芥川賞選考委員の作家、宮本輝さんが「日本人の読み手にとっては対岸の火事」「他人事を延々と読まされて退屈」と評した小説がある。
温又柔(おん・ゆうじゅう)さんの芥川賞候補作『真ん中の子どもたち』(集英社)だ。
両親は「台湾人」、温さん自身も台湾籍で、3歳の時、父の仕事の関係で日本に移り住んだ。だから台湾生まれの東京育ち、作品を綴る言語は日本語——。
この小説で描かれたことは、本当に当事者にとっては深刻でも、日本人には「対岸の火事」で「他人事」といえるのか?
温さんは芥川賞を獲れないことに怒ったんですか?
宮本輝さんの選評に、温さんは怒っていた。
ツイッターでは「さすがに怒りが湧いた。こんなの日本も日本語も、自分=日本人たちだけのものと信じて疑わないからこその反応だよね」と書いた。
しかし、このツイートは芥川賞選考委員の選評に噛み付いた若手作家、という構図で消費され、作品や選評そのものよりも、彼女の言動に賛否が寄せられることになってしまった。
「私は芥川賞ノミネートの時点で満足していました」
《ちゃんと言っておきたいのは、私は芥川賞を受賞できなかったから怒ったのではないということです。
落選という結果自体には納得しています。白状すると、私はノミネートの時点で十分満足していました。候補作に選ばれたら、選考委員をつとめている作家の方々に、自分の作品が確実に読まれるのですから。
しかも彼らは選評をとおして私たちの作品に応答してくれる。これはすごいことでしょう。
私は受賞しなかったものの、最前線で活躍なさる作家たちが自分の作品に寄せてくださる言葉をとても楽しみにしていました。
たとえ、どんなに厳しいことが書いてあったとしても、もっとよい小説を書くためにもしっかり受けとめるぞと思っていたのです。
なので「日本人の読み手にとっては対岸の火事」という言い方は本当にショックでした。
退屈なら退屈でいいんです。文学の読み方は自由だし、感じ方は人それぞれですから。
ですが、この選評からは、私の作品がどう退屈だったのかがまったく伝わってこない。ただ、“日本人の読み手”には“他人事”とだけあるだけなんです。
もしも私が日本に生まれて日本国籍を持った日本人であったのなら、こんな言い方はされなかったはずです。
作品を批評する以前に、日本人ではないという理由で、私という書き手やその作品を日本文学として受け入れていない。そんな選評だったので、すごく寂しく悲しくなりました。
悲しみはやがて怒りになって……。あのツイートになりました。
でも、私がやりたいのは、もっといい小説を書くこと。あとは小説を読んでもらって、考えてもらえればいいと思っています。》
もう、この騒動は終わりなのだ、と晴れ晴れとした表情で語る温さんがいた。大事なのは、やはり小説そのものである、と。
肝心の小説には何が書かれているの?
温さんの小説には繰り返し登場する人物がいる。
一人は台湾にルーツがあり日本語で育った(つまり、国籍とネイティヴの言語が違う)主人公だ。
もう一人は台湾語に中国語、それに片言の日本語を絶妙に(彼女の作品の言葉を使えば「適当適当」に)織り交ぜて使う母親である。
『真ん中の子どもたち』の主人公、天原琴子とその母もこれにあてはまる。
琴子は台湾人の母と日本人の父という家庭に生まれた。そして、母の言葉でもある中国語を勉強しようと、上海の語学学校に留学する。
名付けられないものを描いた作品
彼女は日本では「あいのこ」と呼ばれ、中国では“日本人”にしては中国語はうまい、しかし母親が台湾人なわりには下手だと言われる。
日本人にも、台湾人にも、中国人にもなれない琴子は自身のアイデンティティを模索する。
台湾人の父、日本人の母を持つ玲玲(リンリン)と、日本に帰化した中国人の家庭に生まれた関西育ちの舜哉といった友人とともに。
主要な登場人物は3人とも特定の国籍、ナショナリズムではくくれない存在だ。
琴子より中国語がはるかにうまい玲玲が「南方訛り」(台湾語のアクセントが強い中国語)をバカにされる描写もあるし、舜哉の祖父母が帰化を選択する歴史は、日本の戦争の歴史と重なってくる。
彼らは、それぞれに悩みながら名づけられない、大切な何かを獲得していく。
お互いに好意を持っているような気はするのだが、友人なのか恋人なのか、どこかはっきりしないまま描かれる琴子と舜哉の性描写が象徴的だ。
言語を介在させずとも、個人として受け入れられる世界=性を通じて、琴子は政治的なカテゴライズから解放されていく。
「決めつけ」から自由になるということ
《小説の中で、アジアのなかで歴史的に日本語が持ってきた政治性というのも描いています。
そして、ルーツというのも大きなテーマではありますが、大事なのは、それが琴子や玲玲のすべてではない、ということです。
私は、言い切れないもののなかに人のおもしろさがあると思っています。
彼女たちも自分は「何人」なのかという定義に戸惑うのだけど、定義がどうであれ、友だちとはしゃいだり、美味しいものを食べたり、日々を刻々と楽しんでいる。
線引きされていくこと、決めつけられていく自体の暴力性というもの描きたいんです。
「台湾にルーツがあるから、こういう人」という決めつけから、彼女たちは自由であってほしかったんですね。
だから、琴子が舜哉とからだを重ね合うシーンは描いていて楽しかった。
そこにあるのは、解放感ですよね。何語というカテゴライズではなく、言葉そのものが溶け合っていくような感覚を味わっていると思うんです。
その先に、個人として開かれていく場所がある。》
本当に他人事?
琴子たちは、確かに国籍や言語、歴史に起因するアイデンティティに悩んでいる。
それだけを取り出せば、日本国籍=日本語ネイティヴには“他人事”だと言えてしまう人もいるだろう。
しかし、小説に描かれているのは「それだけ」ではない。
誰かが決めた線を越えていく個人、「ルーツが〜〜人」「〜〜はこういうやつ」だからといった決めつけから自由であろうとする個人の姿がある。
国籍という線引きではなく、いろんな文化の中心点、つまり真ん中に彼らはいる。
物語自体は「平板なのはたしか」(芥川賞、奥泉光さんの選評より)だが、温さんが掬いあげようとしたテーマはもっと普遍的なものだ。国籍でわかる/わからないが決まるものではない。
「あなたは日本人なのか外国人なのかはっきりしてくれ、といったふうな二者択一を迫る状況はもはやナンセンスに思えます」
温さんは日本のロックバンドTHE YELLOW MONKEYが大好きだと公言している。3歳から日本に住み、ポップカルチャー、漫画、本の影響を受けて育ったという。
《国籍は台湾ですが、趣味や考え方は、ほとんど日本人のようなものでしょう(笑)。
同時に、私は自分を台湾人だとも思っている。台湾で生まれ育った台湾人とは違うのだけれど、こういう台湾人がいてもいいと思うんです。
国籍のみで、私を何人なのか線引きしようとしても、ちょっと無理がある。そして、私のような立場の人は既に日本にたくさんいます。
こうした人たちに対し、あなたは日本人なのか外国人なのかはっきりしてくれ、といったふうな二者択一を迫る状況はもはやナンセンスに思えます。
「当事者」「非当事者」という線引きからも自由でありたい
こういう発言をする私は、「当事者」だから説得力がある、とみなされることがあります。
適当なことを私が言ったとしても、「当事者」であるというだけで、それらしく受けとめられることもなくはない。そのことには気をつけないと、と思っています。
そもそも、「当事者」であるというだけで、ある問題に関して何もかもを正確に把握しているとは限らない。
むしろ、「非当事者」だからこそ、その問題に関する重要な部分を掬いとれることもあると思うんですよね。
少なくとも私は、「当事者」「非当事者」という対立構造に囚われたくない。
考えてみれば、「当事者」か「非当事者」か、というのも線引きですよね。要するに私は、あらゆる線引きから自由になりたいと思っているのかもしれません。
私も、私の「移民小説」を書いてみたい
その線ってどこにあるんですか?
引かれた線は絶対的なもの?
もっと柔軟に考えることができるんじゃないですか?というのを問いたいんです。
その先にある、もっと開かれている「私」、もっといろんな言葉が混ざっていく日本語というのを考えてみたいんです。
私みたいな作家は日本ではまだ少ないかもしれないけど、世界には例えばジュンパ・ラヒリ(インド系アメリカ人)や、イーユン・リー(中国系アメリカ人)のような素晴らしい作家がたくさんいます。
彼女たちの作品に感動させられるたびに、私も、私の「移民小説」を書いてみたいと夢がふくらむのです。
大多数の日本人が想像する以上に、日本語は豊かで柔軟なものですよ。それを私は、小説をとおして表現したい。》
それは世界文学の流れとリンクする
ジュンパ・ラヒリやイーユン・リーだけではない。
最近なら、アメリカ生まれのナイジェリア育ち、そして再度アメリカに移り住み、デビュー長編『オープン・シティ』を発表したテジュ・コールもいる。
彼らが生み出す作品は、小説の世界そのものを豊かにしている。
大きな主語では語れない、小さな物語の先に広がる<世界>を温さんは見据えている。決められた線引きを無効化して、流されず「真ん中」に位置する。
そんな世界文学の動きとリンクしつつ。