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台風15号による大停電 千葉の呼吸器の子はどう生き延びたのか?

千葉県の広域に大規模な停電をもたらした台風15号。電気が必要な人工呼吸器を使う子どもたちは、どのように電気を確保したのでしょうか? 普段からの人とのつながりが命綱でした。

私が運営する小児クリニックは、JR千葉駅から車で15分くらいの千葉市の住宅街の中にあります。9月9日の夜明け前に襲った台風15号は、千葉県を中心に甚大な被害をもたらしました。

私のクリニックがある町でも停電した区域とそうでない区域が混在していました。クリニックが停電すると冷蔵庫の中のワクチンが使用できない状態になってしまう可能性がありますが、幸い私のクリニックは停電を免れました。

私は開業医として働くほかに、ささやかながら執筆活動をしています。2017年に、在宅で人工呼吸器を付けて暮らす子どもたちについて本を書いて以来、呼吸器の子の家族と交流があります。

大規模停電は、高齢者や子どもといった弱い人たちに大きな負担をかけます。そして病気の人や障害者にとっては、命にかかわる危険をもたらします。このたび私は、呼吸器の子の家族が千葉の大停電をどうやって乗りきったのか話を伺ってきました。

二分脊椎で人工呼吸器と共に生きて

克俊君は、2001年に「二分脊椎」を持って生まれて来ました。二分脊椎とは背骨が割れているために脊髄神経が飛び出して生まれてくる先天奇形です。脳神経外科医の手によって手術をすれば、命に関わることはほとんどありません。

しかし、神経を正常の状態に修復することは不可能で、術後には歩行障害や排尿、排便の障害が残ります。

そして二分脊椎の子の中の一部に「キアリ奇形」が見られることがあります。

小脳の一部と延髄が頭の中から脊椎に向かって落ち込んでしまうのがキアリ奇形です。延髄の中の呼吸中枢が圧迫されるため、呼吸困難に陥ります。克俊君はキアリ奇形も合併していたのでした。

克俊君は生後すぐに手術を受け、ずっと新生児集中治療室に入っていました。1歳半で気管切開をし、人工呼吸器を使うようになりました。1年の準備期間を経て、両親は2歳半の克俊君を自宅に連れて帰りました。

克俊君はいわゆる「寝たきり」の状態にあります。顔の表情や動きで両親とコミュニケーションを取りますが、これは親だから分かるサインかもしれません。

私からすると、克俊君はずっと眠っているように見えます。現在、18歳ですが体格は小柄で体重は約20キログラムです。

ストレッチャー型の車椅子に呼吸器を載せて、母が週に4回、重症心身障害者通園施設に連れて行っています。母はその時間を有効に使って自分の仕事を持っています。

9日夜明け前に停電 落ち着かせるために、まず手回し式のラジオ

さて、9月9日の夜明け前に千葉市には凄まじい暴風が吹き荒れました。克俊君は午前4時に目覚めました。これは暴風と関係なく克俊君のいつもの生活パターンです。母は台風の情報を得ようとテレビを付けました。画像が映ったその瞬間、バチンと停電しました。

母は「さて、どうしたものか」と考えました。呼吸器と予備のバッテリーは合計で25時間もちます。当面は大丈夫です。「おそらくすぐに復旧するだろう」と最初は楽観的に考えました。

ただ、心配なのは、呼吸器よりもエアコンです。室温が上昇するのは避けたいと思いました。克俊君はこうしたストレスにとても弱いのです。母は雨戸を開けずに室内の温度を一定に保とうとしました。

そして克俊君の様子を伺うと、唾液をプッ、プッと吹いています。これは「音楽を聴かせろ」というサインです。克俊君が起床すると、母はCDを鳴らして音楽を聴かせる習慣があったのです。母はこのときになって、CDプレイヤー用の電池を買っていなかったことに気づきます。

このままだと唾液の吸引が必要になります。吸引器のバッテリーには充電がしてありますし、足踏み式の吸引器も備えています。

しかし、それよりもまず克俊君を落ち着かせたい。母は、手回し式のラジオを使い音楽を流している局を探し、洋楽が流れている番組に辿りつくとそれを克俊君に聴かせました。

呼吸器の子の仲間からLINEで連絡

午前6時50分頃、呼吸器の子の仲間たちからグループLINEに連絡が入ってきました。いくつかの呼吸器の子の家でも停電が発生している様子です。

千葉県千葉リハビリテーションセンターでも停電が発生しており、非常用電源が作動しているという情報も入ってきました。そうであれば、電力に余裕がない可能性が高く、リハビリセンターに避難するという選択肢はなくなります。

午前9時になると、室内はかなり暑くなってきました。克俊君はストレスがかかるとすぐに胃出血を起こします。母は「これはどうにかしないといけない」と考えます。素早く朝食を済ませ、克俊君を連れ出す準備をします。

とにかく涼しいところに避難しないとまずいと思ったのです。

東京電力や保健師からも安否確認のLINE

午前11時頃、LINEを通じて新しい情報がもたらされます。それは東京電力からでした。東京電力には「患者登録」というシステムがあり、あらかじめ呼吸器の子などはここに登録しておくのです。すると停電のときなどに東京電力から安否確認の電話が来るのです。

なぜ、克俊君の母に直接電話が来なかったかと言えば、母は登録の電話を携帯電話ではなく、自宅の固定電話にしてしまったからです。

そして東京電力の話によれば、「復旧の見通しが立たない」とのことでした。なお、東京電力からは「発電機を持っていきましょうか?」という申し出もあったそうです。

母は「これは長くなるな」と覚悟を決めます。そしてほぼ同じタイミングで区役所が無停電であり、充電可能という情報がLINEで入ってきます。この情報は呼吸器の子たちに関わっている保健師からもたらされました。

停電が長期化? 区役所へ

さらに、君津市で鉄塔2基が倒壊しているという情報に接し、停電長期化はいよいよ避けられないと判断し、午前11時40分、車を区役所へ走らせます。

12時に区役所に到着し、母は早速、呼吸器とモニターのバッテリーの充電を始めました。

そして区役所では充電ができるだけでなく、そこが避難場所にもなっていることを知ります。職員が絨毯敷きの広いスペースの部屋を見せてくれました。まだ避難している人はわずかしかいません。

母は戸惑ってしまいました。このだだっ広い部屋で克俊君の排泄のケアをしたり、痰の吸引をしたりするのは気が引けると感じてしまったのです。

母が難色を示していると、職員は別の階の小さな部屋を見せてくれました。本来は避難場所には使わないそうです。しかし空調も動いていますし、電源も水もあります。克俊君の母はここなら周囲に気兼ねなく避難できると安堵しました。

母は、ほかの呼吸器の子の家族に連絡を入れ、3家族がここに合流し、集まりました。区役所の課長から「ここで泊まって大丈夫ですよ」と言われ、母親たちは「これで助かった」と胸をなでおろします。

ヘルパー事業所も避難場所を提供

午後2時30分、合流してきた家族がお世話になっているヘルパー事業所「A」の代表が、区役所まで様子を見に来てくれました。「A」の代表からは、「事業所を避難場所として使っていいですよ」と申し出がありました。

克俊君の母は、克俊君を父親に任せて、その事業所を見に行きました。そこは事業所と言うよりも、アパートのような生活空間でした。

克俊君の母は区役所に戻ると母親たちと相談し、「A」の好意に甘えてそちらに移動することに決めます。克俊君の母はいったん帰宅し、布団や着替えなどの生活用品を取りに行きます。

事業所「A」に向かう前にちょっとしたトラブルが起こります。区役所に近い保健センターは停電していました。本来、保健センターが避難場所なのですが、区役所が臨時の避難場所になり、保健センターから保健師が区役所に来ていたのです。

ところが、区の職員と、ある一人の保健師の間で意思の疎通が不十分で、その保健師は克俊君の母に「区役所のこの部屋では宿泊できない」と言い張ります。

母はすでに事業所「A」に行くことを決めていましたから、それ以上、反論はしませんでしたが、区役所とその保健師で話が食い違っているのはおかしいと思いました。

そして午後5時30分、克俊君の母たちは、ヘルパー事業所「A」に到着しました。ここから先は、呼吸器の子たちは涼しい環境で不安なく過ごすことができました。

翌日、10日には訪問看護師が事業所にやってきます。そして排泄や清拭のケアを行ってくれます。

10日から11日に日付が変わるとき、克俊君の家族が住んでいるアパートの隣人から LINE が入り、電気が復旧したことを知ります。そして11日の午後には自宅に戻ります。

様々な連絡に支えられ 日常生活への理解があるか

私は、克俊君の母から話を聞く中で、呼吸器の子に関わる人たちが積極的に安否の確認を取りにきてくれたことが印象的でした。

東京電力もヘルパー事業所も訪問看護師もそうです。区役所の対応も臨機応変でした。区役所が無停電であることを教えてくれたのは保健師です。

でも、なぜ、一人の保健師は区役所に宿泊することを拒んだのでしょうか。単に区役所の職員との意思の疎通に欠けていただけなのでしょうか?

克俊君の母が言います。

「保健師さんとは年に1回面談をしています。だけどそれだけでは私たちの生活は分かってもらえないのかなと思いました。あのとき、ここでは宿泊できないと言った理由の一つは、人工呼吸器を付けている子は、病院とか福祉施設とか、医療スタッフの整った場所にいかないとケアができないと思ったからではないでしょうか?」

「でも、この子たちは普段から在宅で呼吸器を付けているので、病院に行く必要なんてないんです。電気と水があって、生活ができればそれで十分なんです。ただ、それをこれまでの面談で伝えきれなかったことは私の反省点です」

確かに、医療的ケアを必要とする子を取り敢えず病院へ運べばいいというのは、こうした広域停電のときは正しくありません。病院も停電しているからです。

病院は必ずしも安全な避難場所ではない

先天性代謝疾患であるゴーシェ病・急性神経型の凌雅君(16歳)は、停電のとき、千葉県千葉リハビリテーションセンターにレスパイト(一時入院)で短期入所していました。

センターは12時間停電しました。非常用電源が作動し、人工呼吸器は動きましたが、エアコンは止まりました。

このため、凌雅君の体温は37.7℃まで上昇しました。看護師が凌雅君を保冷剤で冷やし、うちわで扇ぎました。また経口補水液を胃瘻から200ml注入しました。つまり凌雅君は熱中症になっていたということです。病院は必ずしも安全な場所ではないのです。なお、千葉県こども病院は15時間停電しました。

今回の停電を通じて克俊君の母は何を感じたのか尋ねてみました。

「不幸中の幸いだったのは、まだら停電だったことです。つまり逃げる場所がありました。これがブラックアウトだったら本当に恐ろしかったと思います。そしてA事業所とかの、人の善意に助けられました」

「呼吸器の家族同士で一緒に行動したのも良かったです。足りない物品はお互いに融通し合えることもできたし、同じ呼吸器仲間なので、生活を共にしても気兼ねがありません。情報を共有し合えたことも大きかったです」

行政や医療関係者に知ってほしいこと

最後に私はもう一つ訊いてみました。

「行政や医療関係者に知ってほしいことは何ですか?」

「人工呼吸器を使っていても、医療スタッフのいない公民館や施設に避難が可能ということです。病院へ行けばいいと思っていた呼吸器の家族も多かったと思います。でも非常用電源が動いても、エアコンは作動しないと初めて知った仲間も多かったです。病院は、まず目指すべき避難先ではありません」

「ただ、家族によって事情や考え方は様々です。災害時こそ相互にコミュニケーションをとって、その家族のニーズを知って頂ければうれしいなと思います」

私は克俊君の母と凌雅君の母に話を聞いて、二人とも自宅の隣人と携帯電話で連絡を取り合える関係であることにちょっと驚きました。

自宅を離れている時に、停電の状態を隣人に聞くことができるなど、地域のつながりは大事だと今さらながら強く感じました。結局こうした人間関係の積み重ねが、大きな人のネットワークになっていくのでしょう。

「つながる」ことの大切さを教えてくれた大停電でした。

【松永正訓(まつなが・ただし)】松永クリニック小児科・小児外科院長

1961年、東京都生まれ。1987年、千葉大学医学部を卒業し、小児外科医となる。日本小児外科学会・会長特別表彰(1991年)など受賞歴多数。2006年より、「松永クリニック小児科・小児外科」院長

『運命の子 トリソミー 短命という定めの男の子を授かった家族の物語』にて2013年、第20回小学館ノンフィクション大賞を受賞。著書に『呼吸器の子』(現代書館)、『発達障害に生まれて 自閉症児と母の17年』(中央公論新社)など。