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今でも腕に残る傷痕。「帰れって言われても、本当に帰るところがない」男性の悲痛な叫び

ミャンマー政府はロヒンギャの人々を国民と認めていない。日本で難民申請をするロヒンギャの男性は「国に帰れと言われても、どこに帰るのか 。帰る国がない」と話す。

紛争や迫害、人権侵害などで故郷を追われた人たちのことを「難民」という。

しかし、助けを求めて逃れてきても、たどり着いた国で難民申請が認められなければ、その国で安全に暮らすことはできない。

故郷に帰れない状況なのに、難民申請の結果を何年も待っている人たちが日本にもいる。

6月20日は、国連が定めた「世界難民の日」。BuzzFeed Newsは、日本で3回目の難民申請の結果を待つ、ある男性に話を聞いた。

ロヒンギャのミョーチョーチョーさん(36)は、「帰る場所がないのに、難民としても認められない。どうすればいいのか」と話す。

ミョーチョーチョーさんはイスラム系少数民族のロヒンギャで、出身地はミャンマー西部ラカイン州だ。

ミャンマー国軍はラカイン州などで長年にわたり、ロヒンギャの人々への襲撃、焼き討ち、レイプなどの迫害を繰り返してきた。

国民の9割が仏教徒の国ミャンマーの軍政は、イスラム教徒のロヒンギャの人々を「自国民とみなさない」という政策を採りつづけてきた。

ミョーチョーチョーさんが2歳の時、家族が住んでいた村が国軍の襲撃を受け、一家はミャンマーの最大都市ヤンゴンへと逃れた。

ヤンゴンでも差別は続いた。ミャンマー国内で生まれ育ったにも関わらず国籍がないため、通学したり、働いたりという、人としての基本的な権利さえ奪われていたからだ。

日本でロヒンギャへの迫害が注目されるようになったのは、2017年夏のラカイン州での武力衝突後、70万人以上の人々がバングラデシュに逃れてからのことだが、差別と迫害は何十年も続いてきた。

毎日裸にされ尋問。殴る蹴るの拷問

ミョーチョーチョーさんと家族は、ロヒンギャに対する差別だけでなく、国軍による独裁にも苦しめられた。

1988年に国軍がクーデターを起こした時、家の中に銃弾が打ち込まれたことを幼心に覚えているという。

ミョーチョーチョーさんは高校生の頃、民主化デモへの参加を始めた。たびたび警察に拘束され、留置所で暴行を受けた。

独裁や弾圧に声をあげる若者に対し、国軍や警察は容赦なく武器を使った。ミョーチョーチョーさんも、治安当局がデモ参加者を制圧した際、下腹部から太ももにかけてや腕などの体の左側を負傷した。

左腕に、いくつもの傷痕が残っている。

「もうここにいては危ない」。そう思ったのは、当局に拘束され、拷問を受けた時だ。

「民主化運動の若者団体で喫茶店でミーティングをしていました。すると軍の特殊部隊と警察が銃を持って店に突入し、『頭を地面につけろ。上を向くな』と銃をつきつけました」

「若者団体のメンバー22人は拘束され、連行されました。しかし連れて行かれた先は、留置所でなく刑務所でした」

連行されたのは、拷問が日常化し「生き地獄」とも言われているインセイン刑務所だった。

「刑務所では毎日、裸にされて尋問を受け、警棒で叩かれ、殴る蹴るの暴行を受けました」

「そのあと留置所に移され、私を含む7人は計3週間後に解放されましたが、他のメンバーは今でも消息が不明です」

助けを求め、日本へ。そこで見た「平和」

繰り返し拘束されても、民主化を求めてデモへの参加を続ける息子を、両親は理解し、止めなかったという。

しかし、「このままでは、自分のせいで家族が危険な目に遭ってしまう」との思いで、ミョーチョーチョーさんは一人、日本に逃れた。

1982年に施行された改正国籍法でロヒンギャは「無国籍」とされた。

無国籍でパスポートがないロヒンギャが空路で他国へ渡るには、違法ブローカーが手配する偽造パスポートが、唯一の方法だ。

危険を承知の上で、2006年に日本へ逃れ、難民申請をした。

来日直後、在日ミャンマー人たちの民主化デモがあり、ミョーチョーチョーさんも足を運んだ。

国軍の、人々への弾圧について大声で抗議するミャンマーの人々。

それでもミャンマーとは違い、銃口を向けられたり、ロヒンギャだからと差別されたりすることもなかった。

「言論の自由」と「平和」が存在することに、心から感激したという。

「帰れと言われても、帰るところがない」

しかし、難民申請の結果は、却下だった。

入管の職員に「帰ったら」とも言われた。

しかしミョーチョーチョーさんは「ロヒンギャには、帰る場所がないんです」と語る。

「ロヒンギャはずっと軍からの迫害を受けて、国からも全ての権利を奪われている。国民として認められていません」

「帰れって言われても、本当に帰る場所はない。帰れないんです」

2012年1月からは、東京出入国在留管理局(東京都港区)と東日本入国管理センター(茨城県牛久市)に約1年間にわたり収容された。

「助けを求めて日本に逃れてきた。悪いことをしていないのに、なぜ収容されるのか。不安と恐怖でいっぱいで、収容された時は、毎日ずっと泣いていました」

収容中に申請した二度目の難民申請も却下。その後、2019年末から再び1年半弱にわたり収容された。現在は、3回目を申請して結果を待っているところだ。

日本の難民認定率は例年1%を下回る。各国と比べてケタ違いの低さだ。

UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)によると、紛争などで住む家や故郷を追われた人はこのほど、世界で1億人を超えた。

ミャンマーでのクーデターやウクライナでの戦争などもあり、各国では難民の受け入れをさらに進めている。

2021年の難民認定者数は、G7各国では、ドイツが3万8918人、カナダが3万3801人、フランスが3万2571人などと、積極的に難民受け入れの政策をとっている。日本は過去最高だったが、74人だった。

治療費も葬式代も出せないまま、父は他界

「日本は国連では難民を受け入れると言っているが、言っていることとやっていることが違う」と指摘するミョーチョーチョーさんは今、一時的に入管での収容を解かれた状態にある。

「仮放免」という。この状態では自治体で住民票を作れず、健康保険の加入もできない。登録した場所からの移動が制限され、働くこともできない。

ミョーチョーチョーさんも、難民を支援する団体や、日本人の支援者に助けられて生活している。

「たくさんの人に、お願いしますお願いしますと頭を下げて助けてもらって、今ここにいます。働くことができない仮放免の人たちは、本当に何もできない。生きていくことができません」

働けないことで一番つらかったのは、父親が末期ガンだと分かった時も、治療費を送ることもできなかったことだという。

父親と母親、弟は、2018年にバングラデシュの難民キャンプに逃れていた。

ガンだと告げられても何もできず、ある日、弟からの連絡で死を知った。

「本当に何もできませんでした。悔しかったです。葬式代も出せなかった」

唯一の形見は、日本に逃れてきた時に持ってきていた、父親が身に付けていた服。

ミョーチョーチョーさんは、民族衣装「ロンジー」とシャツを手に、父親を思って涙を流した。

「なぜ…」疑問を投げかける日本政府の二重基準

日本政府は5月25日までに、ロシアの侵攻から逃れてきたウクライナ人1055人を避難民として受け入れた。

ウクライナからの避難民は、就労が可能な在留資格のほか、住民登録や健康保険加入も認められている。

ウクライナ避難民の大変さや、受け入れる意義を理解した上で、ミョーチョーチョーさんは、日本の難民認定率の低さに疑問を投げかける。

「ミャンマーでも、ロヒンギャ以外にもカレンやカチンなど少数民族が、昔からずっと軍からの迫害を受けています」

「その人たちも、日本に助けを求めてきた人たち。なんで助けてくれないのでしょうか。もう15年や20年、ずっと仮放免の状態で、苦しんでいる人たちがたくさんいます」

昨年廃案になった入管法改正法案では、国に帰れない理由があったとしても強制送還を拒むと刑事罰の対象となりうる、いわゆる「送還忌避罪」(退去強制拒否罪)の新設や、申請回数の上限を設け、3回目以降は強制送還の対象にするなどの内容が含まれていた。

政府は今秋にも、入管法の改正案を再提出することを目指しており、日本で難民申請の結果を待つ人たちは、不安な思いでいる。

ミョーチョーチョーさんは問いかける。

「帰る場所がなく、帰れない人たちが助けを求めている。それでも難民申請は却下され、強制送還命令が出る。それは、死んでいいよってことでしょうか。帰ったら、殺されるかもしれない。そのまま刑務所に入れられるかもしれないんです」

「日本政府は、一体どういう人を『難民』というの?と聞きたいです」