【フロリダ銃乱射】LGBTのイスラム教徒が理解してほしいと思っていること

    「日々の生活を送るために、勇気を出さなければいけない状況が、なくなればいいのに、と思います」

    49人が命を落とした、米フロリダの銃乱射事件。事件後、動機にイスラム教の同性愛嫌悪が関係しているのではないか、という議論が噴出した。そして、LGBTのイスラム教徒たちは、自分たちがいつの間にか、そうした会話の中心にいることに気づいた。BuzzFeed Newsは銃乱射事件のニュースに対する個人的な反応を聞くため、LGBTのイスラム教徒たちと話をした。

    日々の生活を送るために、勇気を出さなけれないけない状況がなくなればいいのに、と思います。

    24才のJordan Alamはシアトルに住む、ベンガル系アメリカ人のライター兼活動家だ。

    事件のことを聞いた時、がっくりと落ち込んで、このニュースにくぎ付けになりました。一方で、ののしられました。否定的反応が恐くて、すぐにネットであらゆるニュースを読み漁りました。どこかへ隠れてしまいたいと心から思いました。私はコミュニティの中で、安全を感じ、愛情あふれる関係性を育んできました。でも、これがひっくり返ってしまったと感じています。昼間は仕事をする必要があり、新しいニュースが入り続けても、泣かないように、呼吸を整えないといけませんでした。今日は感情がはりつめてしまい、ラマダーンの断食を破らなくてはなりませんでした。

    私は恵まれています。仲間たちは、私が同性愛嫌悪だけでなく、イスラム嫌悪に負けないでいることを理解し、私と話をしてくれています。でも慎重に行動したいと思います。ソーシャルメディアのフィードや通りで、他の人々が経験していることを見て、力になりたいと思いました。でも、出しゃばると、むしろ自分が暴力のターゲットになるのではと心配です。

    この悲劇的事件を私たちが忘れることはないでしょう。私たちは争うつもりはありません。敵味方はありません。これは「クィア対イスラム教徒」の争いではありません。私と同じ立場にいる人たちが勇気を出し、メディアに姿を見せているのを見ると、嬉しくなります。もう少し違った状況だったらいいのに、と本当に強く願っています。 日々の生活を送るために、勇気を出さなければいけない状況でなくなればいいのに、と思います。

    イスラムは私たちが体現する多くの文化と伝統の豊かさによって形作られています。

    私は打ちのめされました。私と同類のクィアの人々が、私の仲間 (イスラム教徒)に攻撃された時、他にどう感じるというのでしょう?

    私はクィアのイスラム教徒であることを、とても気に入っています。クィアのイスラム教徒として、私はクィアとイスラム教徒コミュニティ両方の周辺にいる立場です。主流からはずれていることとには困難があり、これを明らかにすることは必要です。しかし、周縁にいるというのは、恵まれているともいえます。私は周縁に立ってみて初めて、批判的な見方を養うことができました。他のクィアのイスラム教徒とともに、そうした見方を磨き、創造的なエネルギーへと変化させることができます。私たちは美しい独自のコミュニティを生み出すために、そういったエネルギーを使ってきました。

    私にとってイスラムとは社会的正義です。私は故郷のマスジド (モスク)、Kalamazoo Islamic Center (カラマズー・イスラムセンター)で民衆に根ざした積極行動主義と、自分の信念のために立ち上がることを学びました。Gulnar HusainやShadia Kanaanといった年配の女性を先頭にし、イラクやアフガニスタンでの戦争、そして米国が資金提供したパレスチナでのイスラエルの人種隔離政策に反対して団結し、デモ行進をしました。

    イスラムとは共同体でもあります。私とアラーの関係は私のもので、私だけのものですが、イスラムの宗教的活動は、私のイスラム教徒仲間のウンマ (イスラム共同体)と共に、コミュニティの中で行われます。つまり私たちは、共に祈り、共に断食をし、共に巡礼し、共にお祝いをし、共に死を悼みます。

    最後に、おそらく重要なことですが、イスラムとは多様性です。私たちはアラブ人だけではありません。私たちはナイジェリアやインドネシア、中国、インド出身のこともあります。イスラムは私たちが体現する多くの文化と伝統の豊かさによって形作られています

    クィアやトランスジェンダーのイスラム教徒の人たちがいなければ、私は今ほど信心深くないだろうと思います。

    現在ルイジアナ州の大学で教えている26才のAaminahは、自らをバイセクシャルのノンバイナリーフェムと考えている。

    私はイスラム教徒の両親の家に生まれましたが、10代後半に自分でコーランを読み終えるまで、個人的にはイスラムを信仰として受け入れていませんでした。私にとってイスラムは、人生における平和、やすらぎ、喜びの源です。アラーに身をゆだねるという教義は、人生や私が直面するあらゆる問題を大局的に見る助けとなる一方、難題に真正面から向き合う強さを与えてくれます。信仰は私にとって非常に個人的なものです。つまり、私自身と神との個人的なつながりであり、その神により、全宇宙/万物があります。

    イスラム教徒であることとクィアであることは、私のアイデンティティの単なる2つの側面です。内面的レベルでは、たいして矛盾はないように感じています。コミュニティレベルでは、クィアであることが実のところ、信仰と再びつながり、それを再確認する助けとなっています。というのは、私はクィアやトランスジェンダーのイスラム教徒のオンラインコミュニティを見つけ、そこの人々が私にとって親類のような存在になっているからです。私たちの信仰の最もよいところ、またそれがいかに私たちを日々力づけ刺激してくれるのかを思い出させてくれます。クィアやトランスジェンダーのイスラム教徒の人たちがいなければ、私は今ほど信心深くないだろうと思います。

    オーランドの事件のことを聞いた時、私は悲しくなり、それから恐ろしくなりました。クィアとして、そしてイスラム教徒としてです。すぐに、私や私の愛する人たち、つまりイスラム教徒とそれ以外の人たちのどちらもですが、私たちがどれぐらい頻繁にゲイバーや、他の安全だといわれている場所に出入りしているかを思って、怖くなりました。でもその時でさえ、私の心の片隅には、イスラムがニュースで取り沙汰されるたびに感じる、あの不安感がありました。「ああ、まただ」。イスラム嫌いのメッセージが出始めてから、まだ止んでいません。

    イスラム教徒でありクィアであることは、互いに矛盾しません。

    Izzaddine Mustafaは24歳。現在はニューヨークのブルックリンに在住のトランスジェンダーの男性だ。彼は地元の非営利団体で、ソーシャル・メディア・ディレクターとして勤務している。

    初めてカミングアウトしたとき、私が属しているイスラム教徒のコミュニティがどう反応するか、ビクビクしてました。クィアならイスラム教徒にはなれない、イスラム教徒ならクィアにはならない、と思っていたのです。 その後、イスラム教徒であると同時にクィアであることは、他人を心から愛し、受け入れるためには、自分自身を丸ごと愛せなければならない、という考えと密接に関連していることに気づきました。

    オーランドでの事件を知ったとき、ショックを覚えました。ラマダンの祭りから1週間が経ち、銃撃の日の夜にはブルックリンでプライド・パレードが催されていたので、なおさら信じられない思いでした。銃撃犯の名前を見ると、すぐに心が沈みました。このおぞましいヘイト・クライムの犠牲になった49人のことを思うと、心が沈みました。暴力に直接的にさられさた、オーランドの有色人種のLGBTQコミュニティを思うと心が沈みます。この恐ろしい同性愛嫌悪/トランスジェンダー嫌悪の暴力行為のしっぺ返しを受けるかもしれない、イスラム教徒のコミュニティのことを思うと、心が沈みます。

    イスラム教徒でありクィアであることは、互いに矛盾しません。私たちはここにいて、存在しています。政治家や企業が私たちのコミュニティの間に生み出してしまっている誤解を解く手助けするために、私たちはいるのです。