CHEMISTRYが明かす 壮絶なデビューの舞台裏

    「俺ら、オーディションでしか人前で歌ったことがないのに、6万人の前で何ができるの?」

    時代の寵児は、どんな生活を送るのか? きっと、さぞ華やかに違いない。

    ハンパな夢のひとカケラがふいに誰かを傷つけていく
    臆病な僕たちは目を閉じて離れた
    キミに言いそびれたことが ポケットの中にまだ残ってる
    指先に触れては感じる 懐かしい痛みが

    Sony Music Entertainment(Japan)Inc. / Via amazon.co.jp

    川畑の独特なサングラスのかけ方(通称:ブラサン)を真似する人も多かった。

    カラオケに行くと、誰かが絶対にCHEMISTRYの曲を歌った。

    デビュー曲『PIECES OF A DREAM』はミリオンセールスを記録し、ファーストアルバムは300万枚以上も売り上げた。なぜ、実績のない新人アーティストがこれだけのヒットを生むことができたのだろうか?

    それは、オーディションが「伝説だった」とまで言われるからだ。あれから18年経った今、2人に話を聞いた。

    「社会現象を起こしている中にいるってどんな感じなのですか?」

    「伝説のオーディション」舞台裏 給料を前借りして受けた

    Jun Tsuboike / BuzzFeed

    左:堂珍嘉邦 右:川畑要

    モーニング娘。や鈴木亜美を輩出し、人気を博していた番組が「20世紀最後」に始めたのが「ASAYAN・男子ヴォーカリストオーディション」だった。

    会場で歌を披露し、審査される様子がテレビで流される。その大阪会場にいたのが、川畑と堂珍だ。

    テレビ局に電話をしたら『東京ではやらない』と言われたので、大阪に飛んでいきました。当時、建築現場で働いていたので、給料を前借りして会場に行ったんです」(川畑)

    オーディションが盛り上がらなければ、続けられないし。僕も最初に藁をもつかむ思いで、大阪に行きました。広島から」(堂珍)

    しかし、オーディションは想定以上に盛り上がり、応募者は約2万人に膨れ上がった。そのため、急遽東京でのオーディションが開かれることになった。東京に住んでいる川畑は、いてもたってもいられなくなり、会場を覗きに行ったそうだ。

    「受けてる僕らも、テレビで進行具合を知るって感じでしたね。東京オーディションを見に行くと、8000人くらい人がいた。『すげー人いるじゃん!』と圧倒されてしまって、すぐに帰りました(笑)」(川畑)

    2万人の中から次の審査に進めたのは、たったの5人。連絡は半年間来なかった。

    1次審査から半年過ぎたくらいに番組から成城学園前に来てと言われて。そこにいたのが嘉邦でした。『お前はいると思ってた』って言われましたね」(川畑)

    堂珍もオーディションの様子をテレビで見ていたのだ。そこで目についたのが川畑だった。

    大阪の様子をテレビで見て『こいつは残るな』と、なんとなく思っていたんです。みんなライバルじゃないですか。だから見る。自分は絶対受かるって信じてたけど」(堂珍)

    朝から晩までカメラに映される、壮絶な「合宿」

    「成城学園前で『次は2週間の山中湖合宿』ってことと、『このオーディションが、デュオを選ぶもの』だということを聞かされました」

    確かに「ASAYAN・男子ヴォーカリストオーディション」というタイトルから、デュオを連想するのはなかなか難しい。ソロデビューを夢見ていた応募者たちは、愕然とした。それだけではない、2週間の休暇はすぐには取れない。

    有無を言わさずって感じでしたね(笑)。そのタイミングで仕事をやめました」(川畑)

    山中湖合宿に呼ばれた5人で、全通りの組み合わせでデュオを組み、パフォーマンスを披露。視聴者投票も設けられたリアリティーショーのような試験だった。

    朝起きた瞬間から、トイレに行く時までカメラは応募者を追う。当然、疲労の顔も口論する様子もすべてがテレビで放映された。

    朝起きた時に、自室にあるカメラを回すところから始まるんですけど、嫌すぎていつも背中を向けてました」(川畑)

    「体力的にもかなり厳しかったです。全通りのデュオをやるので、一人8曲完成させないといけない。各組み合わせで、歌の割り振りやハーモニーも全部考えてくれって言われて。自分のエゴと歩み寄りとで、折り合いを付けるために全員が2週間歌いっぱなしでした」(堂珍)

    川畑と堂珍は、ほぼ素人。カラオケで歌いこみ、オーディションの駒を進めていたのだ。中には当然、音楽経験者もいる。すると、どういうことが起きるのか?

    カメラの前にも関わらず、互いの意見をぶつけ合う姿は、視聴者に衝撃を与えた。「テレビでここまでやるんだ」というような。

    「当時、17歳ですでにライブもしていた音楽経験者もいた。だからなのか、圧がすごくてみんなピリピリしてましたね。僕はカメラの前でも顔や言葉に感情が出ちゃうタイプだったので(笑)」(川畑)

    マイク2本とカメラが用意された民宿の一室で、朝から晩まで歌い続けた2週間だった。その後、大阪でライブを開催。合宿の成果を客の前で披露した。川畑と堂珍にとって、これが初めてのライブになった。

    視聴者の投票では堂珍が圧倒的な人気を誇った。川畑はその様子を見て落胆することもあったが、最終的に「2人の化学反応を見てみたい」という理由で、合格を手にした。2001年1月1日のことだ。

    なお、山中湖合宿に参加したメンバーは、その後全員がメジャーデビューを果たす。誰が合格してもおかしくない。拮抗した実力がそこにはあった。

    「俺ら、オーディションでしか人前で歌ったことがないのに、6万人の前で何ができるの?」

    かくして、デビューを勝ち取った2人は、どんな思いで毎日を過ごしていたのだろうか。

    「生活が一気にきらめいたのでは?」

    不躾な質問をぶつけてみると、あっさりと否定された。

    「怖かったですね…。段階を踏みたかった。売れることは本当に良いことなんですけど、そこに自分たちが追いつけてない感覚でした。ラジオにテレビ、地方もキャンペーンで回って、自分がどこにいるのかわからない。この流れから落ちないようにという感覚でした」(川畑)

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    それまで音楽経験のなかった2人は、ある日を境に「実力派シンガー」になった。当然、多くの人たちは、彼らの美しい化学反応を期待する。

    「毎日、宝くじがあたって、ありえないことが起こる」日々を過ごしていた中で、最も印象的だったことはなんだろうか? 2人が声を揃えて挙げたのが日韓ワールドカップだった。

    Stu Forster / Getty Images

    「一番の不安要素は、ライブ経験がなかったことです。初のツアー前にステージに立ったのが日韓W杯の開会式と閉会式だったんです。ライブ経験がないのに、CHEMISTRYとして初めての生舞台が6万人の前という…」(堂珍)

    「俺ら、オーディションでしか人前で歌ったことがないのに、6万人の前で何ができるの?」(堂珍)

    華やかさに酔いしれる時間などなかった。彼らの言葉からは、そんな当時が伺える。ただ、その瞬間こそ悩みもしたが、後々音楽を続ける上で大きな喜びとなる景色も見たという。

    「プレッシャーに潰されそうになっていたのですが、色んな国の人たちが自分たちの歌を笑顔で聴いてくれるのは嬉しかったですね」(堂珍)

    「当時は、日本の音楽は韓国のラジオで流せなかったんですけれど、日韓でコラボした『Let's Get Together Now』がきっかけになったそうです。はじめて日本人の歌声が韓国のラジオで流れた、という話も聞きました」(堂珍)

    (P)2002 Defstar Records Inc. / Via amazon.co.jp

    音楽は、過去の禍根を解かす力があるのかもしれない。可能性も目の当たりにした。

    何かに近づくために歩いたのか、遠ざかるために歩いていくのか

    ふと思ったはずだ。「最近、CHEMISTRYって見ない気がする」と。彼らは2012年に活動休止の道を選んでいた。

    驚異的なCDセールス、紅白出場、ワールドカップでのライブパフォーマンス。ヒット作を生むプロデューサーを迎え売れる曲を歌っていく。本人たちも「自分たちは恵まれた環境にいた」と言う。けれども、なぜソロ活動に専念することにしたのか?

    「このままだと、見てる世界が狭い気がしたんです。イチから自分で作った先に見える世界も見てみたい」(堂珍)

    2012年、CHEMISTRYは活動を休止した。もともと、ソロデビューを志した2人。好きな音楽も性格も違かった。オーディションの途中で「デュオの結成」を知った経緯もある。

    2人を発掘したプロデューサー松尾潔は、「CHEMISTRYは"2人"のものだけれど、各々が個として歌えることが強み」と、デビュー前に語ったという。

    「そんな2人だから、いつかソロをやるのは最初から思っていました。それは絶対だと」(川畑)

    こうして、川畑と堂珍は全く異なるソロ活動の道を歩み始めた。前者はダンスミュージックと後者はアート・ロックというように。そうでなければ、きっと化学反応は起きなかった。

    「活動再開しよう」とメールを送るも、堂珍からは1週間返事が来なかった

    Jun Tsuboike / BuzzFeed

    2015年のはじめ、川畑は堂珍にメールを送る。結成15周年を迎え、そろそろCHEMISTRYを再始動したいと思ったからだ。しかし、堂珍からは返事がなかなか来なかった。

    淡々とした堂珍と、熱い思いを吐露する川畑の佇まいは本当に対照的だ。しかし、CHEMISTRYに対する考え方は同じだった。

    再始動すると言っても、再びかつてのように活躍できる確証はない。デビュー当時22歳だった彼らも、38歳になっていた。

    流動性の激しい音楽業界。不安はなかったのだろうか? かつて「一度背を向けたら二度とは戻れない場所なんだと知っていたら」と歌っていた2人だ。

    「一発目のライブは怖かったですよ。僕らだけが盛り上がってて、蓋を開けてみたらお客さん全然いなかったらどうしよう。怖いですよね。5年もの時間を経て戻ったとして、『おかえり』って言ってもらえるものなのか、と」(川畑)

    ライブチケットは即日完売。ファンからは「2人の歌が、以前よりももっと美しくなって驚いてしまった」との声もあがる。

    「以前よりもパワーアップした」ことは、2人も実感しているようだ。その秘訣は、年齢を重ねたからだけでなく、互いに自分の歌を突き詰めるソロワークがあるからだと断言する。

    「ソロを止めるとケミはできない。ケミだけになったら、違う欲求がでてくるので。ソロでやりたいことを突き詰めて、ケミを伸ばす。嘉邦とはそれができるから、いいんじゃないかな」(川畑)

    「ケミだから立てる舞台もあるし、ソロだからできることもある。メジャーとインディー。両方を行き来できる。これがある意味、夢だったのかもしれないですね」(堂珍)

    SMAR / Via amzn.asia

    11月15日に発売された『Windy / ユメノツヅキ』

    6年ぶりの新曲は、松尾潔が作詞を担当する。デビュー曲を手掛けた彼は2人にこんな歌詞を送っている。

    二度目の出会いは偶然じゃない。ボクはキミをさがしてたんだ(中略)
    もう一度 あの場所からはじめよう。夢の続き ふたりで見よう

    「夢のカケラは今どうしてる?」という答えは、デビューから16年たった今、実を結んだようだ。