「タリバン2.0」を安易に信用できない、これだけの理由。アフガニスタンの女子教育や民主主義はどうなる?

    タリバンの復権で、女性の権利などがどうなるか、アフガン国内や国際社会の懸念が強まっている。タリバンは会見で「イスラム法の枠内で尊重する」と述べた。その意味は。

    アフガニスタンで、アメリカや日本など国際社会が支えてきたガニ政権が崩壊した。イスラム勢力タリバンが20年ぶりに首都カブールに入り、復権した。

    独自のイスラム解釈を取り、かつて「女子教育の禁止」などで国際的な批判をあびたタリバン。その支配が再確立すると、市民の暮らしはどうなるのか。

    タリバンはカブールで記者会見し、「女性の権利を保障する」と語った。そして、「ただし、シャリーア(イスラム法)の枠内で」と付け加えた。

    何を意味するのか。

    タリバン支配を恐れる人々

    タリバンの復権で、首都カブールの空港では国外に脱出しようとする市民が殺到した。

    多くの避難者を乗せた米軍輸送機が離陸する際は、乗れなかった市民らが飛行機の周りを取り囲んで走った。機体にしがみつき、飛び立ったあとに振り落とされて亡くなった人がいるとの報道もある。

    混乱のなかで外国のビザ取得は難しく、民間航空機は運航を中止。ほとんどの市民にとって、為す術もない状況だ。

    なぜ人々は母国を離れようとするのか。

    理由の一つは、1996年から2001年までタリバンが首都カブールと国土の大半を支配した時代、シャリーア(イスラム法)による統治を急ぎ、彼らが「反イスラム」「非イスラム」と考えることを次々と禁じたことにある。

    タリバンは当時、10歳以上の女子が登校することを禁じ、顔や髪をベール(特に顔と身体全体をすっぽりと覆うブルカ)で隠すよう命じた。男女を問わず歌謡曲を聞いたり歌ったりすることや踊ること、映画の上映、さらに伝統的な遊びのたこ揚げを禁止するなど、抑圧的な姿勢を取った。

    特に国際的な非難を浴びた女子の登校禁止について、タリバンは当時、「教育は重要だが、男女は一定年齢になれば教室でも同席すべきではない。いまは女子を教育する施設や人員が足りないため、男子の教育を先行させている」と釈明していた。

    こんな時代が、再びやってくるのだろうか。

    タリバンが記者会見

    タリバンは8月17日、カブールで記者会見を開き、ザビフッラー・ムジャーヒド報道官が質問に答えた。

    同報道官はそれまで、報道陣に声明文を出したり電話に応答することはあっても、公然と姿を現したことはなかった。

    「我々は報復を求めない。米軍に協力した者を含め、全員に恩赦を与える」と語り、社会の動揺を鎮めようとした。

    女性の権利について、こう語った。

    「我々は女性の権利を尊重する。女性は社会のカギを握る要素だ。女性は働き、学校に行くことができる。学校や病院などで、女性は我々と肩を並べて働くことになる。国際社会に対しても保障する。我々は女性に対する差別を認めない」

    そして、この条件を付け加えた。

    「女性にはシャリーアの枠内で、全ての権利を保障する」

    シャリーアとは

    シャリーアとは、「イスラム法」を意味する。

    タリバンが属し、イスラム教徒全体の9割を占めるスンニ派の場合、聖典コーランと預言者ムハンマドの慣行(スンナ)、それらに基づくイスラム法学者による合意、類推などからなる、幅広く巨大な知的体系。それがイスラム法だ。

    日本の憲法や刑法のように、条文ごとに整理されたものではない。聖典コーランに示された神の啓示を基本とし、口伝などで伝承されてきた預言者ムハンマドの言動や規範、これらを踏まえたイスラム法学者の解釈なども重要になる。スンニ派だけで、主要法学派は4つある。

    法学者によって異なる見解(ファトワ)が出ることは珍しくない。

    エジプトなどでは、例えば離婚で揉めた夫婦それぞれが、自分に有利なファトワを求めてイスラム法学者を訪ね歩くことがある。皮肉を込め「ファトワ・ショッピング」と呼ばれる。それも、シャリーアの枠内での出来事なのだ。

    イスラム教でもイランなどのシーア派では異なる部分もあるが、コーランとスンナを重視する点は同じだ。

    イスラムとジェンダーについて研究している東京外国語大の後藤絵美助教は、「シャリーアの枠内と言っても、実は広い」と語る。

    「女性の権利や地位に関しても、時代によっても社会によっても人によっても、解釈は変わっています」

    「例えばエジプトの著名な法学者ムハンマド・ガザーリ(1917−1996)の変遷を見ても、1950年代と80年代を比較すると、本人がシャリーアだという中身は変わっている。シャリーアの定義は社会の中でも1人の学者の中でも変わっていることが、歴史的に証明されている」という。

    タリバンの言う「シャリーアの枠内」とは、何を意味するのか。

    「現段階では、タリバンは具体的には何も言っていないのに等しい」と、後藤さんは指摘する。

    何が「シャリーアの枠」なのかは、タリバンと、そのイスラム法学者が決めることになる。しかし、どの部分をどう解釈して社会に適用するのか、会見では具体論にほとんど触れなかったからだ。

    タリバンとは

    タリバンは1990年代中盤、パキスタン西部の難民キャンプで暮らすアフガン人や、アフガン東部の農村地帯で、若い世代や貧困層を中心に広がった。アフガンの人口の4割ほどを占めるパシュトゥン人が中心の組織だ。

    当時のアフガニスタンは、平定を目指して1979年に侵攻したソ連軍が各地でイスラム勢力のゲリラ戦に敗北し、1989年に撤退したばかり。ソ連と闘った各勢力が軍閥を作って争う「戦国時代」だった。暴力的で住民にワイロを要求したりする軍閥は珍しくなく、国土も人心も荒廃した。

    そんな状況の中でタリバンは「イスラムの教えに従った統治」を掲げた。ほかの軍閥に比べれば腐敗しておらず、「戒律」を掲げて治安維持能力もあったことから、支持を集めるようになった。

    アフガンは「刀狩り」の行われたことがない社会。警察や行政機構は昔から頼りにならず、農民も銃を持ち自衛している。人々をつなぎ、支えるのは、地縁や血縁、そして部族の輪だ。タリバンに賛同した農民が納屋から銃を取り出せば、「タリバン戦士」が誕生したことになる。

    タリバンの思想には、パシュトゥン人社会の伝統的な価値観と、彼らの考える「イスラム」が融合している。

    アフガンやパキスタン周辺では当時、サウジアラビアが資金面などでさまざまな援助を行っていた。サウジ出身のオサマ・ビンラディン(のちのアルカイダ指導者)らイスラム過激派もいた。これらの影響も受けたとみられる。

    サウジでは、スンニ派の中でも復古的、保守的な解釈が力を持ってきた。

    「保守的な解釈者の多くは、預言者ムハンマドに神の啓示としてコーランが下った7世紀当時の状況を再現することを『シャリーアの実現』と考える」(後藤さん)

    そんな組織が1996年、パシュトゥン人以外の民族やシーア派、欧米的な考えを持つ人が多く集まる首都カブールを占領。国土の9割近くを実効支配し、自分たちが考える「シャリーアの実現」を行おうとした。

    しかし、当時のタリバンを「アフガンの正統政権」と認めたのはサウジアラビア、パキスタン、アラブ首長国連邦の3カ国に留まり、国際的に孤立した。日本政府も承認しなかった。

    こうした孤立と国内外での批判。さらに2001年9月の米同時多発テロを計画したオサマ・ビンラディンとアルカイダを保護したことで米軍の侵攻を受け、同年11月に第1次タリバン政権は崩壊。東部の山岳地帯などに潜んだ。

    タリバン1.0の単純思考

    当時のタリバンの発想を象徴するのが、第1次政権の座にあった2001年2月に行った、中部バーミヤンにある世界遺産、大仏の爆破だ。

    計画が伝わると日本をはじめ国際的な批判が強まり、イスラム圏でも強い反発の声が出た。中止させるべくタリバンの説得に動く著名なアラブ人イスラム法学者もいた。それでも「偶像崇拝は反イスラム」として、大仏の爆破を強行した。

    タリバンが大仏を爆破したのは、タリバンのイスラム法学者らが「反イスラム」「非イスラム」と考えたからだ。

    確かにイスラム教は、偶像崇拝を禁じている。とはいえ、バーミヤンに多いハザラ人という少数民族もイスラム教徒(シーア派)で、大仏を崇拝していたわけではない。

    イランやエジプトなどのイスラム圏で、ピラミッドなどイスラム以前の遺跡は保存され、一般に公開されている。破壊を求める過激勢力も存在はするが、社会の中で大きな声にはならない。遺跡は宗教の枠を離れた貴重な文化財であり、観光資源でもあるからだ。

    自分たちが考える「シャリーア」を「絶対善」とし、ほかの価値観は一切認めない。それが、タリバンの基本的な態度だった。

    保守的で硬直した価値観から離れ、人類の文化史を鑑みて文化財として大仏を保存するという「複線思考」は、当時のタリバンにはできなかったのだ。

    タリバン2.0?

    それでは、タリバンはこれからどう振る舞うのか。

    東京外大の後藤さんは、「タリバンがこれからどうするのか、まだ分からない。しかし、タリバンは会見で、西洋的な言葉遣いをしたりして、対外的に配慮しているような部分があった。以前とは変わった可能性はある」とみる。

    2度目の首都掌握までの20年間、タリバンはアフガンの地方部で拠点を広げる一方、カタールのドーハに政治事務所を開設。ロシアや中国など各国を訪問。2012年にはアフガン和平の国際会議に出席するため、日本も訪れた。米国とも長期にわたり交渉を続けた。

    国際社会と触れ、協議する経験を積んだ点は、農村や難民キャンプから出てきた野武士のような「イスラム戦士」の集団だった1996年とは異なる。

    少なくとも8月17日の会見では、20年前の生硬さは和らいだ印象を受ける。

    では、実践面で「タリバン2.0」は、どうなるのか。変化の兆しはなくもない。

    2020年12月、タリバンはその支配地域内で4000の非公式な学校を開設し、女子も通えるようにするという合意を、国連児童基金(ユニセフ)と結んでいる

    2021年8月のカブール掌握直前には、タリバンのザビフッラー・ムジャーヒド報道官が時事通信の取材に、日本政府が育成を支援してきた女性警官を含め、女性の政府職員を「必要だ」と認めた。

    以前のように、女性の就労や教育を一律に認めないという態度からは、立ち位置を変えているようだ。

    ただし、それも「シャリーアの枠内」という条件がついており、日本や欧米などで考えられるような「男女の平等」や「個人の自由」が尊重されるとは限らない。

    サウジアラビアやイランでは、男女別学ではあるとしても、女性への高等教育は行われている。医師や弁護士、研究者などとして活躍する女性は少なくない。

    サウジやイランで国際的な水準で見て女性の権利が十分に保障されているとは言い難いが、こうした保守的なイスラム教国と同程度には、女性の権利を認める可能性はあるかもしれない。

    西部ヘラートでは8月17日に学校が再開し、女子生徒が登校したという。

    また、タリバンは女性に対し、頭からすっぽりと被り全身を覆う「ブルカ」の着用は強制しない、と述べた。1990年代は、それを義務づけていた。ただし今後も、髪を覆う「ヒジャーブ」は義務としている。

    ブルカはアフガンの伝統文化の一つであり、「イスラム」と同義語ではない。

    中東のイスラム圏で、ブルカを着用する人はほとんどいない。サウジアラビアなどのニカーブも、例えばエジプトやシリアで着用する人は少ない。

    女性のベールも、イスラムの教えをどう解釈するかといった点や地域性によって、各地で実態は大きく異なるのだ。こうしたことも、この20年でタリバンは理解したのかもしれない。

    あれもこれも禁止だった1990年代の「タリバン1.0」に比べれば、前進ではある。しかし、それでもタリバンは「ベールを着用しない」という自由は認めていない。

    一連のタリバンの発言は、この20年の変化を知るアフガン都市部の人々や、留学や海外生活からの帰国などを経て国際経験を積んだ世代には、とてつもない「後退」であることは間違いない。

    懸念は内外ですでに高まっている。カブールなどでは、女性による抗議活動もすでに始まっている。

    Afghan Women to Taliban: 'Include Us In Your Govt' https://t.co/WkF1zdXKZZ

    Twitter: @TOLOnews / Via Twitter: @TOLOnews

    「私たち女性を政府に加えろ」とタリバンに抗議するカブールの女性らの様子を伝える地元メディアのツイート。

    最大の問題は、市民の自由意思の不在

    1979年のソ連軍侵攻とその後の混乱。1996年の第1次タリバン政権の樹立。米軍の侵攻による2001年11月のタリバン政権崩壊。そして2021年8月15日のタリバンによる首都再掌握。

    これらはいずれも、アフガン国民が自ら選んだ動きではない。それぞれ外国や、それと繋がる勢力が銃を向け合い、勝った者が権力を握る行動を繰り返しているのだ。

    勝者を決めるのは主に、関係国・組織の思惑や兵器や資金の供給量、各勢力の内部統率力といった要素であり、アフガニスタン国民一般の意思は、反映されていない。

    第1次タリバン政権が崩壊した2001年11月以降のアフガン復興を巡る政治プロセスに潜んでいた問題は、アフガン人が、本当の意味で自ら政権を自由に選べる選挙が行われてこなかった、という点だ。

    理由は2つある。

    タリバンは当時、「テロ勢力」「反政府勢力」として選挙から排除された。当時は「当然」「仕方ない」と受け止められた。

    新生アフガン政府はタリバンのいない選挙を経て、「民意」を踏まえたとして国際的にも正統性を認められた。しかしタリバンが地方部を中心に根強い支持を維持していたのは、ここ数ヶ月の経緯で改めて明らかになった通りだ。タリバンの価値観は、伝統的で男性優位な地方社会の価値観と共通する部分が多い。

    タリバン自身も選挙を「外国の操り人形になる道」と批判し、攻撃を続けた。有権者を脅したり、場合によってはテロで殺害したりし、選挙参加そのものを阻止しようとした。タリバンを離れて選挙に立候補した人物が殺害されることもあった。

    タリバンは2021年3月にも、選挙参加の呼びかけに「そのようなこと(選挙)は、かつてこの国を危機に追い込んだ」と拒否した。

    もし国際社会が20年前、タリバンをいたずらに排除せず、一部でも政党として選挙参加するよう、説得できていたら。

    そしてタリバン自らが、選挙の意味と利点を理解して尊重する姿勢を見せていたら。

    アフガン情勢はここまで暴力的な展開にならかなかったかもしれない。

    選挙とは、暴力的な政変に頼らずとも、有権者が平和的な投票で意思を示して政権を変えることができるようにするという、人類が作り上げた一つの知恵だ。選挙を通じた平和的な政権交代が初めて確立したのは、1800年のアメリカ大統領選だった。

    民主主義と自由選挙の効用の一つは、無為に人命が失われることを防ぐことにある。私は中東と南アジアでテロや政変を見続けてきた20年の取材経験を通じ、そう考えている。それはミャンマーのクーデターや、自由選挙が奪われた香港の現状を見ても明らかだ。

    タリバン幹部はすでに「民主主義は導入しない」と発言している。「西洋のもの」とみているのだ。

    どんな政権も永遠には続かない。タリバンが選挙への態度を変えなければ、アフガンの人々はいつの日か、またも暴力でタリバンを追放するしかなくなる。その時、どれほどの血が流れることになるだろう。

    このままでは極めて残念ながら、アフガンに最終的な和平が訪れることはない。私は現段階でそう考えている。

    「タリバン=イスラムの代表」ではない

    もう一つ指摘したいのは、タリバンは彼らが考えるイスラム解釈に基づいた社会建設を目指す集団であるものの、世界のイスラム教徒が一致して支持するイスラム社会の像ではない、ということだ。

    タリバンのことを抑圧的だと訴えるアフガン人のほとんどは敬虔なイスラム教徒。しかし、イスラム教徒として目指す社会像が違うから、タリバンを批判する。「イスラム」はタリバンだけのものではない。

    筆者はタリバンを支持する立場には立たない。彼らがどう振る舞うか、アフガン社会がどうなっていくか、重大な懸念を持っている。

    しかし、タリバンの行動をもって「だからイスラム教は」と一般化するのは、間違いだ。