ウクライナで不可解な事件が起きている。
ロシアのプーチン政権を鋭く批判し、ウクライナに逃れていたロシア人ジャーナリスト、アルカジー・バプチェンコ氏(41)が、ウクライナの首都キエフの自宅で何者かに撃たれて死亡した、とキエフの警察当局が5月29日、Facebookの公式アカウントで発表した。
だがその翌日、死んだはずのバプチェンコ氏が、治安情報機関ウクライナ保安局(SBU)のグリツァク長官とともに、元気な姿で報道陣の前に姿を現したのだ。
その背景に何があったのか。
バプチェンコ氏は「心配をかけた家族や友人に謝りたい」と語った。治安当局からバプチェンコ氏の暗殺計画を察知したと連絡を受けたため、当局に協力して「死んだふり」をし、おとり捜査を仕掛けたと説明した。撃たれたふりをするため、ブタの血を使い、顔に特殊メイクまで施したという。
会見でSBUはバプチェンコ氏の暗殺を計画していた男を逮捕したと発表し、その場面の映像を公開した。グリツァク長官は「背後にいたロシア情報機関の陰謀を暴くための作戦だった」と説明した。
ウクライナ当局の公表した映像
まるでスパイ映画を地で行くような話だ。ウクライナ当局は、バプチェンコ氏の暗殺を巡り金銭が支払われ、その背後にはロシア情報機関がいたとする声明を発表した。ロシア外務省は「プロパガンダ工作」と猛反発している。
SBUは逮捕者が事件に関わった具体的な証拠を提示してはおらず、現時点で何が事実かを確定的に語ることは難しい。それでもこの事件は、ロシアとウクライナを巡る3つの闇を、改めて浮き彫りにした。
1)忘れられた紛争
そもそも、なぜロシア人のバプチェンコ氏がウクライナに住んでいたのか。
その理由は、ウクライナとロシアが激しく対立し、戦争まで続けていることにある。
バプチェンコ氏はロシアのプーチン政権を鋭く批判する論陣を張ってきたが、「自らや家族への脅迫」を理由に2017年にロシアを離れた。チェコなどを経て、ウクライナに落ち着いた。
ウクライナ当局にとって、ロシアを批判してきたバプチェンコ氏は、受け入れて保護する価値が、十分にあるのだ。
ウクライナでは2014年、親ロシア派のヤヌコビッチ大統領に反発する反政権デモが起きた。デモ隊と治安部隊の衝突が激しくなって首都キエフは混乱に陥り、ヤヌコビッチ政権は崩壊。ロシアはウクライナへの軍事介入を決めた。
ウクライナ南部クリミア半島では、国籍の明らかではない武装勢力(実態はロシア軍とみられる)が侵攻。親ロシア派の住民を糾合し、ロシアに編入させた。
また、ウクライナ東部のドネツクなどでも親ロシア派の武装勢力が姿を現し、独立を宣言。ウクライナ軍との間で戦闘状態となった。日本や欧米諸国はこの独立宣言を認めていないが、事実上分裂した状態が続いている。UNICEFなど国連機関を中心に住民の支援活動が行われているが、親ロシア派との境界線付近では銃撃や砲撃がいつ起きるか分からない状況だ。
一方で国際社会の関心は時間の経過とともに薄れており、「忘れられた紛争」と呼ばれる状態となっている。ロシアとウクライナ、そしてその背後にいる西側諸国の対立は激しく、住民らがその犠牲となり続けている。
ウクライナでの忘れられた紛争については、BuzzFeed Newsも取材を続けている。
2)ロシアで続く反政権派の殺害
5月29日にバプチェンコ氏の殺害が発表された時、欧州連合(EU)や、米国に本拠を置くNGO「ジャーナリスト保護委員会(CPJ)」などが一斉に殺害を非難する声明を出した。
多くの人々が殺害を「ありそうな話」と考えた。なぜならば、ロシアでは実際に、プーチン政権に反対する人々の殺害事件が相次いでいるからだ。
ロシアでは2000年にプーチン氏が大統領に就任して以来、旧ソ連の崩壊と民主化、資本主義への移行で緩んだ権力の集中が、再び急速に進んだ。
プーチン氏は旧ソ連の情報機関KGBの出身で、ベルリンの壁が崩壊した時は東ドイツに情報員として駐在し、KGBの支部に押し寄せるデモ隊を押し返すという経験をした。どんなに揺るぎなく見える体制も、一度緩めばあっという間に崩壊するという状況を、目の当たりにしているのだ。
CPJによると、ロシアでのジャーナリストの殺害は、1992年以降58人にのぼる。国際的に最も知られた事件は、アンナ・ポリトコフスカヤ氏の殺害だ。
ポリトコフスカヤ氏は独立系紙「ノバーヤ・ガゼータ」紙の記者で、チェチェン紛争でのロシア軍の行動やプーチン大統領の強権支配を批判する論陣を張り、国際的にも高い評価を得ていた。
だが、2004年にはロシアの航空機に搭乗した際に出されたお茶に毒を盛られて入院したり、殺害予告の脅迫を受けたりするなど、何者かに命を狙われている状況が続いていた。
そして2006年10月7日、モスクワ市内の自宅アパートで、射殺されているのが見つかった。何者かから金銭を受け取って殺害したとして元警察官らが逮捕されたが、詳しい背後関係は今も不明のままだ。
ポリトコフスカヤ氏が殺害されたのは、プーチン氏の誕生日だった。
元スパイに迫った猛毒
殺害されたのは記者だけではない。
ロシアの情報機関FSBの元スパイで英国に亡命したアレクサンドル・リトビネンコ氏が2006年、何者かに放射性物質の猛毒ポロニウムを体内に仕込まれ、死亡した。
2018年3月にも、英国に亡命した元FSBのスクリパリ氏が、英国南西部ソールズベリーの屋外で、意識不明の状態で倒れているのが見つかった。体内からは旧ソ連が開発した猛毒ノビチョクが検出された。
また、プーチン氏の政敵だった野党指導者ボリス・ネムツォフ氏も2015年、モスクワ市内で銃殺された。実行犯として5人が逮捕されたが、この事件の背後関係も不明なままだ。
とはいえ、ウクライナの当局が、記者の殺害という「偽ニュース」を一度は公式に発表したことは異様だ。CPJは「ニュースの偽造という極端な手段を執った理由を、ウクライナ政府は説明すべきだ」とする声明を出して批判している。
3)チェチェンとシリアと「テロとの戦い」
バプチェンコ氏とポリトコフスカヤ氏には、共通点がある。
それは、ポリトコフスカヤ氏は記者として、バプチェンコ氏はロシア軍の兵士として、いずれもチェチェン紛争の現場に向かったということだ。
二人はチェチェンで、戦争とプーチン政権への疑問を抱いた。
ポリトコフスカヤ氏は批判の論陣を張った。バプチェンコ氏はロシア軍を離れて紛争などを専門とするジャーナリストになり、一時は「ノバーヤ・ガゼータ」にも寄稿した。
チェチェンでは旧ソ連の崩壊後、独立派とロシアへの帰属を求めるグループの間で対立が激化し、1994〜1996年と1999〜2009年の二度にわたり、激しい戦争となり、いずれもロシア軍が大軍を動員して「平定」するかたちで戦闘は終結した。
一方でポリトコフスカヤ氏らは、ロシア軍の人権侵害や、市民被害をいとわない軍事行動を激しく批判していた。
チェチェンはイスラム教徒が多く、独立派もイスラム教徒が主流だった。ロシアの介入を「イスラムへの弾圧」とみるイスラム過激派が各国から流入し、ロシアで爆弾テロなどを行う事態となった。こうしたこともあり、プーチン政権はチェチェンでの戦争は「テロとの戦い」だ、と主張して正当化した。
シリアでは、ロシア軍がアサド政権に協力して航空兵力や陸上兵力を派遣している。このところ、首都ダマスカス近郊東グータ地区などでアサド政権軍が次々と反体制派を撃破しているのは、ロシア軍の空爆による協力が大きい。
シリアで膨大な市民の被害を生み出したロシア軍とシリア軍による激しい空爆はチェチェン紛争当時以上の国際的な批判を招いている。
しかし、アサド、プーチン両大統領は批判を意に介しておらず、ここでも「テロとの戦い」が攻撃を正当化する理由に用いられた。
チェチェンでもシリアでも、確かに国際的に「テロ勢力」と認められる勢力が存在している。シリアではチェチェンで経験を積んだイスラム過激派が流入した。
だが問題は、市民がいる住宅地への爆撃を続けるというロシア軍の行動が、市民の犠牲に注意を払っているようには思えないことにある。政権の考える「国益」のために、膨大な数の市民が犠牲になっているのだ。
バプチェンコ氏は、こうしたロシア軍のチェチェンやシリア、そしてウクライナでの行動を強く批判していた。
そして自国の戦争を批判するロシア人には、世論の猛攻撃を含む激しい「報復」が加えられてきたのが実態だ。報復には、「死」すら含まれるといえる。
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構成を一部改めました。