは地元の経済を回さなくては」。その一心だったという。

「無料で蒲鉾を配るだけじゃダメ。なるべく早く営業を再開させて、工場を稼働させて、うちはこの女川で、これからもやっていくんだと旗揚げする必要があったんです。環境が整うのを待っていたら、どんどんと町から人が消えていくのが、目に見えていたから」

「このまま放っておいたら、この町がなくなる。そんな危機感の方が強かったんです」

2006年に発足し、地域リーグを勝ち上がりながらJリーグ加盟を目指してきた地元・女川のサッカークラブ「コバルトーレ女川」(現・東北社会人リーグ1部)の胸には、「高政」のロゴが光る。父の代から、女川とともに生き、地域を元気にしたいというクラブの理念に共感し、スポンサーを続けてきた。

震災の被災地にも、福島第一原発周辺など、ようやく一部で避難指示が解除されたばかりの地域もある。それぞれの地域の実情は異なり、女川でも様々な事情を抱えて生きている人がいる。

そんな状況でも、高橋さんは常に、女川を元気にしていこうと前を向いてきた。高橋さんが仕掛けたものの一つが、2020年2月8日、9日に開かれた「ONAGAWACK」というイベントだ。

人気グループ「BiSH」をはじめとする7組のアーティストを招き、1万5000人以上が女川町を訪れた。イベント参加者のため終電を増発するようJRにもかけ合った。その経済効果は推定で2000万円を超える。

「ONAGAWACK」は全国区のニュースで取り上げられた。しかし、その取り上げられ方は主に、「被災地の復興支援イベント」という角度からのものだった。

「全国区だとまだまだ、女川でやっていることは被災地の復興イベントと言われ続ける。そうやって被災地、被災地と言われ続けているうちは、僕らは被災者なんですよ」

「でもね、俺はこれ、『被災者』としてやってないから」

あらゆる挑戦はすべて、被災地のネガティブなイメージを吹き飛ばすため。そのための「社会実験が僕の趣味です」と高橋さんは笑う。

震災後、女川を訪れる人の前で話をしたり、全国各地で講演をしたりした回数は600回を超えた。

「安易に考えているんじゃねえって思っちゃうんですよ。女川はこんだけ明るい町になってるのに、楽しい街になっているのに、なぜ1年に1回、必要以上に悲しい場所に引き戻されなくちゃいけねえの?10年目の震災報道は、悲しいストーリーばかりでないことを期待します」


あの日、何が起きていたのか。あの日から何を思い、生きてきたのか。

地震や津波、原発事故で負った傷とその再生への過程を丹念に報道する必要はある。だが、それは「震災を忘れない」「復興への道のりは続く」といった紋切り型の言葉に当てはめて、「わかりやすさ」「報じやすさ」を求めたくなるという誘惑と、背中合わせでもある。

それだけに、高橋さんの言葉を淡々と聞き流すことはできなかった。これからも、東北で取材を続けたいと願うからこそ、私は彼の言葉に耳を傾けたい。

その伝え方で本当にいいのか。報じる立場にいる自分が、常に向き合わなくてはいけない問いだ。