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日本とあの国の狭間にいた少女の「ふるさと」への悩みを氷解させたのは、スタバだった

6歳で出稼ぎの両親に連れられて来日し、日本で教育を受けて育ったイラン出身の女性は今、「イラン系日本人」として生きる。

6歳でイランから日本にやってきた少女は、3年のブランクを経て日本での教育を受けられるようになった。自分とは何者なのか。揺れ動く思いを抱えながら成長した。その悩みに答えを出したのは、東京のスターバックスで働いた体験だったという。

1984年生まれのナディさんは、イランから日本に出稼ぎに来た両親に連れられて6歳の時に来日した。

高校生のころ、家族揃って在留特別許可を得た。国内の大学を卒業し、都内の大手メーカーに正社員として就職。日本国籍の男性と結婚して二人の子を育てながら働く、日本社会の一員だ。

6月17日、その経験をつづった著書「ふるさとって呼んでもいいですか 6歳で『移民』になった私の物語」(大月書店)を出版した。

ナディさんに、「ふるさと」と呼ぶ日本社会への思いを聞いた。

戦争に翻弄されて日本へ

ナディさんの父親は、祖父から受け継いだお店を経営していたが、イラン経済の低迷などからうまくいかなくなり、借金を抱えて店を閉じた。家を売り、父はタクシーの運転手となった。それでも生活は立て直せず、日本に、出稼ぎに出ることになった。父親が、近所に住んでいた人が日本に出稼ぎに出ていたことを聞いたのだ。1991年のことだ。

当時、イランと日本の間には査証免除協定があり、短期滞在であれば相互に事前にビザを取得する必要が無かった。イラン・イラク戦争(1980−88年)や米国の経済封鎖などでイラン社会が疲弊するなか、多くのイラン人が日本に向かっていた。

まだバブルの余韻が残っていた日本は当時、建設や製造業などで人手不足が続いていた。企業は正規の労働ビザがなくても、イラン人を必要として次々と雇っていたのだ。

両親と当時6歳のナディさん、幼い弟2人の5人家族みんなでで、日本に向かうことにした。

ナディさんがこの時、日本について知っていたのは、当時イランのテレビで大人気だったNHKのドラマ「おしん」と、アニメの「みなしごハッチ」といったテレビ番組のことだけ。「私もハッチやおしんがいる国に行けるんだ。着物を着るのかな」と素直に喜んだ。

一家は入国審査で4時間足止めされたが、結局入国を認められた。当時は労働力不足の現実の中で「黙認」に近い状況があったのだ。

首都圏近郊のイラン人が多く暮らすアパートに落ち着き、日本での暮らしが始まった。両親は日中、日本企業の工場で働いた。ナディさんは自宅で弟たちの面倒を見た。周囲のイラン人や日本人、アパートの大家さんが、何かあれば手助けしてくれた。

公園で遊ぶと、同世代の日本人の子どもたちとも友達になり、少しずつ日本語も話せるようになっていった。だが、ナディさんには、やりたいことが一つあった。

学校に行きたい

ナディさんはそれまで暮らしていたイランの首都テヘランで、小学校に通っていた。

しかし日本では、両親は日本語が十分わからず、日本の行政や教育の仕組みも知らないし、そもそも身を隠しながらの出稼ぎの身だ。学校に通わせられるかどうかを役所に問い合わせることすらできなかった。

テレビで毎週見る「ちびまる子ちゃん」には、小学校から男女別学のイランとは違い、女の子と男の子が同じ教室で学ぶ、楽しそうな学校生活が描かれていた。

「私も日本の学校に行きたい」。そう思うようになった。

両親は近くの公民館で開かれる週1回のボランティア日本語教室に通い始めた。ナディさんたちも一緒に行くと、イラン人や中国人、ボランティアスタッフの日本人の子どもたちも、親に連れられて集まっていた。友達の輪が拡がり、集まる子どもの数が増えると、子どもの日本語教室も開かれるようになった。

ナディさんは母親から「日本語のスピーチコンテストに出てみない?そこで学校に行きたいと言うと、もしかしたら行けるようになるかもしれないよ」と声を掛けられた。

やるしかない、と思い、最年少の参加者として「学校に行きたいです」とスピーチした。その後も、日本語教室に通いながら、スピーチコンテストがあれば「学校に行きたい」と話した。

ついに願いが叶い学校へ

願いが叶ったのは、日本に来て3年後の1994年のことだった。スピーチを聞いた地元の人が役所に掛け合い、本当に学校に通えることになったのだ。

10歳になっていたが、それまで学校に通えていなかったこともあり、3年生として入学することになった。

先生に連れられて、緊張しながら教室に入った。

「なんだ、転校生ってナディだったのか」と声が上がった。近所の公園で知り合った友達が、何人も同じクラスにいたのだ。日本語の会話には不自由しなくなっていたナディさんは、人間関係の面では、すんなりと馴染むことができたという。

「私は何者なのか」揺れる思い


一方、成長して小学校高学年になると直面したのが、イラン人、イスラム教徒としての自分と、ずっと暮らしてきた日本社会、特に学校生活との折り合いだった。

イスラム教徒にとって、豚肉を食べることは禁忌だ。そして女性が肌を露出するのも避けるべきとされる。

一方で当時、学校では「給食は残さず食べましょう」と指導される時代だった。体育の授業も、女子は身体にぴったりとしたブルマーが当たり前だった。スクール水着も両手・両足が露出する。

先生に勇気を出して、ブルマーやスクール水着は避けたい、給食も豚肉は食べないようにしたいと言うと、「いいよ」とあっさり言われた。

当時、社会全体でもブルマーの廃止論が高まっていた。そして、いまやブルマーを女子の体操着に指定する学校はない。ナディさんという「多様性」が存在したことで、この教室は世の動きを先取りできたのだ。

中学に進学すると、バレーボール部に入りたいと思った。だが、ユニフォームはブルマー。チームが同じユニフォームを着ないと大会に出場できない。バレーを諦め、ユニフォームの裾の長いソフトボール部に入った。

服装の問題で好きな部活を選べないことが、新たな壁としてのしかかってきた。

それまでは「自分はイラン人なんだから仕方ない」と思っていた。しかし、「どれだけ一緒にいても、自分はガイジンで、日本人じゃない」。そんな思いが頭を支配するようになった。

ついに見つけた答え〜日本が「ふるさと」に

ナディさん一家は、高校生のときに在留特別許可を認められ、日本で安定して暮らし、働き、学ぶことができるようになった。日本に来て、11年目のことだった。外国人支援を続ける市民団体が、一斉申請を呼びかけ、それに加わったのだ。

入管政策は近年、「技能実習生」や「留学生」などの滞在資格を持つ外国人とそれ以外を切り分け、後者に対しては難民申請者を含め厳格化の流れが続いている。しかし、当時は「バブル期に3K職場を支え、日本で育った子どもたちとともに地域社会で生きてきた非正規滞在の外国人を救済すべき」という意見が社会でも強かったのだ。

自分は何者なのか。

抱え続けた疑問に答えが出たのは、大学生になって東京・新宿のスターバックスコーヒーでアルバイトした時のことだった。

多国籍企業だけに、バイトに応募した段階で「外国人だからだめ」と断られることは無かった。


そして、店内には客もスタッフも、さまざまな国の出身の人がいた。スペイン人の客に「スペイン人ですか?」と聞かれ、トルコ人の客には「トルコ人?」と尋ねられた。

ある日、面接に女性がやってきた。イラン人のように見えたので声をかけたら、イタリア人だった。その女性からは「あなた、イタリア人かと思った」と逆に言われた。

自分は色んな国の人に自国民だと思われる。自分もほかの人のことを見て、国名を当てることは難しい。自分にもみんなにも、いろんな要素があるのだ。

自分がこだわってきた「国」や「顔」って、何だったのだろう。「イラン人」と「日本人」のどちらか100%に自分を当てはめようとしてきたこと自体が間違いだった、と気づいた。

そして、思った。

「自分はイラン生まれで日本育ち。中身はほぼ日本人で、イラン系日本人なんだ」

日本は彼女にとって、心から「ふるさと」と呼べる地となった。

それが、著書のタイトルの意味だ。

日本社会の一員として思う、支え合うことの大切さ

ナディさんは都内の大手メーカーにエンジニアとして就職した。日本国籍の男性と知り合って結婚。勤務を続けながら、次世代を担う2人の幼い子どもたちを育てている。

ナディさんが日本で安定した生活ができるようになった要因の一つは、きちんと学校教育を受けられたことにある。

「私は日本で、周りのひとたちに助けられた。それを心から感謝している」。だからこそ、外国出身の子どもたちへの教育支援は、絶対に欠かせない急務だと感じている。

外国出身の子どもたちの教育を巡っては、2019年6月に新たな動きが起きた。

国会で、在日外国人の大人や子どもに対し、日本語教育を政府と自治体が主体的に進めることを求める「日本語教育推進法」が成立したのだ。

これまで、日本語教育は自治体や学校の現場の努力やNGO、ボランティアによってなんとか支えられてきた、ナディさんが最初に日本語を学んだのも、ボランティアの教室だった。

これからは、政府と自治体が日本語教育に予算を付けて関与し、外国人の雇用主にも支援を求めることになる。

一方で日本政府は、2019年4月から外国人政策を転換し、外国人労働者の受け入れを始めている。今後5年間だけで、34万5千人の外国人労働者を受け入れる予定だ。日本で育つ外国籍の子どもたちがますます増えていくことは、確実だ。

義務教育年齢にある外国籍の子どもたちのうち約1万8千人の就学実態が分かっておらず、多くは幼い頃のナディさんのように、未就学の可能性がある。実態把握のため、文部科学省が調査に乗り出している

ナディさんは言う。「国際化とは、日本人が外国に出て行くことだけではなく、日本に住む外国人や、異文化をルーツにした人が増えることも意味する」

「この『内なる国際化』が進んでいることをきちんと見据える必要がある。日本はもう多文化社会で、外国人は隣人となっている」

「在留特別許可を受けたことへの感謝も、ずっと変わらない。日本の役に立とうと頑張ってきたし、これからもずっとそうです。しかし、私やほかの外国人の人権は、それぞれの国に置いてきたものではありません。みんな、同じ権利を持った人間です。聞こえにくい子どもたちの声に、耳を澄ませてほしい」