初めて彼女の年齢を知った時、嘘かと思った。

野宮真貴さん、57歳。21歳で歌手デビューしてから、36年の間ステージに立ち続けている。
彼女がボーカルを務めた「ピチカート・ファイヴ」は、渋谷系バンドとして大ブレイクを遂げる。ピチカートに加入したのは1989年。29歳のときだった。
1990年の平均初婚年齢は25.9歳。ドラマで描かれる30歳は「おばさん」と呼ばれていた。そんな時代だったにも関わらず、野宮さんは渋谷系のアイコンとして流行の真ん中にいた。

スポットライトを浴びていると、時を止めることができるのだろうか?
「そんなこと、全然ないのよ」
野宮さんは、しなやかに否定する。10月に発売された著書『おしゃれはほどほどでいい』には、「ハリを失った肌」、「シワ」、「老眼鏡」といった文字が並ぶ。
「忍び寄る容姿の衰え」を実感し、ショックを受けたこともあった。それでも、彼女は「案外、今の私は悪くないわ」と笑う。

特別な健康法は実践していない。美容にいいとされる白湯を、彼女は「つまらなくない?」と一蹴する。
なぜ、彼女は「経年変化」を肯定的に捉えられるのだろうか?「人に見られる仕事」をしているとなれば、私たちよりももっとシビアな視線にさらされるはずなのに。
ツヤツヤのロングヘアに違和感を覚えた

――正直、野宮さんの年齢が信じられません。でも、本の中には「年齢による経年変化」について綴られていて。例えば、どんな時に「年齢」を感じましたか?
一番は髪でした。ピチカートのときはずっとショートだったので、40代になって髪を伸ばしてみたら、若いときに伸ばしてた時と感覚が違うんですよね。パサつくし、ツヤがなくなってきたし、髪も細くなってきて。
若さの象徴ってツヤとハリなんですよ。この2つがあると若々しく見える。なので、2週間に一回くらいの頻度で、美容院でトリートメントをしてもらってツヤッツヤにしてたんです。でも、あるとき、ふとガラスに映った自分を見て、艶やかなロングヘアとその中にある顔にギャップを感じたの。
――ギャップ。どういうことでしょうか?
年相応に顔や体も変化しているのに、髪だけは若いときのままツヤツヤにしていると、逆に老けて見える。自分の中にある「まだまだ若い」という気持ちと、肉体の衰えのバランス……。つまり、中身と外見がアンバランスだと思ったんです。とりあえず、髪の毛は切りました(笑)。
――40代は悩んだ時期だと書かれてましたね。やっぱり「40歳」って大きなものなのでしょうか。
うーん……。40歳になった時はあまり実感しませんでした。でも、10年やってきたピチカート・ファイヴも解散した時期でもありました。ピチカートは大きな存在だったので、「これから何を歌っていこう?」とは考えましたね。そこに年齢も重なって、結構悩んだ時代ではありました。
下積み約10年、ブレイクしたのは30歳
――確かに野宮さんと言えば「ピチカート・ファイヴ」のイメージが強いです。29歳で加入されたそうですが、歌手としては少し遅い……のでしょうか?
デビュー自体は21歳のときでした。なかなかオーディションに受からなくて、OLとして働いていたときもあったくらいです。親の手前もあり(笑)。
でもずっとバンド活動はしていたので、5時でタイムカード押して、すぐにスタジオへ行く毎日でした。1年ほど続けていたら、ボーカルの私だけ引き抜かれてデビューすることになったんです。
――デビューして約10年「下積み」だったってことですか?
そうです。デビューしたものの、なかなか売れない。現実は厳しいもので、1年で契約がなくなりました。その後、新しいバンドを組んだのですが、歌一本で生活できるまではいきませんでした。
――卑屈になってしまいそうです……。
卑屈にはならなかったけれど、お金はありませんでした。一番悲しかったのは服が買えなかったことですね。
でも、やめたいとは思いませんでした。CMソングを歌ったり、バックボーカルをしていました。歌の近くにはいようと思っていたんです。
地道に歌の仕事をやっていると、音楽仲間や業界の方との輪が広がっていくんですね。そこで出会ったのが、ピチカート・ファイヴの小西康陽さんでした。
たまたま、バンドのメンバーと小西さんが大学のサークルが一緒だったんですよ。だから遊びに行く感覚で、コーラスとしてレコーディングやライブに参加させてもらって。当時のボーカリストがピチカートを抜けることになったときに、小西さんから「メインで歌わない?」と誘われました。それが29歳。CDは30歳のときに出ました。
チャンスって、自分の好きなものの近くにいると、いつかやって来るんですよね。それを見逃さずにキャッチすると道が開けていく気がします。
モテないなら、やっぱり自分から動かないと。でも…

――すごく失礼な質問ですが、野宮さんはおしゃれで美しくて…。さぞ、男性たちから熱い視線を注がれたのではないかと。
全然(笑)。でも、男の人より音楽とファッションが好きだったから……別にモテなくてもよかった。
男性ってコンサバティブな服が好きな傾向があると思うんですけど、私は派手なデザインが好き。もちろん男性ウケは良くない。でも、考えてみてください。「派手な服を着ているとモテないよ」っていう男性にモテたいですか?
――モテたくないかも……。
でしょう? いいんですよ。無視して(笑)。派手な服が好きな男性には、きっとモテると思うから。そういう方がフィーリングが合うと思いますし。
ファッションは自己表現。いわゆる「男ウケ」に合わせるのは「自分」じゃない気がします。もちろん、若い方は素敵な彼に出会わないといけないから、男性の好きなものに合わせる部分があってもいいと思います。「相手を喜ばせてあげる」のも、お洋服の愉しみ方のひとつですから。でも全部を合わせるのはね…「自分」じゃなくなっちゃいます。
子供を育て上げると、男ウケも気にしなくてよくなってきたりするんですよ。だからこそ好きなファッションを存分に楽しめる。これは、年齢を重ねる醍醐味かもしれまんね。
――結婚願望はなかったのでしょうか?
強くはなかったけれど、結婚や出産は経験してみたいと思っていました。ただ、全然モテなかったので、自分から夫にアプローチしました(笑)。
――野宮さんから……!?
夫は当時、テレビの仕事をしていて、彼の番組のテーマソングとして生まれたのが『東京は夜の七時』だったんです。仕事で出会いました。
全然モテなかったから、こっちから行かないと、そういうことが全く起こらなさそうだと思ったから……私の方から。でも自分から言うのは"しゃく"なので、事が起こるように仕向けた感じです。自分の誕生会に誘って……みたいな。

――その後、36歳のときにご結婚。ピチカートが大ブレイク中だったと思うのですが…。
その歳に出産もしました。遅い方ですよね、36って。しかもバンドとしては一番忙しい時期。ワールドツアーで世界中を飛び回っているときでした。
――不安はなかったのでしょうか? 仕事が絶好調なときに出産。その上で、家庭と仕事は両立できるのか…とか。
そういうのは考えない方がいいです(笑)。「できない」ことにフォーカスするのではなくて、「どうやったらできるか」を考えると、両立って案外できます。例えば、私は両親の近くに引っ越しました。
保育園や家族など、頼れるものは頼っていいんです。それに子どもは意外と自分で育ちますから。つらいと思うと、すべてがつらくなってしまいます。苦労はありますけれど、それを超えるくらい子どもの存在は大きかったです。
あと、私は歌が本当に大好きですが、バンドで自分の人生を犠牲にするつもりもありませんでした。人生は一度切り。仕事が忙しいからと言って、結婚や出産を後回しにしたくなかったんです。
年をとることで、失ったもの。逆に得たもの

――その後、40歳でまたソロに。冒頭でも伺いましたが、なかなか悩んだ時期だったと。
今思えば、40歳もまだ全然若いですけどね。47くらいまでは、体力的にも全然大丈夫なんじゃないでしょうか(笑)。
でも、「老眼」はやっぱりすごくショックでしたね。自分の老化現象を認めざるをえないことですから。50歳になるか、ならないかぐらいのときでした。
でも、小さな文字が見えないのに無理をしても、目が疲れますし、眉間にシワがよっちゃうじゃない? それも困ります。なので、老眼鏡を探しを始めたんですけれど、欲しいもの……素敵なものがなくて。
――確かにおしゃれな老眼鏡って、イメージが湧かないです。
もちろん、おしゃれな人たちは、お気に入りのフレームのレンズを変えたりしているんだけど、もっと気軽に欲しいじゃない?
だからJINSさんに「おしゃれな老眼鏡を作りたいんですけど」って提案しに行ったんです。
――えっ、「自主提案」されたんですか?
そうそう、オフィスに伺いました(笑)。年齢を重ねることをネガティブに考えていくと、寂しくなっちゃうじゃないですか。でも、デザインが可愛ければ、老眼鏡だっておしゃれアイテム。年を取ったからこそ身につけられるモノってあるんですよ。そうすると、年齢を重ねるのも悪くないかなって思えますよね。

年をとって失うものは「肉体的」なこと。逆に「精神面」がすごく楽になる。折り合いの付け方を、50代で学んだのかもしれません。若い時は未来を夢見て、多少無理をしたりするわけですが、年をとると未来のために今を犠牲にしない。「今」を純粋に楽しめるようになりました。
リオ・パラリンピック閉会式を見ていたら、自分の歌が…
――昨年のリオ・パラリンピック閉会式では『東京は夜の七時』が歌われ話題になりました。あれは、事前に連絡が行っていたのでしょうか?
いち視聴者として、純粋に楽しみにしていたのでテレビ中継を見ていたんです。そうしたら「あれ? この曲聞き覚えのある曲だな」と思って。それが『東京は夜の七時』だった(笑)。
閉会式のパフォーマンスが感動的で、そこに自分が歌っていた曲が使われていたのはすごく嬉しかったです。93年に発売されてから、いろんなアレンジをしてずっと大切に歌い継いできた。ソロでライブをするときにも一番最初か最後に歌っていて。私にとって特別な曲なんです。夫と出会ったきっかけでもありますし(笑)。
地道に歌いつづけてきたからこそ、閉会式のプロデュースをした椎名林檎さんが、あの曲をピックアップしてくださったのかもしれません。
――東京オリンピックには、『東京は夜の七時』がぴったり合いそうです。
3年後ですね。私はちょうど還暦を迎えるんです。その時に東京オリンピックの舞台で、『東京は夜の七時』を歌いたいなって思っています。60歳になっても、渋谷系を歌い続けていたい。

取材後、彼女がプロデュースしたメガネを見せてもらうと、可愛らしいデザインに思わず「欲しい!」とつぶやいた私に、野宮さんは笑いながらこう言った。
「ダメよ。これが似合うようになりたいなら、早く年を取りなさい」