このまま朝が来なけりゃいいのに
うずくまってる真っ暗な布団の中で
またあいつとあいつをぶん殴ってやった
それでも変わらない生活に
一生のお願いとか使えたなら
この先を僕じゃない誰かに変えて
誰しも一度は、こんな夜を過ごしたことがあるんじゃないだろうか?
10代から熱烈な支持を受ける23歳のシンガーソングライター、あいみょん。Tik Tokで使われ、弾き語り動画が数多くアップされる彼女の音楽には、いつもこんな言葉が寄せられる。
「自分のことを歌われた気がした」「胸をえぐられる」「泣いた」
あいみょんの歌詞は、いつも剥き出しの内面が表れる。
冒頭の楽曲『風のささやき』は、19歳で単身上京した際に作った。歌詞には「あいつをぶん殴ってやった」「頑張れなんて言うなよ クソが」と、叫びのような言葉が並ぶ。
頭に浮かべることはあるけれど、そんな感情は他人に知られたくないはずだ。人の目を気にせず、さらけだせるのはなぜなのか? 大きなきっかけは、高校時代にあった。
「学校が嫌いで、一回高校やめているので。はい。あはは」
いじめられてるわけじゃない。反抗したかったわけでもない。でも、教室にいたくなかった。
学校に行っても保健室にばかりいる。「出席日数が足りません」と家に電話がかかってくる。クラスメイトは首をかしげる。だって、別にいじめがあるわけじゃないのに。
なんとなく、教室にいない子。それが、あいみょんだった。
「√って何に使うんだろう」。そんなことばかりが頭をよぎり、授業にはあまり集中できなかった。勉強が大事なのはわかる。でも、なんだかベルトコンベアにのせられているような気がした。
小学生の時は、明るかったらしい。けれども思春期になると人間関係の歪みが見え始める。教室の空気を読んで、調和を乱さないように人と人の間に入った。
「ショッピングモール行ってプリクラ撮って、変にお金を消費して。それなりに楽しかったんですけれど」
昨日まで仲良く笑い合っていた友情関係は、ちょっとした出来事や誤解ですぐに壊れた。
「友だちってどこまでが友だちなん?」
答えのない疑問を持ち続けた。手を差し伸べられても一歩引いてしまう。
学校よりも心の支えになったのは「音楽」だった。
音楽関係の仕事をしていた父の影響で、幼い日から音を浴びて育った。「ツタヤやと思っていた」ほど、CDが溢れる父の部屋に忍び込んでは自室に持ち込んで聴きいった。
浜田省吾、尾崎豊、吉田拓郎......当時流行っていた音楽も好きだったが、特に90年代の音楽に恋い焦がれた。どこに発表するわけでもなく、ギターを弾きながら音楽を作り始めた。
かといって、尾崎豊のように激しく反抗する気はおきない。逃げたいわけでもなかった。雑誌のバックナンバーが欲しい、ライブチケットが欲しい、ギターケースが欲しい。そのために、バイトをはじめた。これは「意味のある」ことだと思えたのだ。
16歳のとき、ある音楽に出会う。小沢健二だ。バイト先の先輩から手渡されたアルバム『LIFE』は、家で見たことがないCDだった。
「お父さんの部屋で見つけた曲しか聴いてこなかったから、オザケンは初めて『外』から入ってくる音楽やった」
ふてくされてばかりの10代をすぎ分別もついて齢(とし)をとり
夢から夢といつも醒めぬまま僕らは未来の世界へ駆けてく
『愛し愛されて生きるのさ』に衝撃を受けた。「私の心のドアをノックした」のだ。言葉もメロディも全部好きだった。好きすぎてオザケンになりたいって時期すらあった。円盤が擦り減るくらい再生ボタンを押し続けた。
しばらくしてから、いつものように父の部屋でCDを漁っていたときのこと。『LIFE』が出てきたことに驚いた。
「やっぱり、お父さんと好きな音楽は一緒なんやって思った瞬間。『LIFE』が家に2枚あるという状況が嬉しかった」
自分が正直になれるのは、音楽に向き合っているときだけだった。学校そっちのけで、好きなアーティストのライブに通う毎日を送る。
当然のように、単位が足りなくなった。学校からの電話を受けた父から言われる。「もう明日から学校いけないよ。留年かやめるか、どうする?」。あまりに突然だった。
「父と母には甘えたところ。高校卒業資格は人生を左右すると思ってしまって、別の学校に編入させてもらいました」。ずっと笑っていた彼女が、はじめて苦い表情をした
新しい学校では、完全に独りになった。「学校が変わると連絡ってとらなくなるんやな」。2年在籍した学校の同級生とは、ぷつりと関係が途絶えた。
買い物に行くのも、授業中も独り。新しい環境で再び友だちをつくる気も起きなかった。
独りになった途端、自由になった。「私は音楽をやるんだし」と腹をくくったが、一瞬だけ、大学受験をしようかと気持ちが揺らいだこともある。
でも、「大学に行くって言っても、自己保身のしょーもない理由しかない。だったら歌に進んだ方がいい」と決めた。
「ダサい話ですけれど、独りになって気づくことってある。いつでも周りに人がいると思っていたらあかん。でも、独りだと感じても、世界に一人だけ取り残されているわけじゃない」
見事に外れた「泣いて実家に戻るだろう」
高校を卒業してしばらくは、歌を作りながらバイトにあけくれていた。
「せめて資格でもとろうか」とも考えたが、すぐに転機が訪れた。映像制作をしている友人が配信するYouTubeの音楽番組で演奏を披露すると、すぐに東京の事務所から声がかかったのだ。
「一握りの世界だとわかっていたんですけれど、自分の限界を決めてしまうのは良くないと思った」
こうしてあいみょんは、生まれ育った西宮を離れて東京に行くことになった。
夜行バスで訪れた新宿は嫌いだった。駅は迷路のように広くて人も多い。すれ違う人が悪い人に見えた。「すぐに泣いて西宮に帰るだろう」と自分で自分を疑っていたが、そうはならなかった。
「新幹線で3時間くらい。帰ろうと思えば帰れる。東京大好き。関西弁は譲れないですけど(笑)」
西宮で家族と暮らし続けてもよかった。でも、いつまでも甘えていられない。17歳で知った孤独は、上京の寂しさをいなす力を十分に持っていた。
いまでは、孤独を感じることは、ほとんどなくなった。「孤独とうまく付き合えるようになった」と言う方が正しいかもしれない。年齢や性別を問わない友だちもできた。
「指折り数えるくらいしかいないけれど。頻繁に会わなくても、一緒にいたいと思って、その人とご飯を食べて楽しければ、もうそれで十分やのに。難しく考えていただけだった」
何かを作れば、いつか誰かに発掘される
とはいえ、毎日がキラキラしたわけではない。東京でアーティストをしていても、それは案外、地味で泥臭い生活だ。
「本気でやってんだ」と叫んでも、結果が出なければ、大人たちに見捨てられることも知っていた。
だからといって、安易に「頑張って」なんて言ってほしくなかった。手に届きそうで、届かない夢がじれったかった。そんな気持ちも、すべて音楽に注いだ。
自分の楽曲を聴いて「勇気が出た」と言われると、嬉しい。でも、誰かを助けたいと思って曲を作っているわけではない。その時、自分の中から出てきた言葉を綴るだけ。
「死にたいって気持ちを込める曲もあるし、甘いラブソングにしたい曲もあって。暗い気持ちをさらけ出すと、メンヘラと烙印を押されることもあるんですけれど、一面でしかないですからね」
「最近、作家の友人ができて。その人が言っていたんです。小説は希望だって。自分の記憶の中に希望を足せる。音楽も作詞も、自分の現実に少しプラスで希望を足しているんです。これやなって思った」
嘘ではなく、脚色でもない「希望」をのせる。「こうなったらいいのにな」なんてことは、他人にあまり知られたくない感情だ。それすらもさらけ出すからこそ、彼女の歌を「自分の話」だと思う人が多いのだろう。
『マリーゴールド』の歌詞には、こんな言葉が綴られる。
でんぐり返しの日々
可哀想なふりをして
だらけてみたけど
希望の光は
目の前でずっと輝いている
幸せだ
きっとそれは、世代を超えて誰かに響いていく。オザケンに憧れ、自分を重ねたあいみょんは、よく知っている。
「今、たくさんの人が音楽を作れる。その分、埋もれてしまうことも多い。でも、平成の時代に発掘されなくても、寝かせた分だけ価値が出るものもある」
「自分の限界を作らないで、何かを生み出していくといつか誰かが見つけてくれることもある。私自身、CDでたくさんの音楽を発掘したので。やっぱりCDって良いですね。振り袖みたいに受け継げる(笑)」
生まれる前に流行った音楽に、胸を焦がした10代を過ごした少女は、発掘することで自分を取り戻した。
流行り廃りは関係ない。ただ、誰かの希望が、虚しい心に水を注いでいた。