東日本大震災の発生から10年が経過した。地震と津波は多くの人の命を奪い。福島第一原子力発電所の事故は多くの人々に避難を強いた。
今も4万人以上が避難を続けている。数えきれないほどの人々の人生が、あの日を境に一変した。
そんな中、思わぬかたちで「自由」を手にした人がいる。
10年前の原発事故がきっかけで、39年に及んだ精神科病院での入院生活にピリオドを打つことになった、伊藤時男さん(70)だ。
なぜこれほど長く入院しなければいけなかったのか。
震災から10年。退院して9年になる伊藤さんは、国を相手どり裁判を闘うことを決めた。
「誰が見ても良くなったら退院できる」信じた父の言葉
伊藤さんは仙台の出身。高校を中退して上京し、東京・蒲田にあった親族の飲食店や川崎のレストランの厨房で働いていた。
初めて精神疾患と診断されたのは、16歳の頃。心身の不調を感じ、父に連れられて都内の病院に入院した。
22歳の時、父の手配で福島県大熊町にある、福島第一原発にほど近い病院に転院。
その後、入院生活は39年に及び、「人生の良い時間をすべて病院で過ごした」と振り返る。
「誰が見ても良くなったら退院できるから」。父の言葉を信じて退院の瞬間を待ち続けながら、長い入院生活を送っていた。
実家は当時、入院先から離れた内陸の福島市にあった。
なぜ入院先を実家の近くで探さなかったのかと尋ねると、伊藤さんは「近くに入院すると、地域の目があるから」とつぶやいた。
父は福島市で会社を経営していた。
精神疾患への根強い偏見があった時代。事業を営む上で、息子が精神科病棟へ入院していることは誰にも知られたくはない「秘密」だった。
実家に近すぎず、遠すぎず。時折会いに行ける距離にあったのが沿岸部の病院だ。
しかし、父が伊藤さんのもとを訪れたのは多いときで年1回程度だったという。
「寂しかったよ」
「でもね、社員一人ひとりの面倒を見ないといけないし。親父は大変だったんだよ。気苦労は絶えないし、俺もそれを思うと無理は言えないなって」
大熊町の病院で入院生活を送る中、父親以外の家族が伊藤さんのもとを訪れることはなかった。
退院を諦めた。唯一の願いすら奪われた長期入院。
入院生活が続く中、養鶏場での院外作業や、病院の厨房での作業に従事した。
早く退院したい。その一心で、「模範的な患者」であるよう努め続けた。
休みの日はソフトボールや散歩をする。だが、どこへ行くにも病院のスタッフが同伴し、自由はなかった。
「普通は食っちゃ寝、食っちゃ寝するんだろうけど。俺は川柳を書いたり、絵を描いたりして過ごしてたんだ」
絵や川柳、エッセイといった趣味に精を出すことだけが、入院生活の楽しみだった。
福島民友や福島民報といった地元紙に、自分が書いた川柳が掲載された回数は数え切れない。
「大熊 伊藤時男」
投稿者の欄に自分の名前が記された掲載紙は必ず切り抜き、ファイルに綴じて大切に保存した。
「入院が長引いたのは病院のせいばっかりでもないんだよな。家族のせいでもあるんだよ」
伊藤さんはしみじみ語る。
病院では当時、退院できるかどうかは家族の意向に大きく左右された。
伊藤さんは幼い頃に実の母親を亡くした。継母とは折り合いが悪く、身元を引き受けてくれることはなかった。
父の死を知らされることもなく、最期に立ち会うことも叶わぬまま、入院生活が延びていった。
「入院中、何人も自殺した人を見てきた。もうこんなところにいるのは嫌だって逃げ出して、常磐線に飛び込んだ人もいたんだよ…」
退院を願い、何度もその願いが打ち破られる中で、伊藤さんも次第に退院を諦めていったという。
「いつか退院できるはずだと、ずっと思っていたんだけど、最後の数年は諦めていました」
「車の免許も持ってないし、何の資格もない。退院したって仕事なんかできない。仕事ができなければ、退院は無理だろうって『施設症』になったんだよ。そのまま病院にいて、人に頼っていた方が楽だからな」
「施設症」とは、入院が長期に及ぶなかで無気力状態になっていくことを指す。
長期入院は、退院したいという意思すら奪っていった。
「震災はラッキーだったな、俺にとってはな」
転機は突然訪れた。2011年3月11日に発生した東日本大震災だ。
入院していた患者たちは避難し、散り散りとなった。
「必要なものを持って逃げろ、って言われて。テレホンカードと手帳、あとはジャンパーと髭剃りを持って逃げたんだ」
伊藤さんは避難所やいわき市の病院などを経由し、茨城県の病院へ転院した。
転院先で治療を受ける中で「これ以上の入院は必要ない」と判断され、退院した。群馬県太田市にあるグループホームに入居した。
「震災はラッキーだったな、俺にとってはな。まさか退院できるとは思わなかったもん」
「辛い思いをした人がいる中で申し訳ない」
そう前置きした上で漏らした本音は、あまりに切実なものだった。
退院し、初めて目にしたATM
「良い思い出もあったけど、嫌なこともあった。もう戻りたいとは思わないな」
退院後、伊藤さんの中に長年暮らした福島へ戻るという選択肢はなかった。
今はグループホームも出て、群馬県太田市で一人暮らしをしている。
アパートの1室を借り、料理や洗濯、身の回りのことは何でも自分でこなす。
週に1回はデイケアへ通う。地域の人々とも交流し、コロナ禍になる前は、たびたび旅行もした。
39年の入院を経て日常生活を取り戻すと、様々なことが変わっていた。
周りを見ると、多くの人は切符を使わず、SUICAやPASMOを使って電車に乗る。銀行へ行くと、ATMに驚いた。
「タイムスリップをしたみたいで最初は驚いたけどさ、馴れれば便利だよ」
今ではすっかり、こんな変化にも適応した。少し自慢げに、伊藤さんは語ってくれた。
「今でも結婚したい」抱き続けた夢。
若い頃から抱いてきたのは結婚し、家庭を持つという夢だった。
「俺が5つの時にお袋が死んだんだ。だから、母親の愛っていうのがわからないんだよな。2番目のお袋とは合わなかったし、本当の母親がいたらな…って何度も思ったんだ」
「だから、誰かと結婚して、幸せな家庭を持ちたいなって思い続けてきたんだよ」
「今でも結婚したい」。伊藤さんは言う。
退院し、一人暮らしをする中でパートナーとなる少し年下の女性と出会った。
アルバムをめくると、パートナーと2人、カラオケでデュエットをして歌う写真があった。
「食事をしたり、話し相手になったりな」
「彼女はな、ちょっと気が強いんだ」
出会いや日々の出来事、喧嘩をした理由まで語ってくれた伊藤さんの表情は、常ににこやかだ。
遅れてきた青春。
伊藤さんは今、失っていたものを取り戻すように、日々を生きている。
「かごの鳥」は今も。なくならない長期入院。
3月1日。伊藤さんは東京地裁にいた。
「精神医療国家賠償請求訴訟」の原告として、第1回口頭弁論の場に立つためだ。
諸外国では1960年以降、精神疾患の患者を施設に収容するのではなく、地域で治療する方針が広がった。
1968年にはWHOによって精神医療の改善や地域でケアする仕組みの整備を求める勧告が日本政府に対し出されたものの、状況は改善していない。
1987年に精神保健法が成立し、患者の社会復帰を促進する方針が打ち出されたものの社会では回復した人々が再び社会で暮らすことに反対する動きが相次いだ。
結果として精神病棟へ収容する施策がとられ続け、今も精神病棟には33万床のベットが並ぶ。
2020年の厚労省の検討部会に提出された資料によれば、公的病院よりも指定病院や非指定病院といった病院で入院期間が長期に及ぶ傾向がある。
約40年におよんだ入院生活は決して特別な事例ではない。今も日本には、精神病棟に長期入院する人々がいる。
原告として立ち上がった今、伊藤さんのもとには多くの賛同者や一緒に裁判を戦いたいと願う精神疾患の当事者たちが集まり始めている。
「長期入院をなくすため努力したい」
「長期入院する人が一人でもなくなればいい」
伊藤さんの裁判は、もはや伊藤さん一人のためだけのものではない。
日本の精神医療のこれまでの歩みを問うこの裁判で、どのような判決が下されるのか。多くの人が固唾を飲んで見守っている。
外に出たい かごの鳥。
毎日えさをついばむ。可哀想だ。しかし、私もかごの鳥。
私も同じ運命。毎日食事をし、いつものスケジュールをこなす。
早くこの病棟から出たい。私もかごの鳥。
私もかごの鳥。外を見る。
小鳥たちは自由に大空を飛び交う。私の夢。
ちょっとでいいから自由に外で遊んでみたい。大空を自由に羽ばたき、小さい人間を上から見下ろしてみたい。
夢、夢、夢。
そんな夢がかなえられたなら、私はもうかごの鳥ではなくなる。ああ夢、ああ夢。
もうちょっと外に出て空気にふれたい。そして山道を歩き、一人で君と共に生き、生活を共にし。
新しい生活。病院にない。
空気を思いっきり吸いたい。
法廷で伊藤さんはひとつの詩を読み上げた。
入院生活が長引く中で、退院を願い書いた詩だ。「夢」と名付けた。
「やっぱり自由がなくて、ちょっと落ち込んでいた時だったんだ」
あまりに長い入院。そして、震災と原発事故により、期せずして「かご」から脱することとなった。
「今は本当に天国だよ。自由だよ。何をやるにも他人にああしろ、こうしろって言われることはないし、自分の好きなことできっから良いなあ」
「ここだったら、自分でしたいことができるし、洗濯したい時に洗濯して。テレビ見たい時にテレビ見て。本当に自由だ。何から何まで自分一人でやれっから」
様々なことを自分で決めることができる自由。40年に渡り、強く望んだものを手にして、次から次へ挑戦したいことが頭に浮かぶ。
「そのうちね、小説を書いてみたいなと思うんだ。精神病棟に40年いた自分のその後のことを書きたいなって」
やりたいことは尽きない。伊藤さんは微笑みながら言う。
「生きているうちは、やっぱり夢がないとな」