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自宅での看取りを、美談にしてはいけない

自分の大切な人を家で看取ることができなかった方へ

(この話に登場する人物にモデルはいますが、仮名を使う などご本人とわからないように詳細は変えて書いています)

「日本では1980年が過ぎた頃から、家で亡くなる人と病院で亡くなる人とが逆転し、今では8割の人が病院で亡くなります。しかし、6割の人達ができるだけ自宅で療養したいと望んでいます。私の経験からも、住み慣れた自宅で最期を迎えることはとても素晴らしいことです。もっと在宅医療を広めなくてはなりません」

壇上では、在宅医療で活躍する医師が、現状を憂う表情と口調で話していました。(またこの話か)と私はうんざりしつつ、何故こうも誰もが繰り返しこの話をするのだろうと思って聞いていました。

私もまた、在宅医療、特に在宅ホスピスという、家で命の最期を迎えたいと願う人たちのために働いています。毎週のように亡くなる人たちを見送りながら、5年が経ちました。

しかし、いくら住み慣れた自宅で最期まで過ごしたいと患者が願っても、然るべき時期が来たら、「病院へ入院した方が良い」と助言した方がよい人たちがいる、と思うに至りました。

「あの方は自宅で最期まで過ごさない方が良かったのかもしれない」と、何人かの方々との時間を鮮明に思い出してしまうのです。自分が関わらなければ、残された人(家族)はもっと違った人生を送れたのではないかと、今になって心底後悔しているのです。

タカコさんと私のやりとりを通じて、皆さんに私の後悔とその理由を知ってもらえたらと思います。

今も診察に通うタカコさんとの出会い

もうあの日から3年が過ぎました。私は今日も、通い慣れたタカコさんの家に診察に向かいます。3年前、タカコさんは、80才を過ぎた母親を家で看取りました。タカコさんも60才になりました。

「先生、そろそろ暖かくなってきましたね。ちょっとそこの公園まで散歩してみたんです」

穏やかに話すタカコさんでしたが、この穏やかさを取り戻すのに3年かかりました。この3年間というもの、タカコさんは外を歩くと激しい動悸がするため外出することができず、買い物に行くのもままならなかったのです。

私がタカコさんの母親の診察を担うようになった最初の日、タカコさんは一人で私の医院にやってきました。

「今日はお一人でいらしたのですか?」と尋ねると、「母は『絶対に病院には行かない、行く用事はない』と怒りだし、どう説得しても家から出ようとしてくれないのです」と困り果てた様子でした。

「『病院へ行かないと病気が治らない』と厳しく母に言って聞かせたのですが、全く聞く耳を持ってくれません。私だけではどうしたらよいのか分からないのです」

その表情から、自分の思い、期待、努力が実を結ばない焦りと共に怒りすら感じました。

まず、私はどのような母娘なのかを知ろうとしました。

「母は気難しく、誰に対しても心を開く人ではないのです。今まで診察をしたことのある医者は、母を怖がらせるだけで、体調や精神状態が良くなることは一度もありませんでした。母が心を許しているのは私だけなのです」

タカコさんは独身でした。語学が堪能で、自分のキャリアを活かし、ヨーロッパ各国を回り貿易に関する仕事をしていました。仕事に打ち込んでいたタカコさんですが、認知症になった母親の介護のため、いったん仕事を整理し実家に暮らすようになりました。

「一卵性母娘」の関係

人から一卵性母娘と言われるほど、親密な二人でした。若くして夫を亡くし、家族二人きり。母親はタカコさんが学校に通う間は、厳しく勉強をさせたと言います。「いい大学へ行き、いい会社に勤めなさい。他人を当てにしてはダメ」と口癖のように言っていたといいます。

厳しく接しながらも、一人娘だったタカコさんには、時には娘、時には親友のように接していました。

「ママが一番あなたのことを分かっているし、あなたが一番ママのことを分かっているのよ」

かつて母親がタカコさんにしてきたように、タカコさんは母親の介護をするようになりました。母親に厳しく育てられたタカコさんは、母譲りの厳しさで、弱っていく母親の介護に向き合っていました。

母親の歩く力が衰えないように、毎日自分で本を読んで勉強したリハビリをし、体に良い食べ物を作っていました。食欲のない日は、まるで叱っているかのような厳しい口調で、「ママきちんと食べないとダメなのよ」と、母親の口に半ば無理矢理スプーンで食べ物を運んでいました。

母親の介護が始まり、うまくいかないことも多く、悩むタカコさんに介護相談窓口の担当者の口添えで私の診察が始まることになったのです。

「○○総合病院の医者は、母が何も分かっていないと思い、私の方ばかり向いて話していました。『お母さんは認知症で嫌なこともどうせすぐ忘れてしまうので』と確かに言ったのです。私を励まそうと思ったのかもしれませんが、いくら優しい表情であっても言葉のチョイスが悪すぎます」

「××病院の医者は、認知症の専門で評判がよいというので期待していましたが、一通りの検査をすると、『お母さんの病気はもう良くなりません』と分かりきったことだけ私たちに告げたのです。何時間もかけて診察に行き、三流の占い師のようなことを言われて。専門医のレベルがこんなに低いとは・・・」

タカコさんは今までの体験を、私に話し続けました。

タカコさんの厳しい口調からは、母親だけでなく、タカコさん自身も医師を心から信頼できないと思っていることが分かりました。タカコさんは、今まで出会った医師がどのような言葉で母親に接してきたかを詳細に話し、そして医師一人一人の何が問題だったのかを的確に指摘し続けました。

さて、私は診察でよく患者や家族に「今までに医師や看護師の言葉で傷ついたことがありますか? もしあれば教えて下さい」と問いかけます。タカコさんにも同じように問いかけたところ、止まらなくなるほど他の病院、医師の問題を話し始めたのです。

このように他の医師の話をする人は、「もう二度とこんな思いはさせないで」と私に向かって強く警告している、と私は受け止めています。

私は、タカコさんの話を聞きながら、これからどう二人に接するか、どういう言葉で二人の間に入っていくかを考え続けました。

心を開いてもらえるように 最初の往診

そして最初の往診の日がきました。私はいつものように、努めてにこやかに話しかけました。まず挨拶をし、脈を診るために手を握りながら本人の目をのぞき込み、そして、耳元で小さな囁くような、それでもきちんと聞こえるよう低い声で、ゆっくりと話しました。まるで秘密を打ち明けるような話し方で。自分のことを警戒している相手には、このような話し方が一番なのです。

「こんにちは、私は医者です。最近調子はどうでしょうか」

「私はどこも悪くない」と不機嫌な返答です。

そして、診察とは関係のない昔の話を始めました。とりとめのない話でした。しかし、私は相手の話を遮らずひたすら聞きます。話を聞きながら、相手の気配、間の取り方に集中するのです。

何年仕事をしても、初めて会う人の診察はとても集中力を必要とします。相手の心のひだをなぞるような、慎重な会話が求められます。そして、とにかく少しでも早く、できればその日のうちに、相手に気に入られなくてはなりません。

「一目惚れ」してもらえるよう、相手に合わせた振る舞い、言葉遣い、表情、声の調子を探さなくてはなりません。

最初は、タカコさんも心配そうな表情で、母親と私のやりとりを見守っていました。3回4回と診察を繰り返した頃でしょうか、初めて母親が「先生、今日も来てくれたんか」と警戒心を解き微笑みながら話す姿を見て、タカコさんも安堵の表情を浮かべました。

私は内心ほっとしながら、(ああ、これでこの先の悪い状況を一緒に乗り越えていくことができる)と本来の目的のスタートラインに立てたことを悟りました。

一人で抱え込んだ介護

私の予想したとおり、タカコさんの母親は月ごとに衰弱し、食事をしなくなっていきました。そして、ベッドにいる時間も長くなりました。それでも、いつも通り「私はどこも悪くない」の一点張りでした。

認知症になると、将来の不安はなくなり、自分の行く末を案じることはなくなるのです。永遠の「今」が続いていくだけで、今よりも前の「過去」は忘却のかなたです。昨日と今日の、先月と今月の、去年と今年の自分を比べて衰弱を悟り、やがて来る死に不安を感じることは一切ありません。

母親は、その年の暮れにはすっかり床に臥せるようになりました。ある日のこと、今日が節目になる瞬間だと感じた私は、タカコさんに、もうそろそろ亡くなるであろうことを話しました。

「亡くなることはもう止められません。今から病院に行き、たくさんの検査をして病気を探しても、治療でお母さんを元気にすることはもうできないでしょう。老衰として命を使い切ったお母さんが、亡くなるまで苦しまないように一緒に看ていきましょう」と話しました。

これまでも、タカコさんは多くの書物を読み介護の勉強をし、食事、身体のケア、排泄の介助、全てを担っていました。「私は母親にできる限りのことをしたい、私のできること全てをしたい」と涙ながらに決意を固めた表情で私と向き合いました。

私の診察に加えて、看護師が1日おきに家に行くことを提案しました。

タカコさんはきっぱりと、「私には私のやり方がある」と強固に断りました。

「他人の手伝いは一切必要ありません。例えプロであっても私以上に母親の看病ができる人がいるとは思えません」

この日以降も、折を見て看護師の関わりを提案しましたが、タカコさんはますます頑なになるだけでした。

「もう食べることを諦めないと」と私はタカコさんに語りかけました。少しでも身体に良いものを食べさせて元気になってほしい、そして亡くなるとしてもできる限りのことをしたいというタカコさんの気持ちを徐々に変えていくように話しました。食べさせることでかえって母親を苦しめてしまう、もうこれからは点滴だけ続けて最期を看取ろうと決心を促しました。

タカコさんは、母親が自分の作る食事を食べられなくなってからも、身体を拭いて清め、口の中をきれいに保ち、的確な看病を懸命に続けました。そして、約1週間後、ついに最期の日を迎えました。

タカコさんは涙を流しながらも、その表情は不思議な充足感に包まれていました。「きちんと母を看取ることができました。先生ありがとうございました。先生の助けを得ながら今日まで頑張れました」とタカコさんは、悲しみだけではなく、大きなことを成し遂げた充足感ある表情でした。母と娘が立派にゴールテープを切る瞬間に立ち会い、私もまた自分の仕事に充実感を感じていました。

心が引き裂かれるような喪失感

母親の看取りから1ヶ月が過ぎたころ、私はふとタカコさんを思い出しお宅に伺いました。そして私は自分の傲慢な思い違いに直面したのです。

仏壇に向かい手を合わせ、線香をあげてから、タカコさんと向き合いました。そこには、最後に見たタカコさんの表情とは一変し、深い悲しみに心が傷ついている様子のタカコさんがいました。

「私があの時諦めなければ、もっと私がしっかりしていれば、母は生きていられたのではないか。看病の日々を思い出すと悔やむことばかりなのです」と、タカコさんは自分の介護が不十分だったと自分を責めました。そして、「母が亡くなった部屋に居ると、母との良き日の思い出よりも、つらそうにしていた母との最後の日々のことばかり思い出してしまうのです」

その日から、私は私にできることを考えました。そして、この3年間、一人残されたタカコさんに「母親の死はあなたのせいではない、あなたは十分にできることはした」と言い続けて心を慰めようとしているのです。

タカコさんは「母に会いたい、もう一度話したい。私のことを本当に分かってくれるのは母しかいない」と何度も同じ言葉を繰り返しています。

タカコさん母娘は、時には衝突し時には和解しながら、その心と魂は融合し境目が見つからないほど一体化していました。そして、母親の死はタカコさんの心と魂を喪失させ、時間を止めて過去に留めてしまったのです。

あまりにも親密な関係が絶たれたとき、残された人が生きていく力を再び得て、再び時間を動かすには、新たな自分を自分自身で創り出すという相当きつい生活が始まるのです。

タカコさんにとって、看病を通じての看取りは、母に対する愛情の結晶であり、究極の親孝行であったかもしれません。しかし、大切な人の命という、あまりにも大きなものを背負ってしまい、その後の人生を生きていけなくなるほど力を失う人を私は今までに何度も見ました。

本当に、自分の大切な人を看取ること、自宅で最期まで過ごすことは、素晴らしいことばかりなのでしょうか。私は在宅医療を専門にしていますが、在宅死にいくばくかの疑問を持つようになってきました。

死に別れるつらさを他人に委ねる知恵

病気は患者と家族を苦しめます。緩和ケアが進歩してもやはり苦しさがゼロになることはありません。そして、衰え死にゆく姿を間近に見続けるということは、現代の家族にとっては相当につらい体験です。そして死に別れることは本質的につらく悲しいことです。

ですからこの国の人たちは、だんだんと(1980年頃から)人の死を病院の中に預けるようになってきたのです。死に別れる看取りを、生活の場である自宅から、他人に委ねることができる病院に委ね、自分自身のつらさと後悔を軽減する仕組みを作ったのです。これはきっと、みんなの総意で、人類的な知恵とも言えるのではないでしょうか。

「病院のベッドが足りなくなるから」という医療政策と、在宅死の美談だけで、一方的に家での看取りを人々に勧めてはならないのです。

在宅医療、在宅ホスピスは、「家で最期を迎えることもできる」という選択肢の一つと考え、一人一人が望む死に方という価値観の多様性を下支えする位の働きが丁度良いのです。

自分で看病し続けたいと願うタカコさんに、病院で母親を看取るように説得した方がよかったのではないかと私は今も後悔しています。タカコさんはきっとあの時と同じように、「私以上に母親の看病ができる人がいるとは思えません」と断ったことでしょう。

それでも、私がキッパリと「入院した方がいい、病院は私が探します。病院に行っても、二人に何度も会いに行きます」と何故話さなかったのかと今でも悔やんでいます。

タカコさんは、病院で母親を看取っても、何かしら後悔を残したかもしれません。しかし、孤立してその過程を一人で背負うのではなく、病院の人たちと共有することで、死別のつらさを少しでも軽くすることができたかもしれないと思ってしまうのです。

自宅で看取りをし、残された人のその後の生活は、医療者や多くの人たちは知りません。自宅で看取りを迎えた瞬間は、看病していた家族に充実した気持ちがあっても、その後普通の生活に戻る中で後悔と自責で潰れてしまう人たちが少なからずいます。このような人達を苦しみから救うにはどうしたらよいのかと、タカコさんを診察しながら考え続けています。

最初の話には、続きがあります。

「6割の人達ができるだけ自宅で療養したいと望んでいます。しかし、最後まで自宅で療養したいと考えている人は1割しかいません」

なぜなら多くの人達は、介護してくれる家族に負担がかかることを一番に案じるからです。その負担とは、介護する家族の身体や時間の負担だけではなく、亡くなった後の心の負担もあるのです。

自宅での看取りを、美談にしてはいけない。

私はこの母娘を通じて、目の前の亡くなりゆく患者の治療だけではなく、残される人たちの未来の心情と生活を想像し、診療するようになったのです。

【新城拓也(しんじょう・たくや)】 しんじょう医院院長

1971年、広島市生まれ。名古屋市育ち。1996年、名古屋市大医学部卒。社会保険神戸中央病院(現・JCHO神戸中央病院)緩和ケア病棟(ホスピス)で10年間勤務した後、2012年8月、緩和ケア専門の在宅診療クリニック「しんじょう医院」を開業。著書 『「がんと命の道しるべ」 余命宣告の向こう側 』(日本評論社)『超・開業力』(金原出版)など多数。