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「リアル北斗の拳」なソマリアで、テロリストやギャングを更生させるー27歳の挑戦

ソマリアでテロリストを社会復帰させる。そんな途方もないことに取り組む若者が、日本にいる。

若者の内向き志向。そんな言葉が使われて久しい。しかし、平成生まれをそんな一言でくくることが、本当にできるのだろうか。

アフリカの北東部にソマリアという国がある。内戦の混乱が続き、治安状態は世界最悪と言われる地域だ。ネットでは「リアル北斗の拳の世界」とまで言われる。

そんな地で、テロリストやギャングの更生と社会復帰に取り組む若者がいる。NPO法人「アクセプト・インターナショナル」代表の永井陽右(27)だ。

掲げる目標は「テロを止め、紛争を解決する」こと。

なぜソマリアなのか。なぜ、ギャングやテロリストに手を差し伸べるのか。

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ソマリア・ギャングの解散宣言

2018年3月、ケニアの首都ナイロビ。隣国ソマリアからの難民や移民が集まった「イスリー」という地区で、「カリフマッシブ」というソマリア人ギャング団の解散式が開かれた。

かつては地区の一部を支配し、様々な悪事を積み重ねていた若者たちだ。なかにはイスラム過激派のテロ組織「アルシャバーブ」に勧誘され、「テロリスト」になった者もいる。そんなグループが、自ら解散したのだ。

あいさつに立ったリーダーは仲間たちに呼びかけた。「おれたちは前に進む。もう昨日いた場所に戻る必要はない」

「カリフマッシブ」を解散に追い込んだのは、ケニアの警察ではない。日本人の若者たちの力だった。その中心に、永井がいた。

「いじめ」への反省

永井がソマリアという国に初めて関心を持ったのは、大学1年生のことだ。

1991年、神奈川県生まれ。高校時代までバスケットボール部で活躍していた。長身でスポーツが得意。すっきりとしたイケメンでもある。いわゆる「スクールカースト」では上位に属していただろう。

「小中から高校2年生ごろまではいろいろと悪さもやんちゃもしていた」。おとなしいクラスメートに対する「いじめ」にも加担していた。

高校2年生の夏休み、部活が2日だけ休みになり、ネットで動画を見ていた。

最初は次々と面白系の動画を見ていた。ふと、ツバルという国を紹介する動画を見付けた。南太平洋の島国。地球温暖化の影響で、このままでは国土そのものが海面に沈んでしまうという。

「国が沈む」ーこの地球にそんなことが起きているのか、と思った。そして考え始めた。

「国が沈んだら、そこに住む人はどうなるのだろうか」

「他人」のことを深く考えたのは、これが初めてだった。そう考え始めると、自分がこれまでほかの人のことを考えず行ってきた振る舞いが、急に恥ずかしく思えた。

いじめていた同級生の家に行った。だが、インターホンを押して「ごめん」と口にする勇気が、どうしても出なかった。

「ルワンダに行こう!」

「いじめていた側の人間」として、これから生きていくうえで、やるべきことがあるんじゃないだろうか。ならば、世界で一番いじめられている人たちを、何とか手助けすべきなんじゃないか。そんな思いを抱えながら、受験勉強のため世界史の年表を広げた。

ルワンダでの大虐殺のことが載っていた。

1994年、政治とメディアに煽られた民族紛争が起き、50万人から100万人が殺されたという世界的な悲劇だ。「大学に入ったら、ルワンダに行って、ルワンダの人たちのために何かをしよう」と思った。

偏差値40台から勉強に打ち込み、一浪して早稲田大学に合格した。

最初の夏休みに向かったのは、もちろん高校時代に心に決めた地、ルワンダだ。

しかしルワンダは内戦後、平和を取り戻しただけでなくIT産業の誘致などに成功し、「アフリカの奇跡」と呼ばれる経済成長を実現させていた。1994年のころのような、血を流し苦しみにあえぐ人々の姿は、もはや見当たらなかった。

すっかり調子が狂ったまま、経由地のケニアに戻った。首都ナイロビを案内してもらおうと、タクシーに乗った。

ポールという名の運転手は陽気な男で、市場などを回るうちに、すっかり親しくなった。だが、「イスリー」という地区を通りすぎる時、ポールの態度が急に変わった。「ここはソマリア人の住む地域だ。テロリストの巣窟だ。麻薬もひろがっている。ソマリア人はテロリストが多いから気をつけろ」と吐き捨てるように言った。

ソマリア人を探せ

帰国後、ソマリアのことが気になって調べ始めた。

「世界最悪の紛争」「比類無き悲劇」。ソマリアに関する情報には、そんな言葉が躍っていた。

内戦で政府は崩壊状態で、国土はいくつもの勢力下に分裂。さらに、厳格なイスラム法解釈に基づく国家建設を訴えるイスラム過激派「アルシャバーブ」のテロや攻撃が続く。

そこから逃れた難民たちが、イスリー地区に集まっていたのだ。

世界で最も虐げられ、無視されている人々は今、ソマリアにいる。ならば、ソマリアのために何かしたい。

そう思い、国内で国際協力事業を行っているNGOに片っ端から問い合わせた。

しかし、国内のNGOで、ソマリアで直接、事業を行っているところはなかった。「ソマリア?危険すぎるから今は何もできない」「無理して行っても、死ぬよ」という反応が返ってきた。

人々が危険な状況に置かれているからこそ、外部からの支援が必要だ。なのに「危険すぎるから無理」とは、どういうことだろう。

そんなことを考えていると、「あしなが育英会の奨学金を受けたソマリア人の紛争遺児2人が、早大に留学」というニュースを目にした。

大学の事務局に尋ねたが「個人情報だから」と教えてくれない。

仕方なく、ソマリア人留学生に直接会って話をするため、校舎前で朝から張り込んだ。

1週間近く張り込みを続け、ようやくソマリア人の兄と妹の2人の留学生を見付けた。頭の中で何度も練習した、つたない英語で伝えた。

「マイ・ネーム・イズ・ヨースケ。ぼくはソマリアを助けたい。だから力を合わせてくれないか。一緒に世界を変えよう」

二人は喜び、ナイロビで活動するソマリア人のNGOを紹介してくれた。日本人の友人らも巻き込み、「日本ソマリア青年機構」を立ち上げた。「アクセプト・インターナショナル」の前身となる団体だ。大学で毎週、仲間たちと話し合い、さらにスカイプでナイロビ側と話し合って、具体的に何をするかを考えた。

ギャングはどこだ

現実を知ってニーズを調べ、活動の内容と理念を固めるため、2012年3月、イスリー地区を訪問した。

地域の顔役などさまざまな人に会う中で集約されてきたニーズは、「難民として将来を切り開けない若者に、奨学金を探して日本に留学生として送り出すこと」、「スポーツ用品を集めて贈ること」だった。

いずれも、日本で仲間たちと奔走し、お金や資材を集めてかたちを付けた。しかし、「ソマリアを良くする」という目標からは、やや離れている気がした。

自分たちだから、学生だから、若者だから、ソマリアに対してできることは何だろう。イスリー地区の人たちが挙げたもう一つのニーズのことを考え始めた。

それは、「イスリー地区の治安を改善すること」という点だ。

ナイロビ側の仲間に聞くと、「イスリー地区にはギャングがいて、治安が悪い」「友達も何人か、道を誤ってギャングになった」と言った。イスリー地区は実際に治安が悪く、日本の外務省も不要不急の渡航を控えるように呼びかけている。

イスリー地区の暮らしは厳しい。難民として逃れてきた若者の多くは教育を受けられず、職もない。自分たちが何とか生き延びる方法として、ギャングになることを選んでいた。アルシャバーブなどイスラム過激派も地域に根を張り、高給や家、「妻」などで人生に希望を持てない若者を誘い、戦闘員や自爆テロ要員に育て上げていた。

ギャングは、だいたい20歳前後の人たち。つまり自分たちと同世代だ。

大人にできないこと、自分たちにしかできないことって、同世代としてギャングと向き合い、彼らを排除の対象ではなく、一緒に社会を変えて行く「仲間」にしてしまうことなんじゃないか。

ギャングを集めて地域の問題点を議論して行動することで、ギャングが自ら変わるチャンスとし、同時に彼らの力を借りて、地域の状況を良くすることができないか。

地元スタッフの手を借りながら、ギャングたちと向き合うことにした。

ギャングの青年たちの脱過激化(更生)と社会への再統合を図り、彼らの力で地域を改善することを目指す「ムーブメント・ウィズ・ギャングスターズ」という事業が始まった。2013年9月、大学3年生の時だった。

「大人のひとたちはギャングに接触することもできていなかった。当時はギャングが増えていて、非常に荒んでいた。でも、彼らを追い出すのではなく、同い年の若者が日本から来たぞ、ちょっと話そうよとどうにか対話の場を作れないかと呼びかけたら、実際に実現できた」と振り返る。

ギャングが言った。「ギャングがいるから問題」だと

ギャングたちは、こう言った。

「イスリーは治安が悪すぎて問題だ。ギャングがいる」

「ギャングって君たちのことじゃん」というと、彼らは口々にこう言った。

「命からがら逃げてきた難民なのに、身分証明書もない。教育も受けていない。職もない」「親はとっくに死んでいる。お前なら、どうやって生きていくんだ」

「だったらそれを変えよう。それができるのは、国連でも政府でもない。自分たちしかいない」

ギャングたちの目が変わった。「俺たちの話を聞いてほしい。受け入れてほしい」。彼らがギャングの暮らしから離脱する第一歩だった。

永井は手応えを感じた。

「大人には頼れない。自分たちでやるしかない。社会を変えていくのは自分たちだと前を向いて社会に戻らせていくことが、一番理にかなった、一番インパクトのある脱過激化なんじゃないか」

こうして、これまで150人を超えるギャングを受け入れた。イスリー地区の小学校に出向き、子どもたちに「俺たちはギャングだ。俺は学校を辞めてしまった。俺たちのようになるな。ドラッグも悪いこともやるな。勉強を続け、夢に向かって努力するんだ」と語りかけるギャングも現れた。

そして、ギャング団「カリフマッシブ」が解散した。団員全員をプログラムに受け入れ、疎外と憎しみと暴力の「負の連鎖」を自ら断ち切らせた。

ソマリアで問われた「お前は何ができる」

2013年夏にナイロビで現地活動を行ったあと、初めてソマリアに向かった。

活動を通じて知り合ったアフリカ連合(AU)職員のソマリア人男性が手助けしてくれ、行動も共にしてくれた。

首都モガデシュの治安状況は悪く、AUの現地ミッションと国連が共同管理している地域(コンパウンド)以外では、警備無しに動くことはできない。空港もコンパウンド内にあり、AUが派遣した兵士らが厳重に警備している。

到着した翌日、モガデシュ市内で自爆テロが起きた。コンパウンドに影響はなかったが、AU職員の甥が巻き込まれ、犠牲となった。

きょう甥が死んだよ…

その夜、AU職員は言った。「きょう甥が死んだよ。ヨースケ、きみに何ができる?何をしなければならないんだ。だが、何かできるのなら、やってくれ」

自分はソマリアの最前線まで連れてきてもらった。そこでテロが起きて、じゃあ実際に何が出来るんだといえば、何もできない。

「それが恥ずかしいし、悔しかった」

結局言えたのは、「自分はこれから力を付けます、紛争やテロを防ぐところまで最速でたどり着きます、もう少しだけ待っていて下さい」という言葉だった。

そして、覚悟を決めた。紛争解決などの専門知識や交渉などのスキルを学び、しっかりとした組織を作る。それなしに、ソマリアの問題に挑むことはできない。

永井は2015年に早大を卒業し、ロンドンの大学院に留学した。英語力を磨くとともに、平和構築や武装解除などについて専門的に学ぶためだ。留学中も、ソマリア支援の活動をロンドンから続けた。

「日本ソマリア青年機構」も2017年にNPO法人「アクセプト・インターナショナル」に拡大発展させた。

「アクセプト」とは「受け入れること」を意味する。ギャングやテロリストを排除せず受け入れる。そのうえで、社会復帰を促す。そういう理念を込めた名前だ。

まず受け入れ、対話して自ら変革を促すという方法論は、ギャングと同様に貧困や教育の欠如などさまざまな社会的排除という同根の問題を抱えた結果、アルシャバーブに加わることを選び、戦闘に敗れたり拘束されたりした投降兵の社会復帰にも応用できる。

「受け入れる」覚悟

永井は2019年1月、ソマリア・モガディシュに飛んだ。

今度はソマリア政府が始めている、アルシャバーブ投降兵の社会復帰プログラムへの協力を正式に決め、覚書を交わすためだ。

「テロリスト」たちと、本格的に向き合うことになった。

NGOは難民となった子どもや女性の支援に注力することが多い。ではなぜ永井たちは、だれにとっても困難に見えるテロ組織の投降兵を社会復帰させる事業に力を入れるのか。

「みんなが子供と女性の支援をすることが、本当に賢明なことなんでしょうか。それはそれで重要だけど、女性や子どもが苦しむ問題をつくっているのは、大人の男たちです。こういう『かわいそう』と共感されにくい人をなおざりにしないためにも、彼らの生きる『権利』を考えるべきだと思う」

いま本当にやらなければならないことは何か。自分たちにしかできないことは何か。それを突き詰めた結果が、ソマリアでの元テロリストの社会復帰支援だった。

食い詰め、絶望した結果として、アルシャバーブにカネや「殉教すれば、嫌な世間を離れて天国に行ける」といった言葉に誘われ、「職業としてのテロリスト」になる若者は多い。

ならば、ナイロビのソマリア人ギャングたちと同様に、まず受け入れて社会復帰を支援すれば、テロ組織を離れ、職を得て自立することも可能になる。

いったん釈放された元投降兵が食い詰めて再びアルシャバーブに舞い戻る危険性は減り、断絶と貧困、絶望がテロリストを生み、それが絶望を深める悪循環を繰り返してきたソマリアに、新たな好循環が生まれる可能性がある。

また、アクセプト・インターナショナルはインドネシアでも、イスラム過激派の元構成員らの社会復帰事業を支援している。

ソマリアでの事業は、日々の運営は現地のスタッフが行う。

元投降兵らに社会復帰に向けたプログラムを4泊5日で行い、その後2年間、フォローして支える。

僕は博愛主義者じゃない。だれかがやらなければいけないことをやっている。

プログラムには、社会に戻った時の「幻滅撲滅セッション」も含まれる。

「職業教育をして社会復帰させても、経済状況の悪いソマリアで簡単に職は見つからないし、元テロリストだと偏見にさらされることもある。だからまず、社会に出た時に感じる幻滅を、あらかじめ防ぎ、心構えを作ってもらう必要がある」と永井は言う。

これも、ギャングたちに向き合った経験から出た発想だ。

「僕は別に博愛主義者だからギャングや投降兵と向き合っている訳ではない。テロと紛争をなくすために何が必要かを考えれば、テロ組織への脱退を促し、加入を防ぐことが重要になる」

「誰かがやらなければならないのであれば、自分たちは、その誰かになりたい。その前例がないのならば、日本発でどうにかやってやろう、と」

生まれた「世界初」の事業

国際協力の世界には、「DDR」という言葉がある。

「Disarmament, Demobilization, Reintegration(武装解除、動員解除、社会復帰)」の略語だ。

シエラレオネ、コンゴ、アフガニスタンなど内戦が終わった地域で、国連が中心となりDDRに取り組み、兵員の武装解除と社会復帰という困難な課題に挑んでいる。

だが、ソマリアでアクセプト・インターナショナルが行っているのは、「DDR」ではない。というのも、DDRの前提となる「和平合意」すら、今のソマリアには存在しないからだ。

だから掲げるのは「Deradicalization(脱過激化)」「Reinsertion(社会との接点の構築)」「Reintegration(社会への復帰点の構築)」――略して「DRR」だ。

日本で平成の世に生まれた若者たちが、世界にこれまでなかった概念を、自らの経験をもとに構築してみせたのだ。

そして、世界でテロリストの社会復帰に直接、挑んでいるNGOは、アクセプト・インターナショナル以外にほとんどない。

世界中のNGOが尻込みしてきたソマリアでの、新たな理念に基づく直接支援。その取り組みに対して、紛争地帯を取材しようとするジャーナリストの渡航を妨げるほど「安全」を至上命題とする日本政府の内部にも、理解者がひろがりつつある。

挑戦は、まだ始まったばかりだ。



〈編集後記〉

永井陽右さんと知り合ったのは、2017年春のことだ。

中東・アフリカなど危険地での報道を考えるシンポの打ち上げで、隣に爽やかな笑顔の背が高い若者が座った。大学院生かと思って声をかけると、「団体をつくって、ソマリアで支援活動をしています」と言われ、驚いた。

私は中東やアフリカ、南アジアなどの紛争地で取材するようになり、約20年になる。それでも、ソマリアには行ったことがなかった。ソマリアで活動する日本のNGOがあることも知らなかった。

「ソマリアって危ないでしょ?」「危ないですよ」。そんなことは分かっている、という風に、彼はあっさりと言った。

現地での安全対策などを聞くと、確かにしっかりとしていた。

支援活動のプロとして覚悟を決め、準備を重ねたうえで行動していることは、様々な手段で安全を確保しつつ紛争地取材の経験を重ねてきた私にも、すぐ分かった。

いつか、この人の取り組みをもっと広めたい。そう思っていた機会がやってきた。

《永井陽右》

1991年神奈川県生まれ。2011年に早稲田大学に入学。この年秋にソマリア人留学生らと「日本ソマリア青年機構」を設立し、ソマリアへの支援活動を始める。2015年、早大を卒業し、英ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に留学。2017年に「アクセプト・インターナショナル」発足。国連人間居住計画(UNハビタット)の暴力的過激主義対策(CVE)メンターでもある。著書に『ぼくは13歳、任務は自爆テロ。: テロと戦争をなくすために必要なこと』(合同出版)、『僕らはソマリアギャングと夢を語る--「テロリストではない未来」をつくる挑戦』(英治出版)がある。