10月25日から11月3日にかけて開催される「第30回東京国際映画祭」。目玉企画の一つとして映画監督・原恵一さんのアニメーション特集が開催される。
原さんは「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲」など一連のクレヨンしんちゃんの映画で注目を浴び、その後「河童のクゥと夏休み」「カラフル」「百日紅〜Miss HOKUSAI〜 」と国内外で評価の高い作品を手がけてきた。
そんな原さんは、かつて所属したシンエイ動画でアニメ「ドラえもん」「エスパー魔美」などの藤子・F・不二雄原作の作品に関わってきた。
BuzzFeed Newsではクレヨンしんちゃん以前の、原さんの原点ともいえる藤子作品について聞いた。
——原さんは、もともと藤子・F・不二雄先生(以下・藤子先生)の作品はお好きだったんですか?
リアルタイムで出合ったのは「オバケのQ太郎」「パーマン」「ドラえもん」。小さいころから大好きで、今も影響を受け続けている作家です。
藤子先生の描く主人公はだいたい弱い子。さえない、平凡というか。
そういう子があるとき特別な力を得て、ダメな子なりに一生懸命、悪用ではなく誰かを助けるために力を使うあるいは人間ではない何かと出会って、その子の人生が変わっていく。そういう構図がすごく好きなんですよ。
大人向けの漫画もある時期から描くようにはなりましたけど、藤子先生は常に子供たちに向けた漫画を作り続けてきた作家。その姿勢にすごく共感、尊敬できるんです。
漫画のキャラクターは年を取らないけど、描いている作家は年をとるじゃないですか。
最後まで子供向けの作品にこだわり続けた。子供向けの作品を作る作家はすごく責任があると思うんです。それを生涯守ろうとする姿勢に僕は感動するんです。
——原さんはアニメの専門学校を卒業後、1年のCM制作会社勤務をへて、23歳でシンエイ動画に入ります。入社前「ドラえもん」はアニメより原作の方が面白いと思っていたそうですが、どのあたりが気になったのでしょう。
なんかね、愛情を感じなかったんですよね。実際にシンエイ動画で途中からドラえもんの仕事をするようになったんですけど(1983〜1986年まで演出、演出助手)、関わっている人がみんなドラえもんを大好きなわけじゃない。
それはしょうがないことで、僕がドラえもんをやるころはアニメファンから全く見向きもされてなかったんです。子供は喜んで見ているけど、大人でドラえもんが好きな人はほとんどいなかった。
僕はそこに強い憤りを感じていたんです。藤子作品は大人が読んでもよいと思っていたので。
ちょうど宮崎駿さんやAKIRA、ガンダムとか今までと違う子供向きでない作品が作られてきて、アニメを志す人も増えてきたけど、その人が憧れるのは尖った作品。
そういう人たちからみると、なんでドラえもんをやっているのと見られましたね。
——やがて「ドラえもん」の演出を手がけるようになります。
僕はドラえもんをただの子供向けの作品ではなく、自分の感じるドラえもんの楽しさを自分なりになんとかプラスアルファして作りたいと思ってました。
若かったのもあって、そのころが一番実験的なことをしていたと思います。1か月に2本くらい絵コンテを描いていたんで、今度はこういう試みをしてみようといつもやってました。
——実験的な作風が「ドラえもん」じゃないと反発も呼んだそうですが。
面白いと言ってくれる人もいたんですが、僕がやりすぎているという人もいましたね。アニメーターさんとぶつかったり。だから当然ケンカになる。
中には打ち合わせにきて、僕が絵コンテを描いたとわかると「原さんの作品はやりたいくないです」という人もいましたね。
——シンエイ動画自体は、若い原さんの考えを受け入れてくれる雰囲気だったんでしょうか?
よくいえばそう。いまはわからないですが、そのころのシンエイ動画は偉い人が自社の作品にあんまり興味をもってなかったんですよ(笑)。
だから、好きにできた。若いスタッフでより良いものを作ろうという雰囲気はあった。同じドラえもんでもほかの人が手がけた面白い作品をみると俺も負けないぞと思う。
——ライバル視していた人は?
同じ立場ではないんですけど、演出助手として関わった「ドラえもん のび太の魔界大冒険」で監督の芝山努さんの絵コンテを読んだとき、面白さに衝撃を受けました。
そこから芝山さんの絵コンテの面白さを真似して描いてましたね。時間の使い方、焦らし、緩急とか芝山さんの絵コンテはすごく面白かった。だから、こうすれば面白くなるんだとはじめてわかりました。
——そのころ、すごく絵コンテを描いていたそうですが。
ずっと描いてました。うちに帰っても描いてました。描いてないときも絵コンテのアイディアを考える。その経験はいまだに生きています。
移動中も考えていて、思いついたことを絵コンテに活かす。思いつきってピンキリなわけですよ。とりあえずアイディアを頭の中に入れます。本当に面白いアイディアはメモしなくても忘れないじゃないですか。
——自身で手がけたドラえもんの中で一番気に入っている作品はどれですか。
「ハリーのしっぽ」です。原作が好きだったのでのめり込んで、テレビサイズの倍以上の絵コンテをノリにノって描いちゃって。切る作業が大変でしたけど、思い出に残っている一本ですね。
「エスパー魔美」への抜擢と葛藤
——ドラえもんを終えた後、テレビアニメ「エスパー魔美」のチーフディレクター(監督)に抜擢されます。
エスパー魔美をシンエイ動画で作るとなったとき、プロデューサーにぜったい参加させてくださいと言ったんです。
ドラえもんと同じように演出の一人として参加するつもりだったけど、プロデューサーに「チーフディレクターでやってもらおうと思う」と言われて。あのときは本当にうれしかったですね。まさかと思って。まだ20代だったので。
でも、そこからが大変でしたよ。自分が作りたいエスパー魔美と、テレビ局やプロデューサーが目指すエスパー魔美にはズレがあったので。
——当時の雑誌のインタビューで別紙壮一プロデューサーは子供向けではなくもう少し上の年齢をターゲットに、人間愛を主体にした作品にしたいと語っていました。
そこは同じなんですが、僕は超能力少女というものをあまり前面に出しすぎない、魔美を超能力が使える平凡な中学2年生の女の子として描きたかった。
そこで地味な絵作りをしていたら「地味すぎる」「もっと派手にしてほしい」と散々言われて。最初はうれしくてワクワク、ウキウキ仕事をしていたんですけど、だんだんズレがわかってきて、1話のオンエア前にもうやめようと。本当に嫌になっちゃったんですね。そこは自分で我慢したんですけど。
——放送した2年半の間でも、魔美をやめたいと思いましたか?
やめたいとは思わなかったです。出来上がったものを見たプロデューサーやテレビ局の人がだんだん納得していってくれた。それで最後まで続けられました。
ただ一人で絵コンテを描くわけではなく、何人かの演出家や絵コンテを描く人がいたんですが、僕の作りたいエスパー魔美とズレがあると直さなければいけないのが大変でした。
中には納得いかずにOKを出した絵コンテもありました。オンエアで見るとやっぱりなと思いましたけど、それは僕が徹夜して直さなかったからしょうがない。
——逆にやっていて良かったことは?
初めて映画を監督した「エスパー魔美 星空のダンシングドール」ですね。プロデューサーから「藤子先生が見終わって『よかったよ』と言ってくれたよ」と教えられた時はうれしかった。
映画は最初、僕とメーンライターとプロデューサーでオリジナルのプロットを考えたんですけど、藤子先生に見てもらったら、あまり気に入ったプロットがなかったのか「原作を元にこの映画みたいな作品を作ってほしい」と言われて。
それが「リリー」という古いアメリカ映画なんですが、藤子先生にレーザーディスクを貸してもらい、メーンスタッフで見ましたね。それを僕なりに生かして作ったのがダンシングドールです。
——映画は今回の特集でも上映されます。見てほしいポイントは?
魔美の物語は、毎回ゲストキャラが重要なんです。『ダンシングドール』のゲストは人形劇団の若者たち。彼らの挫折とか恋愛を描くのが面白かったのを覚えています。
そこに夢中になりすぎたばかりに子供たちへのサービスを忘れ、劇場で見た時に子供たちが騒ぐ騒ぐ。面白くないと外に出て行くし、子供は正直だなと思いました(笑)。
今まで言う機会はなかったんですけど、映画は3本立てで結局、子供は『ドラえもん』を見に来てるんですよ(笑)。「ドラえもん、まだー」とか大騒ぎで。それ見てガクッとしましたね。
ずいぶん後になって、当時見て面白かったですという反応を聞いたことはあったんですけど、子供たちの反応はつまらなそうでした。年齢層も低かったんですよね。
——エスパー魔美はもう少し上の年代を目指した作品でした。
そうですね。ヌードとか出てきますし。エスパー魔美にはテレビではオンエアできない過激な内容もあって、原作を使い切ってしまったんですね。
ある時期からオリジナルを作るしかないとなったんですけど。自分でも考えたり、脚本家さんのプロットを見ましたが、いかに藤子先生が優れたクリエイターであるかということを痛感しましたね。ぜんぜん及ばない。
——どういう時にそれを痛感しましたか? 今回テレビ版の魔美を見直しましたが、改めてドラマとして面白いと思いました。
藤子先生の作品はシリアスとユーモアがうまくブレンドされている、洒落てるんですよ。僕らはドラマにこだわりすぎて、ユーモアがぜんぜんない作品が多かった気がします。本当に先生は偉大だなと思いました。
先生も長いキャリアの中で培ったテクニックがあったと思うんですけど、僕らはまだまだ未熟だなと痛感しました。納得のいかないプロットを映像化してオンエアをしたこともありました。
——今回はオリジナル脚本の中から「たんぽぽのコーヒー」「俺たちTONBI」の2本も上映されます。この2本はどうして選ばれたのでしょう。
2本ともに自分で絵コンテを演出した作品で、「たんぽぽのコーヒー」に関しては僕の一個上の桶谷顕くんが書いたオリジナルの脚本。
彼は若くして亡くなってしまったんですけど、脚本を読んだとき「ああ、これは藤子先生の原作に並べてもいい一本になる」と思ったんです。テーマも共感できて、非常に印象に残っている作品です。
「俺たちTONBI」に関しては、自分で脚本を書いてます。非常に青臭い青春ドラマ。ヒーローやヒロインがかっこよく活躍する作品は、それはそれで魅力的だけど、挫折とかその先の希望を描いた作品が好きなんです。自分の中でそれを目指しました。
——「映画に出てくる人形劇団は自分そのもの」という発言もありましたが、どの部分が原さんと重なるのでしょう。
挫折の部分ですね。理想と現実のギャップ。好きだけど続けられない。そういう部分は自分を投影したかもしれない。
世代が違うと分かりにくいかもしれないんですが、当時のアニメーションってのちにジャパニメーションとして世界の人たちが大好きになると考えられなかった時代。アニメーションに関して、そんなに楽観的になれなかったんですよ。
どっかで実写に対してのコンプレックスがあった。今はアニメを作っていることへの恥ずかしさはないかもしれないんですが、当時は恥ずかしかったんです。
アニメといえば子供向け。大人向けもあったけど、コアな人向けでした。胸を張ってアニメを作っているといえない雰囲気が、マイナーな人形劇団で挫折をするというところにだぶった。
——現在は日本を代表する監督の一人です。若い頃、藤子作品に取り組んだことは、その後の原さんの作品にも大きな影響を与えましたか?
すごく大きいです。大好きだった藤子先生の作品と仕事で向き合って、アニメ作品として作れたことは、後の僕にとってものすごくプラスになっています。藤子先生には感謝しています。
不思議、幸福、夢を忘れなかった藤子先生に見せて恥ずかしくない作品をこれからも作っていければと思っています。