戦争のきっかけは子どもの落書きだった 死者50万人超のシリア内戦

    中東のシリアで続く激しい内戦。そのきっかけとなったのは、子どもの落書きだった。凄惨な殺し合いに、いまだ終わりは見えない。

    中東のシリアで続く激しい内戦。人口2000万人余の国で、これまでに50万人以上が命を落とし、500万人以上が国を逃れて難民となり、さらに600万人以上が国内避難民となった。世界を揺るがす戦争のきっかけとなったのは、子どもの落書きだった。

    「次はあんたの番だ、ドクター」

    #Syria's civil war has reached the 6-year mark. Here is the 14-yo's graffiti in #Daraa that began it. Says only, "I… https://t.co/3z5vwUH0OP

    2011年2月、中東と世界全体は異様な雰囲気に包まれていた。

    この年の1月、チュニジアで大規模な反政権デモが起きて、23年に渡り独裁を続けたベンアリ大統領が亡命した。それは中東で最大の人口を誇る地域大国エジプトに飛び火。大規模なデモが続き、2月11日に30年にわたる独裁を続けたムバラク大統領も辞任したのだ。

    長期独裁にあえぐ国が多い中東で、「アラブの春」と呼ばれる民主化運動に火がついた。アルジャジーラなどの衛星ニュース局が各地のデモや「革命」を競って報じ、様々な国で繰り返された「体制打倒」などの言葉が流行語となった。

    独裁政権が相次いで倒れるなか、多くの人々の目はシリアに向けられていた。シリアもバシャール・アサド大統領と、父親で先代の故・ハーフェズ・アサド大統領親子による支配が約40年に渡り続く独裁国家だったからだ。

    こんな状況のなか、シリア南部のヨルダンとの国境に近いダラアという街で2月16日、14歳前後の少年たちが、赤いスプレー缶で学校の壁に落書きしたのだ。「次はあんたの番だ、ドクター」と。

    「いたずら」では済まない国

    「ドクター」とは、父ハーフェズに後継者として指名されるまでロンドンで眼科医として修業を積んでいた現大統領バシャール・アサドのことと読める。

    子どもたちには、「アサド政権打倒」を本気に訴えようというほどの政治的な動機はなかったようだ。スプレー缶を手に落書きしたナイフ・アバジードは「まだ子どもだったから、自分が何をしているか理解していなかった。あとで逮捕されて、初めて深刻さを知った」とカナダの新聞に語った

    一緒にいたムアーウイヤ・シヤスネは英紙テレグラフに「ジョークのようなものだった。シリアで反政府運動が起きるなんて想像もしていなかった」。一方で「抑圧と拷問にうんざりして、怒りでいっぱいだった」と語った

    いずれにせよ、多くの国では「子どものいたずら」で済まされる話だろう。

    しかし、アサド政権が国中に監視網を張り巡らせて国民の言動を監視していたシリアでは、そうはいかなかった。

    複雑な「人工国家」

    シリアは1946年にフランスから独立した。この地域は古代から続く豊かな文化を誇るが、国家としての歴史は日本の戦後よりも短い。今の国境線が生まれたのは第1次大戦後にオスマン帝国を欧州列強が解体した結果であり、一種の「人工国家」といえる。

    アラブ人だけなくクルド人やアルメニア人なども暮らす多民族国家であり、宗教も国民の7割を占めるイスラム教スンニ派のほか、アサド一族が属する人口の1割程度の少数派であるアラウィ派、ドルーズ派などがある。キリスト教もシリア正教会、マロン派教会など多岐にわたる。さらに部族が存在する。

    国民に「シリア人」という一体感は薄く、独立後は政変も繰り返された。1970年にクーデターで実権を握った空軍出身のハーフェズ・アサドが統治のため採ったのが、軍と治安機関を中心とする中央集権独裁だった。

    82年にも市街地攻撃

    政権に刃向かうものへの処断は容赦なかった。

    世俗主義と社会主義を掲げていたシリアで、イスラムに基づく統治を求めるイスラム教スンニ派の政治組織ムスリム同胞団が1982年、ハマという都市で蜂起した際は、軍が市街地を包囲し、そこに暮らす市民もろとも攻撃。数千とも数万ともいわれる死者を出して武力で鎮圧した。正確な死者数は今も明らかではない。

    それから約30年後、ダラアでの落書きに対してバシャールの政権は父親時代と変わらない苛烈さを見せた。少年らを相次いで連行し、投獄したのだ。

    少年への拷問に市民の怒り

    家族は治安当局の幹部に子どもたちの釈放を求めた。だが当局側は「あんな子どものことは忘れろ。子どもがほしければ新たに作れ。子作りのやり方を知らないなら、おれたちが教えてやる」と取り合わなかったという。

    連行から1ヶ月近く経った3月18日、イスラム教では礼拝日のため休日となる金曜日だった。ダラアでこの日、少年らの釈放を求め、治安当局の横暴を糾弾するデモが始まった。釈放だけでなく「自由」「民主主義」などを訴える人も相次いだ。いずれも当時、エジプトやチュニジアなど各地で叫ばれていたスローガンだった。シリアでも反政権デモが本格化したのだ。

    2011年3月18日にダラアで行われたデモ

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    これに対する政権側の回答は、治安部隊の投入、そして発砲だった。

    翌日もデモは繰り返された。

    政権側も一時は妥協姿勢を見せ、少年らを釈放した。ダラアに代表団も送った。

    だが、釈放は新たな怒りを呼んだ。

    拷問で傷ついた少年

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    少年らは激しい拷問で傷だらけだった。

    獄中で電線でむちうたれ、電気ショックをかけられ、さらに天井から吊された。落書きの現場で一緒にいた子の名をあげるよう要求され、最終的にその場に実際にはいなかった子を含む23人が逮捕され、拷問された。

    この映像がネットで出回り、ダラア、そしてシリア内外でアサド政権への強い反発を巻き起こした。少年たちは地元で「英雄」として迎えられた。首都ダマスカスなど複数の都市で、ダラアに対する連帯の表明や政治改革の要求などを掲げたデモが相次ぐようになった。

    アサド大統領は3月末、議会で演説した。この演説で、大統領が民主化に向けた動きを見せることを期待した国民もいた。

    だが大統領は、各地で起きるデモを「国外からの陰謀」と位置づけ、「妥協の道はない。シリア人は平和を愛するが、国益と大義を護るためには戦うことを躊躇しない」と述べ、デモを徹底的に弾圧する考えを示したのだ。アサド政権は、チュニジアとエジプトの状況を分析し、妥協は政権の崩壊につながると考えたようだ。

    「陰謀の手先」とされた市民デモの参加者らは、もはや「改革」ではなく「アサド退陣」を公然と求めるようになった。政権側は妥協せず、弾圧による市民の死者が相次いた。ダラアには戦車隊が投入された。

    一方、市民への発砲命令に反発して軍から離反する人々も出始めた。7月には離反した兵士らが、反体制派の武装組織「自由シリア軍」を結成。政権側に武力で対抗し始めた。

    反体制派武装組織「自由シリア軍」の結成宣言

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    米国や欧州連合などは、アサド大統領に対して公然と退陣を求めた。反米色の強いアサド政権を倒す好機とうつったのだ。トルコやペルシャ湾岸の産油国も、反体制派への支援を直接、間接に行った。こうした各国の干渉により、シリアに武器と資金が持ち込まれるようになった。

    とはいえ、その受け皿となるシリアの反体制派はバラバラだった。

    平和的な民主化や近代化を訴える学生グループから、自由シリア軍、イスラム法による統治を求めるムスリム同胞団、さらに過激なイスラム過激派もいる。混乱を突いて周辺諸国や欧米などから入り込んだ戦闘員が主力の過激派「イスラム国(IS)」は一時、シリアとイラクを広範囲に占領し、世界的な問題となった。

    また、人口の1割を占め差別されてきたクルド人の関心は、シリアの民主化よりむしろ、クルド人の自治確立だった。

    反体制派は互いに反目や対立、武力衝突まで繰り返し、まとまりはなかった。単独でアサド政権を軍事的に倒す能力はなかった。

    政治面でも、アサドに代わるリーダー候補は見当たらなかった。仮にシリアで完全に自由な選挙が行なわれたとしても、アサドに対抗して立候補し当選する可能性がある人物が出ることを想像するのは、現状では難しい。

    その背景には、長年の独裁下、民主主義などに関する教育が行われず国民の政治意識が抑圧されていたうえ、少しでも政治的な動きを見せればすぐに拘束されたり、逆に知識人がシリアを見限って国を出て行ったりすることが続き、政権側が自らを脅かす可能性のある芽を徹底的に摘んでいた、という経緯もある。

    一方、アサド政権を助太刀したのは、ロシアとイランだった。

    ロシアはシリアと長い友好関係があり、シリアの地中海岸にはロシア国外で唯一の海軍施設を持っていたし、「民主化」を旗頭に権威主義体制が倒され、その陰に陽に西側の影が見える中東の情勢は、同様に権威主義的な統治を続けるロシアにとっては脅威でもあった。

    イランは対イスラエル戦略などでシリアと共闘関係にあり、アサド政権を失うと中東政策に穴が空く。ロシアとイランはアサド政権軍とともに戦闘に加わった。

    そして戦争は、今も続いている。

    Facebook: Firas.Al.Abdullah

    アサド政権軍に攻撃が続く、ダマスカス近郊東グータ地区のドゥーマから報告を続けるジャーナリスト、フィラス・アブドッラーのフェースブック。

    「どうして東グータから逃げないのかと訪ねる人たちへ。想像してほしい。マンチェスターやベルリン、NYなどに住んでいるとして、そこにロシア大統領のプーチンが自分の街と家から出なければ1日100回以上空爆し、地元を侵攻しようとする陸軍を支援すると言ったら、どうする? 自分の家に暮らす自分の権利を守ろうとするか、それとも臆病者として逃げるか。もし逃げようとしても、全く逃げる道はない。奴らは嘘つきだ」

    落書きで捕まった一人、ムアーウィヤ・シヤスネは大学に行ってビジネスを学びたかったが、内戦となりその夢は失われた。

    16歳だった2013年夏、政府軍による砲撃で自宅を破壊され、設計技師だった父親を亡くした。この怒りから政権に対して銃を取ることを決め、自由シリア軍に入った。17歳で初めて「敵」を射殺した。地元に残り、自由シリア軍から受け取る低い給与で母や3人のきょうだいとなんとか暮らしているという。

    2017年3月、ダラアで戦闘員として政府軍と戦っている姿が、衛星テレビ局アルジャジーラで紹介された。

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    ナイフ・アバジードは2012年、隣国ヨルダンに徒歩で逃げた。家の前で政権軍が検問を作り、捕まりそうになったのだ。2年後に戻ったが、政権軍の雨あられのような砲撃や空爆の中での生活を余儀なくされ、今度は欧州に向けて旅立った。多くの難民とともに厳しい道のりを経て、オーストリア・ウイーンにたどり着いた。

    そのオーストリアでは2017年秋、難民・移民の厳格化を掲げる新政権が発足した。シリアなどからの難民の波が社会問題となっているからだ。

    しかし、シリアで戦争が終わらない限り、シリア難民問題も解決することはない。

    (敬称・呼称略)

    BuzzFeed JapanNews