大学コンプレックスを昇華させたのは、意外なきっかけだった

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大学コンプレックスを昇華させたのは、意外なきっかけだった

18歳の時、夢を諦めた人は少なくないだろう。

大学受験。彼女は美大に進学することを諦めた。

「自分は天才ではない。これを見て感動する人はいないだろう。こんなもんだよね、私って」

自分の絵を見てそう思った。

市原えつこ。大根にセンサーをつけて喘ぎ声を出して「日本の性信仰」を表現したり、Pepperに死者の痕跡をインストールさせる『デジタル・シャーマンプロジェクト』を立ち上げたり。テクノロジーを使った作品を生み出してきた、メディアアーティストだ。

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性や弔いなど、生々しいものを親しみやすい形で表現する作品は、たびたびメディアにとりあげられる。国際的なメディアアートの祭典『アルス・エレクトロニカ』で栄誉賞を受賞した実績も持つ。

そんな彼女は、アートを学ぶ王道「美大」を卒業していない。文系大学を経て、IT企業で働きながら創作活動を続けてきた。

学生の頃は「美大に行かなかった私はクリエーターにはなれない」と思い込み、絶望もした。しかし、このコンプレックスはいつしか消えていた。

彼女を変えたのは「納期」という概念だった。

アート業界に進んでも、食べていけないし

高校時代は美術系の予備校に通い、デッサンをする毎日だった。

偶然、参加したワークショップでアートディレクターに出会い、プロの仕事現場にペインターとして呼ばれるようになった。高校生ながら、最前線で活躍するクリエイターに見出される。順風満帆だった。

でも、目の前に映る現実の衝撃は大きかった。

「プロと作品をつくると、自分の才能のなさを実感したし、労働環境も過酷に見えました。 カリスマ性のあるクリエーターの下で、何日も徹夜をしたり、独特の閉じた人間関係を垣間見たり。感性至上主義的な価値観にも水が合わず。違和感を覚えて、夢を見る前に現実を見た感じです」

ふと芽生えた猜疑心から、村上隆の『芸術起業論』を手にとった。

「正直、トラウマになるレベルでショックを受けた」と苦笑する。そこに書いてあったのは、美術業界の癒着体質だったからだ。

「美大に入学して、実社会とは隔離された画壇に入り、再びアカデミックな世界に組み込まれて、狭い業界で回る美術の世界に不信感を持ちました。私にはそこに人生をかけるほど熱量もないし、才能もない。もう少し一般的な社会に接続できる方がいいなと思ってしまった」

大人たちは「あなたはアーティストに向いている」と言ってくる。安易に夢を見させないでほしい。高校生ながらに思った。

美しさを追求するためなら、手が壊れるまで筆を動かす。理不尽な労働環境も厭わない。何よりも表現することが大事なのだから。

アートの道に進む人は、きっとこういう感性を持ち合わせているのだろう。自分は、おもしろいことは好きだけれど、もう少し合理的で現実的な生き方がいい。だって、食べていけなさそうだから。

たしかにアートは好きだけれど、プレイヤーではなくてサポートする方が向いているのでは? 単純に偏差値の高い大学に入った方が「潰し」が利くような気もした。

合格の判をもらった美大には、結局進学しなかった。

「お前は現実を見て、夢から逃げ出したんだよ」

でも、東京の文系大学に進学すると、「間違ったところに来てしまった」と思った。

何かを極めることよりも、コミュニケーションこそが最も大事にされていた。サークルに居場所を求め、駅前のロータリーで騒ぎ、代表をはやしたてる人間関係。映画、絵画......表現に関わるサークルを探してみても、結局どこも似たり寄ったりだった。

居心地が悪かった。そして痛感する。今、目に映るのは、作り手の道を諦めた世界だった。美大に行っていたら、違ったかもしれない。ブログに、自己嫌悪の文章をひたすら綴った。

「私は一体何をしたいのか?」

「自分は一生鑑賞者のままなのか?」

「お前は現実を見て夢から逃げた」

どうにか軌道修正しなくてはいけない。焦燥にかられ、デザイン系の本を読み漁り、大学の PCルームでAdobeのソフトに連日張りついた。あがくしかなかった。

大根を喘がせたら、はじまった

それから1年後、授業で出会ったメディアアートで、世界が変わった。

CGや人工知能など、テクノロジーを駆使するメディアアートは、企業の研究機関や組織、大学など、さまざまなバックグラウンドを持つ人たちが協力して作品をつくりあげる。

かつて猜疑心を覚えた「閉じた世界」とは違うものに見えた。

「すべてを自分で作るのではなく、おもしろい企画を持っていればコラボレイターとして作品をつくっていける。メディアアーティストの教授から一連の流れを教わって、目からウロコが落ちました」

プログラミングや、エンジニアリングスキルがなくてもいい。手を動かすだけがアウトプットではない。才能を持った人たちのスキルを集めて作品をつくることもできる。絶対的な才能が必要だと思っていた創作のハードルは、案外低いのかもしれない。

大学4年生の時、技術者の先輩の協力を得て完成させたのが、触ると喘ぐ大根「セクハラ・インターフェース」だった。

偶然訪れた神社で、日本古来からある性器崇拝に興味を持ったのが、創作のきっかけだ。

テクノロジーを使って日本独特の性文化を昇華したくなった。女性が若さや外見を性的に搾取される風潮に対するアンチ的な思想も、ほんの少しこめた。

作品を生み出しても「自分の作品では食べていけるはずがない」という意識は変わらず、就職活動をはじめた。

アーティストとして活動していくためには、美大に入り、人脈を作り、コンペに出し、評価されてこそ成り立つものだと思っていたからだ。

「自分がやっていることはただの道楽。社会に出たら足を洗おう」

就職して消えた美大コンプ

結局、IT企業のWebデザイナーに内定した。過酷な現場だったらどうしよう。不安もあったが、驚きが勝った。会社は、高校生の時に見たクリエイティブの現場とは異なり、クリーンで合理的な環境だったのだ。何より、業務としてスマホアプリやWebサイトを制作するうちに、クリエイターに対するコンプレックスは自然と解消されていた。

筆ではなく、PCを動かす。自分の人生において必要不可欠だと思っていた「モノを作っている感覚」があった。

会社を見渡すと、美大や理系卒の企画職もいれば、文系卒のプログラマーもいる。それぞれの出自を活かしたアウトプットをしていけばいいだけ。いつの間にか気づいていた。

会社の一員として生きるのも、いい選択だ。そう感じる一方、大学時代に少しだけ切り開いたメディアアートの世界から、距離が遠くなっていた。

けれども、きっかけは突然やってきた。社会人になってから1年が経とうとしている時、開発ユニット「AR三兄弟」の川田十夢さんが主催するイベント「AR忘年会」への出演オファーが来たのだ。

卒業以来、触れていなかった作品を急いでアップデートしてイベントにのぞむ。大根を撫でると出る、艶っぽい声は喝采を浴びた。

「せっかく、いい作品をつくったのだから、これからも創作活動を続けてください」

川田さんは笑いながらそう言った。初めて人前で自分の作品が受け入れられる。この快感は、今まで感じたことがなかった。道が見えた気がした。

会社員の経験は、もしかして強い...?

AR忘年会を皮切りに、イベントの登壇やメディア出演、作品の展示に声をかけられるようになった。怖気づくことはない。才能の有無を気にするよりも、義務感が勝っていたからだ。

「やるしかない。仕事として依頼が来るならば、顧客満足度をあげて、おもしろいものをつくらなければ」

これは、デザイナーとして仕事をこなしていたからこそ身についた感覚だった。

「日々納期が迫るから、計画的に進めていかないと。大事な納期に遅れたら、損害賠償だってありえます。自分に自信があろうがなかろうがやる。一見、圧がすごそうですけれど、私の場合はウジウジ悩むことが減って健全な気持ちになりました」

考え方だけでなく、社会人経験は「アーティストとしての資金調達や収入」にも役立った。助成事業への申請やコンペティションの場では、プレゼンや資料作りのスキルが活きる。作品を売るだけがアーティストの稼ぎではない。

アーティストという職業は、専門職に過ぎない

Webデザイナーとして働きながら、副業として創作活動を5年間続けた。

「仕事はそれなりに楽しいし、やりがいもあった。でも、課題解決のためにモノを作るデザイナーとして突出した才能は自分にはないなと数年やって悟りました(笑)。このまま中途半端に会社にぶらさがっているのも良くないと思うようになったんです」

高校生の時から抱いていた「アートでは食べていけない」という固定観念は、多くのメディアアーティストの生活を知っていても、足踏みさせる力があった。

「たまたま見てもらった占い師に『早く会社をやめるべき。そうでないと足を骨折する』と 言われまして。その1ヶ月後に本当に会社で足を折ってしまったので、これは従うしかない なと」

これまで現実的な選択をしてきた彼女だが、占いをきっかけに会社を退職した。何かに背中を押して欲しかったのかもしれない。

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アーティストとしてメディアで取り上げられることもあるものの、フリーランスは定期的に 給料が振り込まれてくるわけではない。独立してしばらくは、Webサイトのデザインや執筆 などが主な収入源だった。

「純粋な作家というよりは、あくまでいちフリーランスという自己認識です。アーティスト としての収益がしっかりできてきたのは、独立してから半年後くらいですし」

会社をやめて2年が経った2018年。会社員時代につくった『デジタル・シャーマンプロジェクト』が、オーストリアで開かれる「アルス・エレクトロニカ」で栄誉賞を得た。これは会社でPepperのアプリ開発の機会を得たことから生まれた作品でもある。

「アルス・エレクトロニカ」に初めてエントリーしたのは学生最後の年。箸にも棒にもかからず「雲の上にある永遠に超えられない天空城」のような存在だった。それから7年。遠回りにも見えた社会人経験は、いつしかアートの道につながっていた。

「時代的にも、閉じていたものが開いた7年間だったように思えます。美大に行かなくても、いろんなノウハウや技術がオープンソースになってきたし、SNSを介して会いたい人にも出会える。昔、自分が訝しく思ってしまった無責任に夢を見させる大人みたいな発言ですけれど、やりたいことはルートにとらわれず、続けた方がいいんだなぁって」

かつてアーティストという職業は、才能がないとなれない特殊なものだと思っていた。でも、今ではデザイナーやエンジニアのように、ひとつの専門職にすぎないこともわかった。

制作資金が足りなければ、受注の仕事をすればいい。かつて思い込んでいたよりも、アー ティストに対する社会の要請は多かった。

高校生の時に、一度諦めたアートの世界。進んでみると、邪道も王道も関係なく、ただ道があるだけだった。

「私、7月末に30歳になるんです。なんだかずっと修行してきた感じがして、20代のラスト一週間は、娯楽に費やそうと思っています。何をするかですか?......漫喫にこもるとか、ジャンクなものを食べまくるとか」

たまには、納期を忘れてみたい。

メディアアーティストの寄り道は、いまも続いている。

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