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「わたしを日本人と認めてください」82歳の女性が今、伝えたいこと

日本人とフィリピン人の間に生まれ、戦争の混乱などで「無国籍」となっている日系人2世。戦後74年経った今も、1千人以上います。

「父は日本人でしたけど、私は日本人として認められていません。戦争のせいで父の国との繋がりが途絶えてしまったけど、どうか私を日本人として認めてください」

フィリピン残留日系人2世の岩尾ホセフィナさん(82)は、言葉を絞り出すようにして、そう語った。

日本人を父親に持ち、フィリピンで生まれ育った。しかし第二次世界大戦の最中、父親は「日本人だ」という理由で射殺された。

岩尾さんは今回、日本政府に「無国籍」の日系2世の救済を求めるために、日系人を代表して日本を訪れた。

フィリピンと日本の両親を持ち、戦争によって日本人の父親を亡くしたり、生き別れになったことで「無国籍状態」に陥った日系人の人々がフィリピンにはたくさんいる。

終戦74年経った今でも、その数1069人。岩尾ホセフィナさんも、その一人だ。現在、大分県の家庭裁判所に就籍許可の申し立てをしている。

「私のように、忘れられた日本人がたくさんいます。私たちを忘れないでください」

「日本国籍が一刻も早く得られるように、日本政府に訴えかけたい」

岩尾さんは衆議院議員会館で10月29日、無国籍問題への対策を日本政府に求めるために訪日した日系人代表団と共に、集まった議員らの前でそう訴えた。

現在でも、なぜ1000人以上の人が無国籍状態に陥っているのか。

それは、戦争で死亡、または戦中・戦後に生き別れとなった日本人の父親の子であるという証明となる出生証明書や、親の婚姻証明書などが、戦火で焼かれたり紛失してしまったりしていることなどが理由にある。

日本のNPO法人「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」はこの問題に2003年から取り組み、日本人の父親の証拠集めや現地での聞き取り調査で、これまで280人以上の日系2世の日本国籍取得を達成した。

今回、日系2世3人と3世の代表団が遠いフィリピンから来日したのには、理由がある。日本国籍取得を望む日系2世の「高齢化」だ。

岩尾さんは82歳。他の代表団メンバーの2世、寺岡カルロスさんは88歳、大下恵美子さんは79歳だ。戸籍回復を願う多くの日系2世が70、80代となっており、タイムリミットが迫ってきている。

フィリピン日系人リーガルサポートセンターや日系人会は2015年7月にも訪日し、安倍首相と面談して直接支援を要請した。

その結果、外務省職員がフィリピンの現地調査に立ち会うなど一定の成果があった一方で、調査には時間がかかってしまうため、1年で20人の申請が精一杯だという。

同センター代表理事の河合弘之弁護士は、代表団来日に合わせて羽田空港で開かれた記者会見で「このままでは、この問題は解決するのではなく、消滅してしまいます」と語気を強めた。

「調査が困難な上に手続きも煩雑で、1年に20人のペースだと、現在無国籍の1千人全員の国籍取得には50年かかる計算。その間に全員が死んでしまいます。もう時間がないのです」

「私が運動を始めて十数年の間にも、日系二世全体の約半分の人たちが亡くなってしまいました。政府による協力で、早期に一括で救済してもらいたい」(河合弁護士)

代表団は29日、日本政府の支援を求めるフィリピンからの3万4千筆の署名と、一括救済を求める国会への要望書を、日本国内からの署名7千筆と共に提出した。

代表団には、フィリピン司法省、難民・無国籍者保護課のメルビン・スアレス保護官も同行し、国籍取得のシステムなどを説明した。

戦後も使用されていたフィリピンの1935年の旧憲法では、フィリピン人の母と外国人の父の間に生まれた子は父の国籍になることになっていたが、例外として比国籍を取る場合は21歳から3年間の間だけ、申請をして国籍取得することができたという。

しかし、その情報は日系人には知れ渡っておらず、戦後の混乱や貧困などもあったことから多くの日系人は比国籍を取得することができなかった。日本人の父親の死亡や生き別れなどから、父の日本の戸籍にも登録されることができずに無国籍状態となってしまった。

無国籍状態では十分な教育や医療が受けられず、結果的に経済的に厳しい状況の中で生きる日系人たちが多くいるのが現状だ。

日系2世の寺岡カルロスさんは、衆議院議員会館で「私たちの長い戦後は、今もまだ終わっていません」と日系人を代表して話し、議員らに支援を呼びかけた。

「家族の生活は、1941年に勃発したあの忌まわしい戦争で、あっという間に粉々になってしまいました。父とのわずかな絆も、戦火と戦後の苦労によってほとんどが消失してしまいました」

「戦争が終わって74年が経ち、私たちの人生の残りが短くなってきたと感じている今、日本の父との繋がりを求める思いは幼い頃と変わらず、私たちの内側にあります」

寺岡さんの父親は山口県出身で1916年にフィリピンに移住。ルソン島のバギオで大工をしていたが41年に結核で死亡した。戦争中には寺岡さんは、兄2人と母親、妹、弟の5人を、それぞれフィリピンゲリラや日本の憲兵隊、米軍の砲撃によって亡くし、孤児となっている。

戦後は、生まれ育ったバギオで日系人会理事長や、在バギオの日本大使館名誉総領事を歴任し、日系人や比在住邦人のために活動してきた。

日系人の無国籍問題にも長く携わり、12月で89歳になる自身を含め、高齢化が進む中、「どうぞ今、残留者の声に耳を傾けてください」と、議員会館で話した。

「集められるだけの証拠をかき集めても、それでも戸籍回復ができずに、年々何人もの残留者が無念のまま天国に行っています。私たちの人生最後の瞬間に、日本人の父の子どもで良かったと思えるよう、どうか力を貸してください」

議員会館での面談では、日比友好議員連盟で副会長を務める生方幸夫衆院議員(立憲民主)が議員を代表して署名を受け取った。

生方議員は「今回初めて、戦前に日本からフィリピンに行った方の残留孤児がいることを知った」「お父様が日本人であるというだけで迫害を受け、厳しい人生を送っていらっしゃったと想像します」としつつ、「皆さんが日本国籍を取得できるように、日比友好議員連盟としても良い方向に持っていけるようにがんばりたいと思います」と述べた。

フィリピンだけでなく、世界では各国で戦争などに巻き込まれた結果、無国籍状態に陥った人たちがおり、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は2024年までに無国籍者をなくす「#IBelongキャンペーン」を行なっている。

河合弁護士は「国連では無国籍者をなくすと何回も宣言している」とし、過去に中国残留邦人に対して行なった支援と同様の支援をするよう、議員らに求めた。

河合さんは語る。

「2世らは高齢な今となっては、日本に帰ってきて定住したいという希望は持っていない。アイデンティティーの問題なんです。人生のジグゾーパズルの一番真ん中のところがない。アイデンティティーがないということは、そういうことです」