2022年にBuzzFeed Newsで反響の大きかった記事をご紹介しています。(初出:3月10日)
1945年3月10日、東京の町は空襲で火の海となりました。
一晩で奪われた民間人は、約10万人。
住民約800人が命を落とした東京都江東区森下5丁目では毎年、「八百霊(やおたま)地蔵尊」で供養を行っています。
「あの夜の惨劇を忘れてはならない」「惨禍を繰り返してはいけない」と今年も、空襲経験者や住民が手をあわせました。
火が地べたを這い、必死に逃げたあの日
遺族として毎年、この八百霊地蔵尊に手を合わせにくる、加藤ヨネコさん(91)も、空襲を経験した1人です。
地蔵尊のすぐ近く、当時の深川高橋5丁目に家があり、空襲で両親と妹を亡くしました。
当時14歳だった加藤さんは空襲の夜、父親の「起きろ!」という声で飛び起き、窓から真っ赤に燃えた町を目にしたといいます。
BuzzFeed Newsの取材に、当時の記憶をこう語ります。
「火が地べたを這うんです。父も母も一緒に逃げたんですが、気付くと周りに誰も居なくなっていた」
「火の中を逃げていると、左足をガッと掴まれたんです。『水をちょうだい』と言われました。でも、水なんかないですよね。火で焼かれて喉が苦しかったのだと思います」
「菊川橋はもう亡くなった人で埋まっていて、亡くなった人の上を、ごめんなさい。ごめんなさいと謝りながら歩いて逃げました」
加藤さんは空襲で孤児になり、兄弟6人が残されました。
現在は神奈川県箱根町に住む加藤さん。亡くなった両親と妹を思い、毎年3月には箱根から地蔵尊に、手を合わせにきています。
猿江橋のたもとにある地蔵尊は戦後、遺族らによって建てられました。
約800人の命を追悼するために「八百霊地蔵尊」と名付けられました。
そして戦後70年の2015年には、町会が中心となり、犠牲者の名前を刻んだ墓誌を建立しました。
遺族が高齢化する中、遺族から町会が引き継いで毎年、供養を行っています。
加藤さんは「本当は遺族が供養をしないといけないのに、町会の方がやってくださって本当に感謝しています」と話します。
地蔵尊の隣に建つ墓誌には、加藤さんの家族だけでなく、近隣住民や友人家族の名前も並んでいます。
加藤さんの幼少期からの友人も、家族ともに犠牲に。
加藤さんは、「この子と私は、同じ日に生まれてね…」と友人の名前を優しくなでました。
「今、ウクライナで同じことが起こっている。本当に悔しい」
戦後77年となり、戦争を知る人は少なくなってきました。
供養に集まった人たちの多くも戦後生まれです。
今年は、新型コロナ問題の影響もあり、焼香のみの小規模な形での供養が行われました。
日本は何とか平和を保ってきましたが、世界の各地で争いが繰り返されています。
町会長の菊谷茂夫さんは、集まった人々にこう呼びかけました。
「今、ウクライナで同じことが起こっている。本当に悔しいです」
「東京大空襲で亡くなった人も、今、ウクライナで犠牲になっている人も民間人。あってはならないことです。平和を願って焼香をできればと思います」
菊谷さんは語ります。
「私の父親も、国の命令で戦地に送られました。殺さないと自分が殺されるという状況だったといいます。戦後、戦争はもうやったらダメだ。絶対にダメだと、聞かされました」
「戦地での自分の罪の重さを感じて、そう私に伝えていたのだと思います。父親の言葉を胸に、私も毎年、空襲犠牲者の供養で手を合わせています」
犠牲者の名前を刻む意義。「お墓だと思ってお参り」の遺族も
犠牲者の名前を刻んだ墓誌の建立には、当時の町会長の清水健二さんら町会のメンバーが奔走しました。
犠牲者の氏名は、町会で歴代の町会長が受け継いできた巻物にならい、新しく調査で判明した人の氏名を追加。789人の名前を刻みました。
墓誌には、同じ苗字でいくつもの名前が並んでおり、大人から子どもまで、一家から多くの犠牲者が出た様子が伺えます。
犠牲者の中には、在日コリアンの住民20人余りの名前もあります。
東京都は、墨田区にある都立横網町公園内の碑の内部に、犠牲者の名前を記録した「東京空襲犠牲者名簿」を納めていますが、一般には公開されていません。
犠牲者の名前を刻んだ碑や、東京大空襲についての公的な資料館などもなく、遺族らは名簿の公開、平和資料館の設置などを求めています。
空襲では、遺体の判別がつかないほどに焼け焦げ、きちんと埋葬されたり、遺骨が遺族の元に戻ったりすることが多くありませんでした。そのため、中には「名前が刻まれているここがお墓だと思ってお参りしている」と話す遺族もいたといいます。
犠牲者名の一覧の巻物には、犠牲者について詠んだ作者不明の短歌が綴られていました。
鎮魂の思いを込め、その短歌も墓誌に刻まれています。
《春まだき 無情の風に誘われて 死出の旅路に就きし魂の名》