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「しかたない」を乗り越える。誰もが生きることを脅かされないために

相模原事件から1年。「障害者は不幸しか作れない」と名指しされた一人として、今伝えたい言葉

私は全身の筋肉が正常に作られず体が動かせなくなる難病「筋ジストロフィー」を抱えながら生きています。人工呼吸器を使って呼吸し、食事は胃に開けた口(胃瘻)から栄養を入れて、24時間、生活動作の全てに介助を得ながら暮らしています。2013年に第一詩集を刊行してからは、詩やエッセイの著述を仕事にしています。

昨年の7月26日、相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」に入所する重度障害者19人が元職員の男に殺害され、入所者と職員の27人が負傷しました。1人1人、精一杯に生きていただけなのに、彼の暴力によって命と人生を奪われた理不尽を思うと怒りがこみ上げます。

事件から1年になるにあたってあらためて、被害に遭われた方々の心の回復と、亡くなられた方々のご冥福を祈りたいと思います。

今年7月、時事通信の報道 では、彼が取材に応じて書いた手紙に重度・重複障害者を「人の幸せを奪い、不幸をばらまく存在」と犯行時と変わらぬ自説を繰り返し、今の拘置所での生活については、「息の詰まる生活に嫌気がさす」「時折外の生活を恋しく思う」と言及していると伝えられています。

“息の詰まる生活が嫌になり、外の生活が恋しくてたまらなくなる”

閉ざされた空間、生活を否応なしに制限され、限られた特定の人としか関わりを持ちにくい状況で生きることがどれほど辛いか。

自ら招いた結果として拘留されている彼と、望んでなったわけではない障害者の不自由さを同列に扱うことはできませんが、今、彼が感じている生活の自由を失っている苦しみは、重度の障害を持つ人も社会のバリアに日常的に突き当たりながら、感じているのです。

障害の程度で人の幸不幸を決めつけ、生きてよい命、いないほうがよい命と選別していく発想を彼だけが抱いているのではないのは、事件後、彼に対して一定の共感を示す人がいたことでも分かります。

またそこまでではないにしろ、日常生活の様々な局面で障害を理由に制限された暮らしを強いられている状況を「しかたない」と容認してしまう考えが、多くの人に無関心という形で現れているのを残念に思います。

24時間ヘルパー介護支給の実現

事件のあった頃、私は地域での自立した生活を実現するために、住んでいる市に終日ヘルパー介護の支給を求める準備をしていました。

病状が進んできた頃から30年もの間、両親による介助に頼りながら暮らしてきましたが、その父と母も70代半ば。体力の衰えに加えて、頚椎の病気や関節リウマチなどの持病も悪化し、これ以上、介助を担い続けることができなくなっていたからです。

難病と付き合いながら、ヘルパー介助を得て自分の暮らしを作ろうとしていたなかで、「そこまでして生きていられては社会の迷惑なんだよ」と、彼を通して現れたかのような冷酷な悪意に、暗澹たる気持ちになりました。

昨年9月、市に夜間も含めた24時間のヘルパー介護を求める申請をしました。

ほぼ全身が動かず常に人工呼吸器を使って、家族も健康状態の悪化で介助ができない状況のもと、介助者不在の時間が生じることは命の危険すらあるにも関わらず、当初は認められませんでした。

気管切開をしておらず、鼻マスク式の人工呼吸器を使っていて痰の吸引が多くない人には、24時間介護の支給は適用できないというのです。

主治医から必要性の根拠となる意見が伝えられたり、障害者の介護保障に取り組む弁護士に支援を依頼したり、福祉行政の改善を市議会議員に働きかけたりするなど、あきらめずに交渉を重ねたすえ市の理解が深まり、今年の3月に満額で支給決定を得ることができました。

全国では重度障害者が親元でも病院・施設でもなく、24時間のヘルパー介助によって自立した生活を実現しているなかで、自分の町でできない理由はありません。「しかたない」にしないで声を出すことの有効性を身をもって感じました。

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終日ヘルパーが訪問することになって、「夜、起こされず心配なく眠れる。気持ちも体も本当に楽になった」と、両親がしみじみと話すのを聞いて私も安心しました。辛い痛みと睡眠不足を我慢し、深夜に起きてふらつきながら介助を続けてきた両親が倒れてしまう前に、間に合ってよかったと思います。

介助を得て暮らすようになって、定期的にケア担当者会議を開いています。家族と、医療と介護、福祉に関わる支援者たちが自宅に集まって、ケアの支援を受けながら自分の生活をどのように作っていくか話し合います。

ベッドのかたわらに、居室いっぱいになるほど人が集まるのを見るたび、障害と共に生きるためにはどうしたらよいのか。目の前に可視化されているように思います。

声を上げるというのは一歩踏みだし、風を受けて進むこと

先月、航空会社バニラエアが国内線「関西空港─奄美空港」において、介助のサポートがあっても自力でタラップを上り下りできない障害者の搭乗を、事前連絡のあるなしに関わらず拒否していたことがニュースで報じられました。

車いす使用の男性が現地で搭乗を拒まれたため、思い切って腕力だけでタラップを上った大胆な行動もあり注目を集めました。

飛行機の性質上、安全を確保する細かい決まりを守って利用するのは当然ですが、このケースでは運行者が備えるべき設備を用意しておらず事実上の門前払いになっていたのが問題です。 

バリアを取り除くための合理的配慮があればできることなのに、できないことにしておくのは「しかたない」の困ったところだと思います。

現在、設備が備えられて問題は解消されたそうですが、声を受けて課題が速やかに改められたことに明るさを感じます。

周囲と波風を起こさないのが生きる術になりがちな障害者自身、すでにある枠組みがいかに酷いものでも、その範囲内に自分の暮らしを小さく押し込めるのが染みついている場合があるでしょう。

そのせいで気づかぬうちに、自分で自分の障害を5割増しにしてしまう。厳しい生活環境のもとで、黙って耐えている人は少なくないと思います。

バニラエアの搭乗拒否では、「物言う態度が悪い」「いきなり現場で抗議するのはどうなのか」「クレーマーに遭って会社も気の毒」など、声を上げた人も非難を受けました。

しかし、相手側の手順に則って窓口を通して声を上げていたのでは、ものごとを変えられない場合もあるのではないでしょうか。

設けられている窓口は与えられたマニュアル以上のことは立場上できないので、声を受けて課題を分かっていたのだとしても、杓子定規に従来の対応をなぞるだけになりがちです。

私も24時間介護の支給が難航していたとき、窓口の区を通して市に理解を求める道筋だけではなく、市の障害者福祉行政の責任ある人にダイレクトに働きかけたことで、大きな改善の決定を得ることができました。

障害があっても行ける場所を広げていくためにバリアを取り除くことは、新しい航海地図を作るようなものだと思います。バニラエアの問題は「しかたない」の壁を前に、引き下がらないで声を出していけば世界を広げられると示してくれたように思います。

誰かがやってくれるだろうと待っていても変わらない。声を上げるというのは一歩踏みだし、風を受けて進んでいくことなのかもしれません。

生きる喜びにつながるものは、言葉のあるなしに関わらない

私は10年前から定期的に外出できる体制が整い、行動範囲が広がりました。ヘルパー2人がついて介助し、歩いて行けない距離の場合はリフト付きの介護タクシーを手配して移動します。現在は介助者不足もあり、月2回ほどの外出機会を確保するのに留まっていますが、今後増やしていこうと計画しています

今年の春は、海を見たいと思って友人と松島に行ってきました。

ゆっくりと海に行くのは、子どもの頃以来です。親に連れられて行ったのがおぼろな記憶に残っています。

船着き場の先まで行くと寝台型の車いすでも海を間近に眺めることができます。

小波が常に変化しながら美しく打ち寄せて、一つの波がまた他の波を呼んで無数につながり広がっていく水面を見つめていました。曇り空で少し風のある日でしたが、海風に吹かれて心地よさを感じながらいつまでも佇んでいたくなります。

掛けていたブランケットが風に飛ばされてふわっと海に落ちてしまうハプニングがあって、ヘルパーさんが青い顔しているところに、そばにいた船の乗員さんがすぐに気がついて長い棒で拾い上げてくれました。

「押さえられなくてすみません……」

「いや、まあこんなこともありますよ」

「これも旅の思い出ですね。寒くない? ストール貸しましょう」

「あ、ちょうどいい。ありがとう」

こうした日常の何でもないできごとや会話が生活をつくっていきます。

また別の日、近所の小さな公園まで散歩したときには、下校中の小学1年生の子たちに出会いました。

仲良しらしい友達3人組のようです。おしゃべりしながら通りかかると話しかけてきました。車輪付きの小さなベッドに寝ていて、人工呼吸器のホースや顔に鼻マスクをした私の様子が珍しくて興味をもったのでしょう。

「ねえねえ、何してるの?」

「どうして寝てるの? 具合が悪いの?」

気持ちよいくらい、遠慮なしに素直に聞いてきます。

にこにこと私や母、ヘルパーさんが答えます。

「お花見に来たんだよ」

「元気だけど、病気でこうしてるんだよ」

ひとしきり会話していると、一人の子が道端で摘んできたと思われるタンポポをプレゼントしてくれました。子どものたわいない気まぐれだったのかもしれませんが、自然に何のためらいもなく自分が持っている花を差し出す様子に心を動かされました。

外気を、自然を感じること、何が起こるか分からないという偶然、やり取りの間合い、表情、しぐさ、言葉のあるなしに関わらないすべてが生きることの喜びにつながります。

それはきっと相模原事件で命を奪われた人たちも感じていたことだと思うのです。

多くの人と出会い、つながり、自分の命と人生を生きる

「あなたは幸せですか?」と唐突に問われたら、たいていの人は戸惑われるでしょう。幸せというのはひとことで言葉にしがたいもので、生活の中のささいなことから本人しか感じとれないもの、気づくと差し出されていた一輪の花のようなものではないでしょうか。

私は治らない病気持ちで、寝たきりで体が動かず、できないことが山のようにあり、この先いつまで元気か分かりません。暮らしの中で耐えがたい苦しみを感じるときも多いですが、けっして不幸ではありません。

どんな環境でも良いことばかり、笑ってばかりで生きられる「温室」などありません。もしそんな温室パラダイスがあったとしたら、人生を奪う牢獄のようなものです。私なら波風や危険に満ちていたのだとしても壁の向こう側に飛び出して行きます。

この世界に生まれたからには、禍福こもごもあるなかで人は生きるものだと思います。人によっていくつかの局面において、苦しみや悲しみが多いことはあるでしょう。だからといって、それだけで不幸なのかといえば、そうではない。

くるしいも波

かなしいも波

たのしいも波

うれしいも波

だから漕ぎ続けてる

岩崎航詩集『点滴ポール 生き抜くという旗印』(ナナロク社)より

「障害者は本人にも周りにも不幸をもたらすから生きていてもしかたない」と、自分が見てきた狭い風景をもとに断定することこそ、社会を不幸にするのではないでしょうか。

治らない病気や重い障害を持っていても、命や暮らしが脅かされず生きられる世の中は、誰にもいつかは必ず訪れる自分が弱った状況に置かれたとき、人を生きやすくすると思います。

「面倒な存在なら排除すればよい」とする前に、なぜ苦しみが生じて不幸にも思える状況がそこにあり続けているのかを見つめて、改めていく力をどれほど尽くしているでしょうか。

「しかたない」を乗り越えるには、互いに地続きの生活の場で、1人1人多様な不自由を抱えて生きる者の存在に、多くの人が出会っていくしか道はないように思います。

出会うことができたなら、立ち止まって、どうすれば状況を変えられるか一緒に考えはじめるでしょう。少なくとも通り過ぎて問題ないことにはできなくなるのではないでしょうか。

「障害者は不幸しか作れない、社会のためにいなくなったほうがよい」

このような考えかたがあるのなら、私は彼に名指しされた障害者の一人として、社会の真っただ中で生きて対抗しようと思います。

「多くの人と出会い、つながり、自分の命と人生をあきらめずに生きる」

これは障害を持って生きる者の仕事です。人に助けてもらうばかりで肩身が狭いと負い目に思うことはありません。顔を上げて生きたいと思います。

岩崎 航(いわさき・わたる)

1976年、仙台市生まれ。詩人。筋ジストロフィーのため胃瘻と人工呼吸器を使用し24時間介助を得ながら暮らす。2013年に詩集『点滴ポール 生き抜くという旗印』(ナナロク社)、15年にエッセイ集『日付の大きいカレンダー』(ナナロク社)を刊行。自立生活実現への歩みをコラム連載(16年7月~17年3月/ヨミドクター「岩崎航の航海日誌」、17年5月~/note「続・岩崎航の航海日誌」)。16年、創作の日々がNHK「ETV特集」でドキュメンタリーとして全国放送された。公式ブログ「航のSKY NOTE」、Twitter @iwasakiwataru