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聖火を手に双葉を。故郷を走るあの日の中学3年生の思い

双葉町で育った桜庭梨那さんにとって、原発はあって当たり前の存在だった。東日本大震災から9年、彼女は東京五輪の聖火ランナーに選ばれた。

2020年3月4日。震災後、全町避難が続く双葉町の一部で避難指示が解除された。まだ町内で生活することはできないが、復興へ向けて状況がまた一歩前に進んだ。

「復興五輪」の旗印を掲げ、誘致した東京オリンピックの聖火リレーは福島県双葉郡楢葉町から始まる。

聖火リレーを走る桜庭梨那さん(24)は、双葉町出身だ。

東日本大震災から9年。どのような思いを胸に、福島を走るのか。

あの日、猫を置いて出た

2011年3月11日は中学3年生。その日が中学校の卒業式だった。4月からは地元の双葉高校へと進学することが決まっていた。

友人と町内の飲食店で昼食を食べてから、家族と隣町のカラオケに向かった。ささやかながら卒業を祝うためだ。

だが、その日はカラオケは同じように卒業を祝う人で溢れていた。仕方なく店を出て、車で移動していた時、車内で一斉に携帯の緊急地震速報が鳴り響いた。

直後、大きな揺れが襲った。

何が起きているのかわからないまま、自宅で飼っていた猫の無事を確認するため家に戻った。片付けは翌日すればいい。そう思い祖父母の家へと向かう。

大好きだった猫は置いてきた。まさか、この家に戻らぬまま避難をすることになるとは。震災で一番の心残りだ。

避難先では携帯の待ち受けを大好きな猫の待ち受けにした。

1人、また1人と減っていく友人

祖父母の家のテレビで燃えながら流されている家を見たとき、初めて何かとてつもないことが起きているのだと気付いた。

だが、「そのときは、どこか他人事のように感じていた」と振り返る。

翌朝、避難命令の放送が町中に鳴り響いた。一家は川俣村の避難所に身を寄せた。

「度重なる原発事故のニュースがテレビに流れるたびに、ここにいない方がいいかもしれないと言って、避難所から人が減っていきました」

「テレビを見ていた大人の人が『もうダメだ』と口にしていたのを聞いて、『ああ、もう帰れないのか』って思ったんですよね」

避難所には双葉町の友人の姿もあった。余震で眠れないとき、トランプで遊んで過ごしたり、固まって一緒に眠りについた。

そんな友人たちも1人、また1人と違う場所へと避難をしていく。「めちゃくちゃ寂しかったです。え、もう行っちゃうの?って」。そう桜庭さんは当時を振り返る。

川俣村の避難所に来てから4日後、自分たちも避難所を去った。

「私の居場所はここじゃない」

向かった先は群馬県。祖父の親戚を頼ってたどり着いた。

群馬県では高校1年生の1学期の3ヶ月間だけ過ごした。学校では新しい友人もでき、震災当時の話をすれば涙を流して聞いてくれる人がいた。

避難先でいじめにあった子どものニュースは耳にしていたが、幸い環境には恵まれた。

学校での人間関係に不満はなかったが、「私の居場所はここじゃない」。そんな思いが常にあったという。

震災から数ヶ月後、母親が勤めていた会社が営業を再開することになったため、桜庭さんは母と一緒にいわき市へ戻ることを決める。

母の職場からも自分が通う学校からもほど近い、借り上げ住宅のアパートに入居した。

2学期からはいわき市の高校に編入した。高校には双葉町の友人が数名いた。幼馴染もいたことで、新しい環境に馴染むことはそれほど難しくはなかった。

高校卒業後、一度就職したものの、その後声優の養成所へ。現在はフリーの声優、舞台役者として東京で暮らしている。

2019年に上映された双葉町を舞台にした映画「盆唄」ではアニメーションのパートで声優を務めた。

「自分のやりたいことをやろう」。震災後、以前にも増して思うようになった。幼い頃から憧れてきた芸能界への道を、いまは歩む。

原発はあって当たり前の存在だった

双葉町で育った桜庭さんにとって、東京電力は身近な存在だった。周囲には東電への就職を夢見て、勉強に励む人もいた。

「私たちはずっと、原発は安全だと言われて育ってきました。学校の社会科見学でも原発の見学をしたんです。だから、東電はあって当たり前の存在、特別なものですらなかったんですよ」

学校の避難訓練では、東電社員が学校を訪れ、もしもの際の説明を行った。だが、「そんなことは起きるはずがない」。言い聞かされてきた。

だから、事故が起きたと知ったとき、初めて原発の危険性を知った。放射線による影響がどれほどのものか、知ろうとすらしてこなかった。

「東電で働いている人も周りにはたくさんいました。双葉や大熊でお金のある家は東電で働いている人の家族だったし、エリートが進む道という印象はありましたね。安定した仕事に就くなら公務員か東電か、それほど大きな存在でした」

「東電を恨んでいるか?」と聞かれると、自分の気持ちは正直わからない。だが、恨んでもどうしようもないと今は思う。

あの日以来、誰かが東電で働いていることに触れるのはタブーになった。周囲で暮らす人々も、どこで働いているのか言及する必要がなければ、あえて言葉にすることはない。

聖火を手に、双葉を走る

双葉町の自宅に一時帰宅をしたのは、震災から8年が経過した2019年だった。

家の周り、駅前の風景、商店街…記憶を辿って町を歩いた。懐かしさよりも、記憶と照らし合わせたときの違和感が強く残ったという。

「知っている場所でも道路が直っていなかったり、家が崩れたままのところも。あったはずの道が草木が生えてしまって見えなくなっていたり、まるで違う場所を歩いているような気持ちになりました」

それでも、双葉町の一部で避難指示が解除されたことは素直に嬉しい。

「駅周辺だけだとしても、前に進んでいるんだなって感じたニュースです。まさか、祖父母が生きているうちに避難指示が解除されるとは正直思っていなかったので」

目標は声優の仕事を軌道に乗せることだけではない。いつか、地元のためにもできることを、そう願ってきた。聖火ランナーへの応募も、そんな思いの延長線上にあった。

いわき市の実家に当選を知らせる通知が届いたとき、走れる喜びよりも驚きの方が大きかった。「ちゃんと走れるの?」、走る距離が数百メートルであることを知らない家族には心配されたと笑顔で語る。

同窓会LINEで聖火リレーを走ることを伝えると、友人たちもこの選択を応援してくれた。

3月26日、いよいよ聖火を手に走る。踏みしめるのは、故郷・双葉町の土だ。