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「生きる」を支えるつながりを ALSを発症して10年の僕が考えてきたこと

川崎市の杉田省吾さんは体中の筋肉が徐々に動かなくなっていく難病、ALSを発症して10年が経ちました。「つながることから全ては始まる」。この10年で気づいた生きるために必要なことを綴ります。

私がALS(※筋萎縮性側索硬化症)を発症して10年になります。今回その10年を振り返ってみて、よくここまで来られたなぁと感慨深いものがありました。

すべてが凝縮された最初の4年間を中心に、この10年のできるだけ「すべて」を話したいと思います。

 制度やデータ的なものは一切ございません。ただひたすら私が経験してきたこと、その中で感じたことを延々と話すだけです。その中でほんの少しでも誰かの役に立ちそうなヒントがあれば幸いです。

※ALS(筋萎縮性側索硬化症)手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだん動かなくなっていく進行性の神経難病。治療法がまだ見つかっていないが、人工呼吸器や胃に開けた穴から栄養を補給する胃ろうなどを作って長く生きられるようになった。体が動かなくなっても感覚や内臓機能などは保たれる。 

※この原稿は、川崎市総合リハビリテーション推進センター主催の「川崎市難病研修会実践編」で話した内容をベースにしている。

43歳で発症、4年後には気管切開

私は1969年生まれの53歳です。大阪府豊中市に生まれました。豊中市というのは大阪伊丹空港の隣接市です。

生まれてすぐから小学校卒業まで神戸市に住んでいましたが、2009年に川崎市に来るまで28年ほど豊中で過ごしました。

学生時代は勉強についていけなかったこともあり、勉強も学校も好きになれませんでしたが、絵を描いたり音楽を聴いたりしていると幸せでした。だから絵や図面を描く仕事に就きました。

その後、登山や写真が幸せに加わりました。あとで触れますが、写真は今でも続けています。

2013年の2月ごろにALSを発症し、7月に初の受診、8月に確定診断が出ました。

その後2014年が終わる頃には腕が上がらなくなり、ほどなくして寝返りもうてなくなります。

2015年には自分では立てなくなって全介助となり、2016年には構音障害(※)が進み会話が困難な状態に。それを追うように嚥下がうまくいかなくなり、むせが多くなり口の中の唾液の吸引が頻回になりました。

※発音しづらくなる障害

その年の秋にはさらにむせが多くなってきたので、誤嚥を防ぐために気管切開を決め、翌2017年1月26日に手術をしました。

気管切開までは夜間の介助は妻のワンオペで、仕事をしながら大変なやりくりをしていたと思います。

気切以降は介護の体制がかなり整いましたが、それでも妻が家を空けられるようになったのはつい最近のことです。去年8年ぶりに福岡に帰省し、両親、弟と対面できました。先月には友人と学生時代以来久しぶりの青森行きも実現しました。

私は気切以降は進行も緩やかになり、体調も安定しました。介護の体制に変動はあるものの、それなりに安定した体制を維持できていて、後で触れる患者会「川崎つながろ会」の活動を中心に外出もできています。

10年経ってようやく生活が安定してきてほっとしている今日この頃です。

 すんなり受け入れたALSの診断

私は発症するまで、幸いにもとても恵まれた人生を送ることができていました。今もそうですが。

そう思って生きてこられたので、逆に「このまま何事もなく人生が終わるとは到底思えない」と、40歳になったころから思うようになりました。

だから実はALSは割とすんなり受け入れられたと思います。「ほう、こうきたか」という感じで。

妻や両親の方が受け入れるのに時間がかかったんじゃないかと思います。確定診断では余命宣告も受けて、この時点では延命処置などまったく頭になかったので、とにかく発症当初は3年から5年後の死についてぼんやりと考えていました。

ALSを受け入れた私は表向きは平常通りでしたが、実際は受け入れてしまったが故の「孤独」によって心から笑うことができなくなってしまいました。ALSという病を受け入れたと同時に私は「5年後には死ぬ」ということも受け入れました。

この時、気がついたら私だけ時間が止まり、周りのすべての人に置いていかれたような、そういう感覚に陥りました。

この感覚は友人のがんサバイバーにもあったと言っていました。命の残り時間を切実に感じた時にこういう感覚に陥るのかもしれません。

思い描いていた未来がスコン!となくなる

人が生きていくためのモチベーションというのはいろいろあると思いますが、そのひとつに「未来を語ることができる」ということがあると思います。

人は「こうありたい」という未来の姿を描き、パートナーのような大切な人がいれば、その人と語り合って共有したりします。

そして、それを実現させようとする意志が今を生きる原動力になる。そんなことがあるんじゃないでしょうか。

私もいくつかの思い描く未来がありましたが、その未来が突然「スコン!」となくなり、私の最も遠い未来像は「5年後に死ぬ」というものに置き換わりました。

いろんな見え方や聞こえ方が変わってしまって、精神的に孤立した時期が3年ほど続きました。

振り返ってみると、この3年は周囲と精神的に距離を置き、自らを孤立させることで傷つくことから避けていたのかな、と感じます。

周囲は変わらず健康で未来を語ることができる。自分は壊れていって数年後に死ぬだけ。そういう現実と距離を置きたかったのかもしれません。

ALSのレジェンドたちとの出会い「生きることが当たり前なんだよ」

2016年3月、発症して3年を過ぎたころ、ある講座の案内が目に留まりました。それはNPO法人ICT救助隊が主催の「難病コミュニケーション支援講座」です。

私のように発話による意思の伝達が困難な人でも「ICT=意思伝達のためのテクノロジー」を活用して意思の伝達を可能にするための装置やアプリの使い方、知恵や工夫を共有しようという取り組みです。

たまたま近所で、そのころ視線入力によるPC操作をやり始めたところだったこともあり、参加することにしました。

私は結局2日目の午後から参加したのですが、結果的に大きな分岐点となりました。

ここで当時日本ALS協会副会長の岡部宏生さん、ALS協会神奈川県支部長の岸川紀美恵さん、都立神経病院・作業療法士(OT)の本間武蔵さん、そして当時川崎市北部リハビリテーションセンターにいらしたOTの濱口陽介さんと、この講座のすぐ後に開設された川崎市中部リハビリテーションセンターのOTにお会いすることができました。

また、視線入力を導入するにあたって、そこに書いてある通りにした「ポランの広場」というサイトの運営者である島根大学の伊藤史人先生にもお会いできた。主催者であるICT救助隊の今井啓二さん、仁科恵美子さんともお話しさせていただきました。

今振り返ってみるとICT、ALS界隈のレジェンドばかりで「なんちゅうメンバーや!」と思わず叫びそうになります。

この講座以降、こういう方々の活動をSNS等で見たりイベントでお会いしたりしていると「生きることが当たり前なんだよ」と言われているようで、強く背中を押されました。

人とのつながりが人を生かす レジェンドたちから得た気づき

こうした「人とのつながり」があったから、今こうしてこの場にいられるのです。

ALSという病気は生きる方法が確立された病気とも言えますが、皆さんご存じの通り、一部で言われている「療養生活の過酷さ」ゆえに生きる選択をしない方が多いんです。

そういう背景があるので、周囲もその人のことを思えば思うほど「生きてほしい」とは言いにくいわけです。

そんな中でお会いしたレジェンドたちは「呼吸器は当たり前」「生きる方法があるのだからまず生きる道を模索するべき」という感じなんですね。

そんな彼らの言動は「生きていいのだ」という気にさせるんです。あまりに自然体で。

そこでふと気づいたんです。「あっ、おれは別に死にたいわけじゃないんだ!」ということに。ずっと死と向き合い受け入れることばかり考えていると、こんな当たり前のことまで忘れてしまうんですから恐ろしいことです。

レジェンドたちから大きな気づきを得て、発症から3年が過ぎてようやく生きること、未来のことを考えられるようになったのでした。

2016年の3月以降、一気に生活環境が変わっていきます。

「妻が働き続けられることが最優先」療養環境を整備

前後しますが、「難病コミュニケーション支援講座」の少し前から視線入力によるPC操作を始めていて、「体が動かなくてもできることは意外に多そうだ」と可能性を実は感じていました。

講座に参加したのも何か前向きなきっかけを得たかったからかもしれません。そんな心持で参加した講座をきっかけに私の周辺は大きく変わっていきます。

5月になって講座で紹介を受けた、開設されたばかりの中部リハビリテーションセンター(中部リハ)・在宅支援室のOTが私の暮らしぶりを見学に来られました。

とりあえず日中どのような姿勢で過ごしていて困りごとはどんなことかをヒアリングし、その後数回はそんな軽めのやり取りが続きました。

そのうち生活全般の話になり、さらに先のことも話すようになりました。6月ごろには私が生きる決断をし、生きるための準備を始めようとしたとき、療養環境を構築する上で何を最優先に考えるかを確認しました。

私は迷わず「妻が働き続けられることが最優先」と答えました。

仮に私の介護に妻が深く関与してしまい今の仕事が続けられなくなって、私が死んでしまったら、あるいは逆に介護生活が10年、20年と続いたら妻の生活、人生はどうなるのでしょうか。

自分の生き死にを考えるとき、当時はそればかり考えていました。なので妻の関与は最小限にして他人介護中心にしたいという私の要望に基づいて療養環境を構築していくことになりました。

今思えば妻はしっかりした人なので私がどうなろうとどうにかしたと思いますが、もう、思考がすべてマイナスというか、何事も「大丈夫」とは思えないんですね。

当時はそんなネガティブ思考でしたが、結果として自由をこよなく愛する妻の時間を過度に介護に費やさずに済んだことはとても良かったです。

 「悩んでいるならまず生きる準備をせよ」支援者もフル回転

このころ、日本ALS協会・元理事の川口有美子さんのSNSの書き込みにこんなのがありました。

「悩んでいるならまず生きる準備をせよ」というものです。

これはALSのような24時間の見守りが必要な病気の場合、在宅でその療養環境を構築するのには相当の時間がかかるので、呼吸器をつけるか迷いがある人は生きる準備をしながら考える必要がある、ということを言っています。

公的な手続きを何度も踏まなければならず、手続きが無事に済んで必要な時間を支給されたとしても介助者が見つからないという場合があるので、生きるための準備は早いに越したことはないのです。

そして早く始めたらその先は「先回りして動く」ことが重要になります。

ALSの症状はいろんな部位でバラバラに進行が始まり、その進行の速さもかなり個人差があります。だから「早く始めて先回りして動く」ことが肉体的にも精神的にも支えになります。

私の場合、できるだけ先の状態を予想して、中部リハ・在宅支援室のアドバイスを受け、リハビリ医の意見を盛り込みながら介護支給時間(ヘルパーが介護に入る時間)の申請を6月頃から毎月のように提出していました。

この頃のケアマネージャーを中心とした関係者、とりわけ中部リハ・在宅支援室と地域相談支援センターのサポートは細やかでした。

当時のメールを見てみましたが、地域相談支援センターから「もう明日提出しなければ間に合わない」とか「昨日のものを今朝のメールを反映して修正したので至急確認してください」などのメールが届いていてなかなかの切迫感。

中部リハ・在宅支援室は、私が延命の意思表示をし支援体制を構築していく時期から先々の療養生活と、そこに至るプロセスに対する助言などをいただきました。当時の私達家族はもちろん、他の関係者にとっても心強い存在だったに違いありません。

ケア関係者の中心人物ケアマネージャーに必要な胆力

今振り返って思うのは、ALSのような進行性の病でその後の見通しが深刻な状態に至る場合の急性期は、関わる人、特にその中心にいるケアマネージャーにはかなりの胆力が必要だということです。

 病状が進行するにつれて、新しい課題が生まれ、対応を迫られる。本人も家族もどう対処すればよいかわからず、パニックに陥る場合もあるかもしれない。

そんな中で関係者に状況を逐一報告し、今後の対応を取りまとめ、これからやるべきことを関係者に振り分け、本人、家族に説明。本人、家族が疲弊しているところに、難しい決断を時間を切って求めなければならない。

その決断に従いゴーサインを出し関係者が一斉に動き出す。動きだしたら進捗を確認しつつ、必要に応じて修正など行いながら進めていく。このような一連の動きを何度も繰り返す。

先手を打たなければならないので停滞は許されない。停滞することで対応が後手に回ると本人の判断に影響を与えるかもしれません。停滞は本人と家族の物心両面で負担が増すことを意味します。

その状況を見て本人が生きることをあきらめる判断をするかもしれません。

そんな重責を担うケアマネージャー。実際その仕事ぶりを間近で見ていると、ケアマネージャーが必要な知識を持っていて各方面に指示を出すという形ではないようです。

各スタッフから現状の問題に対する対応策や今後考えられる課題とその対応策などの情報がケアマネージャーに集まり、それを精査したうえで本人や家族に確認し判断を仰ぐ、というのがケアマネージャーの役割かなという印象です。

こうして、利用できる資源を最大限活用して「先手を打つ」療養環境の構築が進んでいきます。

介助内容を文書化した”取扱説明書”を作成

2016年になると腕、首、体幹と徐々に筋力がなくなっていくのを感じていました。そうすると機能低下に合わせて介助のやり方も変えていかなくてはなりません。しかし、このころは構音障害も進んでいて、会話が成立しにくくなってきていました。

全力で必死に声を出して慣れた人が何とか理解できるレベルで、伝わりはしますが非常に疲れます。

そんな状態で介助のやり方を何人もの方に伝えるのは大変な労力だということで、介助内容を文書化した「取扱説明書(取説)」をつくることにしました。

初めは大雑把な内容でしたが、私の言葉で伝える能力が下がっていくにつれ取説の内容は詳細になっていきました。

これは「ガイドブック」と名前を変えて現在まで続いていて、文書版で54ページのボリュームになってしまいました。

この「ガイドブック」は大まかに言うと、介助の基本的なことを解説したページと、具体的な手順を書いたページに分かれています。

当初の取説はあいまいな部分がたくさんありましたが、現在のガイドブックは「介助の手順」と「その介助をするにあたっての留意点」を分けて明記し、見やすさと理解しやすさを考えて詳細に作りました。

 現在はスマホやタブレットでも見れるウェブ版もあります。当初の取説がわずか8ページだったことを考えると、用途も変わっていてずいぶんと進化しました。

現在の用途は、主に新しく私の介助に入る方の研修に使う資料です。研修は指導するスタッフがいる同行研修です。

形式はともかく、「こうしてほしい」ということは文書化して関係者間で共有するのが望ましいです。

 「体が動かないから何もできない」は誤解

私がしたいことは「やりたいことだけをやる」ことだけです。そのためにはまず健康でいなければなりません。

すでにALSになっているのに何言ってんだ、とお思いでしょうが、私は日常的にALSを感じることはありません。

幸い私のALSは「動かない」以外なんの症状もなく、すでに動かないことが日常なので、日頃自分が難病患者で重度障害者だと意識することはありません。

それは私が不当な扱いを受けずに生活できているという幸運に恵まれている証であるとも言えます。そして訪問医、訪問看護、訪問リハビリ、ヘルパーが情報を共有し、私の健康を管理しています。

「やりたいことをやる」ためには動かない体に代わって動いてくれる介助者が必要です。そうやって人の手を借りて写真を撮っています。朝焼けから日の出までの約一時間、数枚から数十枚撮ることもあります。川崎市の空です。

そして写真を1500枚ほど撮って補正してつなげると、こういう動画ができちゃいます。

YouTubeでこの動画を見る

杉田省吾さん作成 / Via youtube.com

こういう写真や動画をスクリーンに投影し、その前でバンドが演奏する「音と写真の即興ライブ」というライブイベントも開催したりしています。今はコロナの影響で開催を見送っていますが、今年はやりたいなと思っています。

また、「川崎つながろ会」という患者会主催の講演会を毎年開催していて、その告知用のチラシを作ったりしています。会の会長の髙野元さんのヘルパー募集チラシも。

身近なテクノロジーが目と指の動きだけでこれらのことを可能にしていて、本当に何も特別なことではないのです。音楽だって創作が可能です。

皆さんに強調したいのは、体が動かないから何もできないというのは完全に誤解で、情報とサポートと本人の好奇心次第でやれることはたくさんある、ということです。

体が動かないのだから何もできない、生きていてもしょうがない、と思っていたヤツが言うのですから間違いないです。

 つながるところから全てが始まる

これまで何度も名前が出ました「川崎つながろ会」ですが、神奈川県の共生社会アドバイザーでALS療養者の髙野さんと立ち上げた地域密着を志向している患者会です。

「つながろ」が会の名前になっているのは私も髙野さんもそれぞれ誰かとつながり、その人たちから様々な形で背中を押してもらって今があると感じているからです。

つながることの重要性は言うまでもありませんが、有益な情報を得ることができ、そのことで生活が一変するかもしれませんし、やりたいことが似ている仲間ができて人生が変わったと思えるかもしれません。

何より個人的に最も重要だと感じていることは「自分の存在を知ってもらい、つながった誰かの存在を知ること」です。すべてはそこから始まると思うのです。

私たちのような立場になってしまうと外部との接触を避け、殻に閉じこもって孤立しがちです。

そのまま誰ともつながりを持たなければその人は社会的に存在が希薄になり、得られるはずの情報、受けられるはずの支援からこぼれてしまうかもしれません。

そうならないためにこの「川崎つながろ会」のような組織を利用していただきたい。これ宣伝じゃなくて、ALS協会神奈川県支部でも構いません(全国各地の支部はこちら)。「つながり初め」で迷ったとき、まずは患者会を利用してみてください。とにかく孤立しないでほしいのです。

 「生きていてよかった」大切な人と未来に向かう喜び

いろんな人とつながって、そのことに感謝する。感謝できるということは、今、生きていることに喜びや幸せを感じているからです。

でも一般的には「寝たきりが喜びとか幸せとかどんだけやせ我慢してんだ?」と思っている人が結構いるかもしれません。

そういう声を聞くと私、笑っちゃいます。

考えてみてください。好きな人や大切な人が笑ったり楽しんだりしている場面に自分も居合わすことができるんですよ? そして未来の話しができてその未来に向かって進んでいけるんですよ?

そういう状況を楽しめず、幸せも感じない。そんな人いるんでしょうか?

私も皆さんとさして変わらない感覚の人間ですから。やせ我慢などではなく、寝たきりでも障害を得ても同じですよ。私も他の人と同じように楽しいし、幸せを感じてあたり前ではないですか?

わたしは「生きていてよかった」と心から思いますし、あの時、私が生きるために動いてくれたすべての人に感謝しています。今そういう人たちに「見てるー?」って手を振りたい気分です。

生きていればあらゆる可能性がある

とはいえ、多くの人は「ありたい自分」、「あるべき自分」という像が強くあって、理想とする自分をイメージしてそれまでの人生を生きて来られたのでしょう。それによって積み上げた信頼や実績、そして自信もあるはずです。

それらを病気によって求められなくなったとしたらどうでしょうか。これからも積み上げていくはずだったものを諦めなければならないとしたら。それも突然。

そんな自分をすぐには受け入れられないかもしれません。もし、そんな人が現れたら、その人が生きることに価値が見いだせなくなっていても、それは肯定して受け止めてください。

その上であなたは、その人に生きてほしいと思ってください。生きることが当たり前のことで、生きていればあらゆる可能性があると信じてください。

それは説得するためではなく、その人の気持ちが揺らいだ時に本当はどうしたいのか、その人が何かを見つけるヒントを与えるためです。

もちろん、それすら簡単なことではありませんが人生の岐路に立ち合う者として、それがいつでもできるように「つながり」をたくさん持っていてください。どうかお願いします。

「ケアマネージャーは胆力が必要」と言いましたが、それは一人で抱える強靭さのことではありません。

様々な「生きる」を支えられる「つながり」を取りまとめつつ、本人や家族の相談役としての役割を果たし、それを長期間に渡って遅滞なく継続する「誠実さ」とも言えます。

実際にやり遂げるのは簡単なことではありませんが、皆さんの胆力に期待し、ご活躍されることを信じております。

最後に、患者本人、その家族、それを支えるケアマネージャー、医療、福祉の人たち、すべての関係者に伝えたい。

できれば広く「つながり」を持ってください。その「つながり」がいつか自分や誰かのよいきっかけにつながるはずですから。

【杉田省吾(すぎた・しょうご)】川崎つながろ会副会長、ALS当事者

1969年、大阪府生まれ。1991年10月、葬儀社の公益社に入社。 2015年1月、ALS発症により退社。2017年1月、気管切開手術を受け、2月より在宅療養。現在に至る。妻と二人暮らし。