大火事の後にわかった意外な現実――15歳の息子が問いかける疑問。父・辻仁成が出した答え

    作家・辻仁成。2002年にパリに移住してからまもなく18年になる。この地で子供が生まれ、離婚も経験した。現在はシングルファザーとして奮闘する毎日だ。そんな中、街のシンボルであるノートルダム大聖堂が火事に見舞われた――。


    久しぶりに故郷の近くに来た朝だった。出張だったため、あまり時間は作れない。それでも少しは親孝行したいと、なんとか時間を作って滞在最終日に母と朝食をとった。

    携帯がうるさく震えた。

    「大丈夫?」「大変なことが起きた」と友人たちからメッセージが来ていた。煙にまみれた写真や映像も送られてくる。

    テロか――。

    最初はそう思った。見慣れた街のシンボルから煙がたち、悲痛な声が聞こえてくるかのようだ。

    友だちから連絡あり、ノートルダム寺院が火事になり、ほぼ全焼だそうです。856歳でした。塔の先端が崩れた時の映像です。ずっと改修工事中だったからね、なんかが引火したんだろうけど、残念すぎますね。修復に20年かかるそうです。フランスは悲しみに包まれているみたい。まだ、燃え続けけています。

    作家、辻仁成。2002年に日本を離れ、現在では息子と2人でパリに暮らす。ノートルダム大聖堂が火災に見舞われた日、辻は単身、福岡に戻っていた。すぐに息子の身の安全を確認し、大急ぎで自宅のあるパリへ飛んだ。

    テロかもしれない。パリで実際に起きていたこと

    当初、大きな喪失感を覚えた。ノートルダム大聖堂は地縁のない場所で幼い息子と暮らすことになった辻にとって、自分たちを見守ってくれるような存在だったからだ。

    広いパリの中でも、最初に暮らした家はノートルダム大聖堂の近所だった。時間ができると散歩をし、ギターを抱えて大聖堂の下で歌を歌ったり。パリにはいろんな宗教の人が暮らすが、信仰に関係なく心の拠り所。「素通りしない、一度立ち止まる場所」。

    火災から3日後、日本のメディアから現地の声を聞かせてほしいとの連絡を受けたこともあり、ノートルダム大聖堂へ赴いた。馴染みのカフェで店員と話をする。

    火災直後は、道がいっぱいになり動きが取れないほどのフランス人が押し寄せたらしい。それくらい、ノートルダム大聖堂の被害は心配されたのだ。集まった人々は、煙に包まれた大聖堂を仰ぎ、涙を流しながらカトリックの賛美歌を歌っていた。

    ノートルダム大聖堂の近くに位置するサンシュルピス教会が、その一週間前に放火されたばかりだった。まさかノートルダムも……? 住民の間では、そんな意見もあった。辻自身が、火災の報道を見た時テロを疑ったのはそのためだ。

    ニュースでは再建には50年ほどの時間を要すると報道されていた。もう、自分が生きている間に大聖堂は拝めないかもしれない。悲惨な光景を覚悟した。

    喪失の後に見た、不謹慎とは呼ぶことのできない光景

    近くまで来ると、想像とは違う現実があった。

    「焼け落ちた尖塔がないので、多少は違和感がある。でも地上から見上げたときに、その箇所はほとんど見えないんです。石で造られた外観はほとんど変わらず、黒い煤(すす)に汚れているわけでもない。人間から見ると、工事中だった今までの姿と変わってなかった」

    それだけではない。室内は真っ黒に焼け焦げたが、十字架は無事だった。また、尖塔の取り付けられていた風見鶏の像が焼け跡から見つかった。

    いくつもの偶然が重なり、立ち続ける姿には、悲壮感ではないものを感じた。

    「凛々しい佇まいに変化はなく、再建へ向けて新たなノートルダム大聖堂の姿が見える気がしたことに、僕はある種の希望を感じとることさえできたのだ」

    「僕の横にいるカップルはポーズを決めて写真撮影を繰り返していた。その口元には笑みが浮かんでさえいた。それを不謹慎と呼ぶことのできない、穏やかな時間がそこにはあった」

    ――DesignStories

    ふと思い出した。2011年3月13日。東日本大震災の翌々日に、ノートルダム大聖堂では追悼のミサが開かれ3000人の人が集まった。

    「このミサは、僕たち在仏日本人にとって励みになったんです。パリの人たちが東北の人のために祈りを捧げている姿は、言葉を通り越して素晴らしいことだった。本当はすぐにでも日本に飛んでいきたいけれど、できない。その気持ちの救いにもなったんです」

    異邦人として暮らしてきた18年

    もうひとつ胸が痛くなる存在がいる。15歳になる息子だ。

    「僕にとってフランスは外国。でも息子にとっては自分の国。幼少期からカトリックの学校に通い、喪失感は大きい」

    辻は仕事のため、度々日本に訪れる。その都度、学校の同級生の家庭で過ごさせてもらってきた。火災当日も、まさに「友人宅に宿泊している」ときだった。

    「離婚した直後、きっと僕はひどい顔をしていたでしょう。料理もできないのに、小さな息子と二人でどうやって生きていこうかと考えた。毎晩、ハンバーガーを食べて過ごした。今でもその味はいちばん美味いけれど」

    「そういう時、息子の友人家族は優しく接してくれた。今は身長が175センチにもなって、もう十分大人に見えるようになったけれど、パリの人々に助けられた証だと思う。家族のようなパリの人々に対して何かできないかと思ったんですよね」

    もっと古くの記憶が頭に浮かぶ。

    「在仏日本人」であった辻は、小さな子どもを抱えて、滞在許可証を求めて行列に並ばなくてはいけなかった。炎天下の真夏、蒸し暑い部屋に6時間。それを毎年繰り返し、なんとか生活が許された。今でこそ、毎年の過酷な行事はなくなり、「下手だ」と自嘲するもののフランス語も話せるようになった。制度こそ厳しかったが、パリの人々は温かかった。

    在仏の日本人として何かしたい。自分ができることとして、チャリティーコンサートを6月に開くことに決めた。

    とはいえ、在留邦人の身。加えてフランスは芸術を重んじるため、コンサートは「個人」で興行できない。幸い、現地での興行権利を持つAmuseLantis Europe S.A.S.の協力が得られ、実現へ向けて踏み出している。とはいえ時間はない。

    告知ポスター、チケット、出演者へのオファー、フライヤーを作っては、店の隅に置かせてもらう。タスクは多い。人を集めなくてはならない。

    「いてもたってもいられない気持ちをどうにかしたい。在仏日本人、フランス人たちが集まり、祈れる居場所になればいい」

    15歳の息子が問いかけること

    10月には、渋谷のオーチャードホールでライブを開催する。そこでも寄付金を集めたいと話す。しかし、辻は複雑そうに笑う。

    「実は、息子は反対しているんです。もちろん、僕の気持ちは理解してくれているものの、寄付とは何かと問いかける」

    パリのシンボルである大聖堂が火災に見舞われ、国内外から多額の寄付金が集まっている。特に現地の財団や企業は、100億円単位で修繕費用を捻出したという。一社だけでなく、多くの企業が多額の資金を投入する。ノートルダムへの畏敬の念の表れとして、希望を与えた側面もある。

    それは格差を表していると息子は話した。

    「今、フランスでは労働者階級の間では自動車税の値上げを発端に黄色いベストを着たデモが毎週起きています。もう20週を超えた。暴動のようなデモに対して賛否両論があるものの、死活問題なんです」

    「一方で、大企業が巨額の資金を大聖堂に注ぐ。寄付金は、貧しく戦っている労働者に分配されず、権威的な建物に届く。自分たちの信仰心の厚さを誇示するような寄付金に見え、まるで大聖堂が広告塔のようだ……って」

    声が温かく揺れる。

    学校ではこのような会話を友人としているようだ。垂れ流される情報を鵜呑みにするのではなく、ひとりのフランス人として臆せず異論をぶつける様を見て、少し嬉しさを覚えたのだろう。

    「世話になったこの国の人たちの涙を見て、ハンカチをださないのはおかしいだろう? 特にノートルダムの近くに住んでは励まされた時期もあった。きみが育った国だ。お金を寄付するのが第一ではなく、在仏の日本人、それからノートルダムで震災が起きたときに応援してくれたフランス人に心に寄り添うことをしたいんだよって話をしたら、納得してくれました」

    「彼は在仏日本人ではなく、フランス人だから。辻家の中では2つの見方がある。でも最終的にあいつも手伝わせますけれどね(笑)」

    この10数年で、パリではテロや大規模なデモが起き、宗教観も政治システムも変わってきた。日本から移住し、シングルファザーとして息子を育て続ける辻の眼には、大聖堂の火災はどう映ったのか。

    「パリで暮らしてもうすぐ18年。パリには電柱も高層ビルもなく、石畳の道と古い建物とノートルダム大聖堂が有り続ける。100年前、200年前、300年前に生きていた人が見上げていた景色と変わらない」

    「ただ、人だけが入れ替わっている。秋になるとセーヌ川に葉が落ちて、川全体が赤く染まります。これは毎年繰り返される同じ風景。人間はそこに流れる1枚の落ち葉。青く美しく生き、赤い葉になって朽ち、川を流れ海まで運ばれる」

    限られた時間を精一杯生き抜くことが人間の仕事。姿が変わらないパリの街で気がついた。