9月21日は、国連の「国際平和デー」。通称ピースデーとよばれ、2001年に制定された、世界中が平和と非暴力について考える日だ。
制定の立役者になった英国人の俳優・映画監督のジェレミー・ギリーさんが8月31日に来日し、記者会見した。
ギリーさんが「ピースデー」の制定を思い立ったのは、1998年のことだ。
「戦争と平和、学校でのいじめ、暴力。こうした問題を何も分かっていなかった。だから、この世の中がどうなっているのか理解できるよう、平和に関する映画を作ろうと思った」
だが、平和をどう考えるのか、人類が一つになれるきっかけがあるのかを探しても、それにふさわしい物事が見つからなかった。
世界が平和について考える日を
たとえば8月15日は、日本にとっては「終戦記念日」。戦争を反省し、死者を悼む日だ。しかし、連合国側にとっては戦争に勝った日ということになる。立場が分かれてしまい、「世界みんなで平和を考える日」とは言いがたい。
世界のみんなが平和について考える日は存在していないことに気づき、「世界中で平和を考え、停戦が行われ、非暴力が広がる日をつくろう」と思ったという。
国連には1981年に制定された「ピースデー」があった。それは国連総会が始まる9月第3火曜日で、毎年日付が変わるためあまり知られていなかった。
「21」に込められた意味と、日本とのつながり
そこでギリーさんは、9月21日をピースデーとして固定し、改めて制度化するよう、各国の政治家や国連関係者に協力を求めて歩いた。そして2001年9月、国連総会で全会一致で採択された。
ピースデーを「21日」に固定したのは、理由がある。
ギリーさんの祖父は第二次大戦中、英国軍の兵士だった。しかし日本軍の捕虜となり、福岡俘虜収容所第17分所(福岡県大牟田市)に送られた。
祖父本人は終生、「自分は長崎で被爆した」と語っていた。
大牟田では、長崎の原爆によるきのこ雲を見たという複数の証言があり、この第17分所にいても大きな異変を感じた可能性は高い。その後、壊滅した長崎市内を通って帰国船に乗ったとみられるが、詳しい状況は分かっていない。
なお、福岡県南部や長崎市周辺には当時、複数の捕虜収容所があった。例えば長崎市内にあった福岡俘虜収容所第14分所には、約200人が収容されていた。生き延びた元捕虜には戦後、長崎市に被爆者健康手帳を申請し、交付された人もいる。
祖父は、21人の戦友とともに帰国した。「だから21は私と祖父にとってのラッキーナンバーなのです」
「活動を始めた19年間で、123ヵ国を回った。この19年間、ずっと日本のことが頭にあった。それは祖父のことがあったからだ」
「祖父は私が11歳の時に亡くなったが、和解と許しの精神を教えてくれた。今日日本で空港に着いて、どうしてみんなにハローと言うのかと問われた。祖父がそういう人だったからだ。みんなに挨拶し、仲良くなろうとした」
「ピースデーなんて意味がない」という批判もある。
だが、ギリーさんらは2007年に、国連とともにアフガニスタンで戦闘を続ける各派と折衝を続け、この年の9月21日に停戦することで合意した。
この日、アフガンに駐在する国連やNGOなどの保健関係者は、戦闘が止んだことを利用して、子どもたちに一斉にポリオワクチンを接種して回った。約1万人のスタッフが1日で約140万人に接種したという。
「今、世の中で起きている暴力の多くは家庭や学校、職場で起きている。地元のコミュニティーで起きていることから考えよう。平和は私たちの手の中にある。私たちは世界を変えることができる」
ピースデーはまだ、日本ではあまり知られていない。そこで、映画配給会社ユナイテッドピープルを経営する関根健次さんらがギリーさんを日本に招いた。これをきっかけに、日本でピースデーを広めるためだ。
ギリーさんは9月1日に東京都内で講演。2日には千葉・幕張海浜公園で開かれるイベント「PEACE DAY 2018」で講演する。
3日に広島を訪れ、原爆資料館を訪問し、被爆者から証言を聞くほか、自ら講演もする。4日に長崎で俘虜収容所第14分所の看板の視察などを行い、ここでも講演する。
PEACE DAY 2018やギリーさんの講演日程などについては、こちらをご覧ください。
アップデート
8月31日に記事をアップした当初は、ギリーさんの発言や資料に基づき「祖父は日本軍の捕虜になり長崎で被爆した」という内容で記述していました。
しかし、ギリーさんの来日中に進んだ調査により、祖父が収容されていたのは、長崎市内にある福岡俘虜収容所第14分所ではなく、福岡県大牟田市の第17分所だったことが分かったため、内容を修正しました。